10月6日に下書きしていた記事、状況が少し整理できてくると事実は変わらないのだという重さにわたしなりにどうしても気持ちが揺さぶられ、とても苦しくなることもあります。ずっと浮いたり沈んだり、どこにも絶対的な答えはない、なにがよくてなにが悪いという白黒はっきりしたものはどこにもない、なにがどうしてなのかわからない、どこにも答えのない答えを探し求めながら生きる、この曖昧さを引き受けていく強さがこの世に残されたものには必要なのだとあらためて思う日々。
妹が自宅にて自死したのは1994年9月、父親が88歳で亡くなったのが2010年9月、統合失調症を発症していた母親が78歳で亡くなったのは2012年2月、妹の亡くなった現場を最初に発見したのは母親、病気の症状が強くなることでしが自分を保つことができなかったのかもしれません。
自死遺族の会の参加要件は、その立場であること。自治体が運営している会で事務職として採用された職員2名と精神科医2名が同席、ファシリテーターは遺族支援をしているNPO法人。同席していた自治体職員が壮絶な体験を聴き続けていてご自身がわからなくなり亡くなってしまったことが以前あるという話をその後常連さんからききました。それぐらい重いこと。現場の第一発見者となった方もいらっしゃるので、わたしも自死遺族という立場でなかったらとても聴くことはできないだろうと思います。この日子供を亡くされたという親御さんがたくさんいらして、こんなに若い人が自死で亡くなっているのかと驚いたこと、今もよくおぼえています。この時は知りませんでしたが、若者の死因の第一位は自殺という日本の姿を反映しているということでした。
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2013年6月母の一周忌が終わってなんとなく少し気持ちが一段落したかなというところで始めたこのブログ。それまであふれるような思いを手帳やメモ帳に書かないではいられませんでした。そんな手帳日記の一ぺいじ、久しぶりに振り返り。この世にいる時間の終わりもみえてきたので、この世にいられる間に可能な範囲で振り返りもやっていきたい。もがきにもがいてきた挙句どこにも辿り着くことができなかった一個人の長い長いひとりごとです。終着点は生れる前からの右足股関節脱臼による変形性膝関節症の末期、普通に歩くことができない身で終末期の日本にもはやなす術なし。
「2012年5月1日(火)少しムシムシする
はじめて自死遺族の会に行ってみた。本当によかったのかどうかはわからない。子供を亡くされたという方が多かった。世の中にいるんですね、同じ立場の方が。思わず自分のことを喋ってしまって疲れている。夢をみていたような気がする妹の死がリアルに自分の中で蘇ってきてしまった。そういう自分を引き受けながら私はこれからも生きていかなければならない。普通の生活を営む。営むことができている。それってすごいことだし、十分じゃないか。私はのたうちまわりながらも外に出て経済活動を営み、家賃を払い続け、人に迷惑をかけることなく、通信教育を続けPSWにも受かり、人の2倍も3倍も働き続けている。私ってえらいじゃん、すごいすごい、十分じゃないか。
ずっと自死遺族の方の話をきき続けるのは私にはきついかな。
今の職場でいいのか。違うだろう。
6月はこりずに(土曜日の)某市(の自死遺族の会)に行くかもしれない。ドロドロに耐えられなくなった時には逃げられる、そんな立ち位置で風の向くままに、そんな気持ちになったら足を運べばいい。それでいいんだ。母がいなくなったばかりで時間のかかる話だ、ゆっくり行こう。そんなに簡単ではないんだからさ。
アフタヌーンティーにて
それにしても神様は私に何をさせたくってこんな試練を与えているんだろう。私は命ある限り問いかけ続けながら生きていかなければならない。色々な思いがめぐって終わることはない。今の社会のシステム・スピード・機械的なマニュアル通りのことの多いドライさは私にはこたえる。そんな中を私は生きていかなければならない。どうしてなのかはわからないけれど、神様に試練を抱えられる人として選ばれてしまった。私は生きていかなければならない。ありがたいことに職場でガタガタと働いていれば何も考えなくてすむ。仕事があるってすごいことなんだな。
