「仙台藩祖伊達政宗が、はじめて仙台に入部したとき、万代(ばんだい)の栄えを祝って、こうよんだといいます。
入りそめて国ゆたかなるみぎりとや 千代(ちよ)と限らじせんだいの松
はじめて入ってみると、ここはたいへんゆたかなところだ。名まえも千代(せんだい)というのだそうだが、なにも千年に限る必要はなかろう。仙台の松よ、いついつまでも万世に栄えてくれよ。そういう意味えす。政宗が仙台に築城し始めるのは、慶長5(1600)年。関ケ原の役も終わった年の12月のことでした。そして、翌年には、この新城を仙台城とよび、城下町の割り出しもはじめて、慶長8年には、新城移転をまったく完了しています。
それまでにも、センダイという名の城はありました。しかしそれは千代(せんだい)城という名まえでした。仙台城ではありませんでした。政宗はその千代城の位置に、あたらしく近世の城を築き、これを仙台藩とよんだのです。これは、単なる名称変更ではありませんでした。それまでの千代城主国分氏というのは、ただ山城をもっていただけでした。城下町のようなものは、まったくなかったのです。政宗は、城の規模を一新しただけでなく、城下町というものを創造して、城の性格を一変してしまったのです。
(略)
この城がどのようにいかめしく、堅固で、その城下の町が、どのように新しい繁栄を示していたかについて、築城後10年して、この城に入り、われわれが今日そうするように、青葉城天守台から、仙台を眺めた一外国人が、記録を残しているのです。スペイン特使大使セバスチャン・ヴィスカイノの『金銀島探検報告』でう。この人は、日本の東方海上にあるとされていた金銀島を探検しようとして、伊達政宗と接触をもつことになります。政宗は、この人の技術協力で、大洋航海の洋式船を建造することができました。そして、その家臣支倉六右衛門常長を、ヨーロッパに派遣することになります。そのスペイン大使ヴィスカイノが、表敬訪問に、仙台城をおとずれます。1611年11月10日(慶長16年10月6日)のことです。そのときの記事です。
「11月8日、仙台に着いた。領主伊達政宗は、帝国の最も強大な領主の一人で、皇帝(将軍)に次ぐ人である」「司令官(ヴィスカイノ)は、王(政宗)を訪問する許可を得た。10日王は多数の貴族および兵士を出して、これを宮中(城中)に向えたが、その接待は、江戸におけると同じであった」。「われらは、多数の人に守られて、城に着いた。城の諸門には、多数の兵士が整列していた。城は、かの国の最もすぐれ、また堅固なものの一つで、水の深い川(広瀬川)で囲まれ、断崖の岩山(青葉山)に築かれている。入口は一つである。城からは仙台の町を見おろすが、町は大きさは江戸と同じで、家屋の構造は江戸にまさっている。約八キロで、海を望む」
仙台の町が江戸より大きいとかりっぱとかいうのには、誤解か誇張があるかもしれません。ただ、同時代の外国人に、政宗という人、仙台城という城、仙台という町が、どう映じていたかを知るうえで、これがまことに興味深い記事であることはわかると思います。
仙台城は、はじめ、天守台と呼ばれる本丸に大きな公館を置くだけの城でした。二代忠宗のとき、本丸下の低平な場所に二の丸を設け、ここに政庁を移しました。大橋を渡ってすぐの坂を登りつめた場所、復原された角櫓(すみやぐら)が、わずかに栄光の昔を語っています。ここには、政宗が秀吉から肥前(佐賀県)名護屋(なごや)城の城門を拝領し、移建したと伝えられるりっぱな大手門があって、62万石の威容を誇っていましたが、昭和20年7月の空襲で焼失しました。二の丸の東南、一段下がって三の丸が、さらにおくれて四代綱村のころにたち、これで仙台城の規模は、そろいました。二の丸跡は今日、東北大学キャンパス、三の丸跡は仙台市立博物館の敷地になっています。
本丸の跡、仙台市街を一望のもとに見下ろして、伊達政宗の騎馬像が立っています。やや離れて「荒城の月」詩碑がおかれています。作者土井晩翠は仙台の生んだ詩人。旧制二高教授。悲壮をうたった詩人として、繊細な島崎藤村と並び称されました。晩翠は昭和27年に亡くなりました。10月19日はその命日です。晩年の晩翠忌には、詩碑前に、美しい荒城の月のコーラスが樹間を流れます。(略)
大手門脇には、慶長18(1613)年、主君伊達政宗の命におり、ヨーロッパに使した支倉六右衛門常長像が立っています。「奥州伊達政宗は、皇帝(徳川家康)に次ぐ人物で、次に皇帝になるとも目されている人だ。日本を代表して、国家と国家の取りきめを結ぶ資格を十分持っている」。この使節はスペイン国王やローマ法王にそう説いて、奥州王外交をヨーロッパに展開したとされています。さすがにその主君に見こまれただけのことはある剛健の面魂に、この伊達侍は立っています。
三の丸跡には、中国近代文学の父魯迅(ろじん)の碑が建っています。魯迅は東北大学医学部の前身、仙台医学専門学校に入学(1902年)、医学を志したのですが、ここで民族の心をいやす文学に転向するのです。碑はその仙台留学を記念するものです。」
(岩波ジュニア新書『東北歴史紀行』49-56頁より)
⇒続く
支倉六右衛門常長、2019年12月宝塚大劇場、2020年1月東京宝塚劇場にて上演された宙組『エルハポン‐イスパニアのサムライ』にてすっしーさん(寿つかささん)が演じていました。振り返ればこれが純粋に観劇を楽しむことができた最後だったのかもしれません。現在オンデマンド配信中ですが、何度みても最終的に物語として楽しめます。退団されるすっしーさんの常長、史実の人物像をよく体現されていて印象深いです。
宙組『エルハポン‐イスパニアのサムライ』_少し復習と予習
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/bfa3396c1ebf7e9a399fb24be6832e60
「所期の目的を十分遂げることができなかったにしても、常長はローマ法王にまみえて使命をはたし、7年後の元和6年(1620)8月26日、月ノ浦に無事帰着したのであるから、わが国をはじめて世界史の舞台にのせた人物として、その功を高く評価しなければならない。ただ常長にとって悲劇的なことは、折から幕府のキリシタン弾圧が、彼の帰国を待っていたことである。帰国後2年目の元和8年(1622)7月1日、52歳で没したと伝えられる。遣欧の記録や資料いっさい、世にあらわれることもなかった。」
仙台、若かりし頃、幾度となく一人旅した思い出の地。