「読者のみなさんへ-オットー・H・フランク
アンネの日記を読まれた方はお気づきのことでしょうが、アンネの日記のどこにも、人を憎んでいるところはありません。アンネはどのようなことがあっても、わたしは人間の善を信じている。と、書いています。そして、戦争が終わったら、この世界と人類のために、働きたいともしるしています。
不幸にしてアンネは、その志をえずに亡くなりましたが、生き残った私は、このアンネの遺志を、自分の義務として受け継いできました。そして、私は実に何千通もの手紙を受け取りました。
その中で、なぜ、このような悲惨な恐ろしいことが起ったのか?どうしても知りたいと、何度も何度も問いかけてくるのは、若い人たちなのです。
私は自分の力の及ぶかぎり、その人たちにお返事を書きつづけるつもりです。そして、私はたびたび手紙をこう結びます。
「アンネの日記が、事情が許すかぎり、平和と相互理解のために働こうとなさっていらっしゃる、あなたの人生の指針となり、あなたの心の成長の糧となることを願っています。ー」 1979年秋」
「恐ろしい計画-
1939年9月、東どなりのポーランドを征服したヒトラーのドイツは、あくる40年5月、西どなりのオランダに攻めこんだ。オランダ軍は、力のかぎり戦ったが、各地で敗れ、5月14日、5日には全軍降伏し、ウィルヘルミナ女王は、家族とともに、イギリスにのがれた。
そして、ドイツ占領軍による、ユダヤ人いじめが始まった。まず、ユダヤ人は公職、学校から追放され、公園などへの立ち入りを禁止された。
あくる41年10月22日には、すべての職業を奪われた。つまり全員、失業してしまったのだ。
ドイツ占領軍は、オランダ全土に約12万人のユダヤ人がいるとにらんでいた。そこでユダヤ人全員に、胸に黄色い星のマークをつけさせることにして、実数をつかもうとした。
さらに北オランダのベステルボルグに巨大な収容所を建設し、オランダ中のユダヤ人を全員捕えて送りこむことにした。しかし、そこは仮の宿にすぎなかった。ポーランドのアウシュビッツはじめ、死体処理装置をそなえた死の収容所が完成しだい、片っぱしから列車で送りこむ手はずを、着ちゃくと整えていたのである。」
「隠れ家づくり-
オットーは、若い頃ドイツ陸軍の中尉だったし、BBC放送などをラジオで聞いていたので、自分たちに迫ってくる恐ろしい運命を早くから予知していた。
「家族全員、スイスのわたしの母のところに逃げるべきだろうか? いや、ドイツ軍の警戒網を突破することはとても無理だ。それよりも、アムステルダムの市内に隠れ家を作り、そこで、戦争が終わるのをまとう」
オットーの頭に浮かんだのは、自分が社長をしていたトラフィース商会のプリンセン堀の事務所兼倉庫の建物だった。
「あの建物のうしろには、同じ4階だての家が、廊下でつながって建っているんだ。水の都アムステルダムには、むかしから多い形式だが、歴史にうといドイツ軍は知らない。3、4階を隠れ家に改造しよう」
だが、うしろの家には、裏庭に面して、いくつもの窓があり、向こうに何げんもの家が見えた。こちらから見えることは、向こうからも見えることである。そこでオットーは、当時、どの家でもやっていた、爆弾の爆風よけの紙テープを、すべてのガラス窓に、じゅうおうにはった。
さらに、前の建物からうしろの家へ通じるドアの前には、目隠し用の大きな回転本棚を設置することにした。」 」