それにしても、はじめての場で、自分のペースで喋ってしまって本当によかったのかな・・・。
私には逃げられない現実がある。あんまりまともに考えてるときついから時々忘れてしまうことも許してしまおう。私は一生懸命生きている。それでいいんだ。自分の幸せをこれからは探して行こう。妹の分まで幸せにならなくっちゃね。きっといつも見守っていてくれる。こんなねえちゃん、笑いながら応援してね。
子供を自分が死なせてしまったと責めている方の話をきいてしまったら自分のことを話さないではいられなくって話してしまった。そしたら自分がすごくきつくなっている。リアルに色々と思い出してしまった。きつい。このきつさと私はこれからもつきあっていかなればならない。また終わらなくなってしまった。母もいなくなったばかりでやめとけばよかったのかな・・・。
本当に行ってよかったんだろうか。
壊れそうになりながら、それでも私は生きていかなければならない。
ひと一人の死、簡単なことじゃあないんだ。この事実が変わるわけではない。どうあがいても変わらない。それでも私は命ある限り生きていかなければならない。経済活動もしなければならない。きついっすよ。自分をほめてあげよう。胸かきむしるように自分を責め続けた日々があった。もうやめよう。幸せになろうよ。妹も泣いている。私がいつまでも泣いていたら妹だってきっと悲しい。
10数年にわたるのたうちまわるような時をすごしてきた。自分を責めて責めて責め続けたきた。次に妹に会う前に幸せにならなくっちゃ、おこられちゃうよ、笑われちゃうよ。幸せになることを考えなくっちゃ、時間がそれを許してくれる。それでいい、それでいいんだ。
スパにて」
「2012年5月13日(日)
土日も東京に出て気持ちは充たされているが体はへばり気味。一週間前のことだが川和グループはどうにもなんだか今ぎこちない感じだ。N島さんの話をまあ辛抱してきいている間に何を本当は言いたかったのか忘れてしまう。心の中で言葉を整理しながら自分に語りかけるように言いきかせるように話すので一度違うところにいってしまうとわからなくなってしまう。
スキがないというU田さんの指摘だがそれも仕方ない。なんだか責められているように私が感じてしまうのも仕方ない。どうしてなのかわからないが、ある日突然妹は自ら命を絶ち、母は統合失調症になった。私が選んだわけではない。なぜなのかはわからないがそういうものを背負いながら生きていかなければならない人生に気づいたらなっていた。そんなに簡単に受け取れることではない。
昨日のアンセミナーで、over繰り返しという説明が侑子先生からあったがなんどもなんどもリフレイン。終わることはない、自分が生きているかぎり。ただ時々忘れたい。自分が生きているためにはそうしないときつ。そういうことも許される時期にきたと思う。
フォーウィンズのセミナーをききながらなぜか2014年のエジンバラ大会に自分が行くことを想像してしまった。そんなことはありえないのだが・・・
今は私の力をNKに注いでいる。母が亡くなってまだ時間がたっていないし仕方ない。でも、もう少し時間がたったら自分の役割がみえてくるような気がする。色々なことがつながっているような気がする。だって私は自由になった。思ったよりも早く。残りの人生に経験値を還元させていく。それでこそ、妹の死も母の病気にもムダにならない。「すべての精神障害のルーツは乳幼児期にある。」私にはきつい話だが、私自身は病気ではない。妹と母が私の分も背負ってくれた。その分私が生きていく。ただし無理はいけない。逃げ道を持っていること。富木島の子供たちのために手伝えないかなあ、東北の復興にお金を出しつつ手伝えることないかなあ、子供を産んだことのない私がこんなことを考えるのもヘンかもしれないが・・・。 」