先に、日本の職場では男性の女性に対する依存度が高いことを記したが、ここでアンペイド・ワークという観点から、OLの職場における「女房的役割」と主婦の無償労働の類似性について検討してみたい。構造的には弱者であるはずの女性が実際の職場生活においては優位な立場にあるという男女の力関係は、タキエ・リブラが述べた家庭における妻と夫の力関係に似ている。日本の家庭における夫の妻に対する完璧なまでの依存は、妻に何がしかの力を行使する余地を与えている。妻の献身が夫にとって必要不可欠なものとなればなるほど、妻は夫に対し一定の力を行使しうることになるからである。女性に対する男性の依存度が高ければ高いほど女性は権力を行使することができるのだ。日本の主婦はたいてい生活費をまるごと管理している。夫の小遣いの額を決めるのも、へそくりの額を決めるのも家庭の経理部長であり、財務部長である妻が決定権を持っている。財布のヒモを握っている故に日本の主婦は地位が高い。さらに、日本では夫は身の回りの世話を妻に頼りきっていることが、家庭内で女性が持つ奇妙な力の源であるとタキエ・リブラは説明している。小笠原祐子が引用して述べているところによれば、日本の夫の「まるで子供のような妻への依存」、すなわち妻からの手助けなしにはやっていけない状況が、妻の力の行使を可能にしていると考えられる。妻に身の回りの世話をやかせているのはまさしく父権であるが、その結果成立するのは母権である。つまり、日本の家庭においては父権と母権が併存している。そして、外的構造を無視して家庭の中だけに注目すれば、日本の女性は男性よりも、またアメリカの女性よりも力が強いと言い得る。[i] 職場においても、OLはしばしばこのような奇妙な力を持つ「社内妻」になぞられる。それは、繰り返し記してきたOLの役割と仕事の内容の質によるのである。社会全般において、社会的労働・有償労働には普通計算されない家事、育児、介護、そして教育や環境保全にかかわる無償労働は圧倒的に女性のみによって担われている。同様に、職場においても社内妻になぞられるOLの仕事は、「職場の家事」が大きな役割を占めていると考えられる。日本では職場においても家庭においても、多くの女性が男性の身の回りの世話をし、また、女性に身の回りの世話を頼っている男性が存在するのである。だから、「OLを敵に回したら、サラリーマンは生きてゆけない」[ii]のである。
第二章で、家事労働の意味づけについて女性の「愛情表現」であることを記しているが、ここでアンペイド・ワークという概念を用いながら、OLの「職場の家事労働」も含む「家事労働」は意味づけが困難で評価されにくいものであることを考えたい。アンペイド・ワークとは、日本では「無償労働」とも訳され、近代社会の賃労働成立の過程で賃労働に対して、賃金が支払われない労働を意味するものとして定義されるようになった。日本では、1997年に経済企画庁が初めて「家事の値段はいくら?」という試算を発表した。この試算は、正式には「無償労働の貨幣評価」と呼ばれ、賃金はもらっていないが、人間の生活に必要な労働が、社会の中にどの程度あるかをつかむためのものであった。[iii] いわば「見えざる労働」を見える形にしたという意味では、これは大変画期的なことであったといえる。アンペイド・ワークという概念は、目の前にあるにもかかわらず生産概念や経済学から体系的に無視されてきたような、たいへん多様な労働をそのまま把握するためにあみだされた実践的な概念だといえる。[iv] アンペイド・ワークに注目することは、「隠れていた労働」「見えない労働」を目にみえるものにし、女性の地位を上げることにある程度貢献するであろう。「主婦」の「家事労働」は、第二章でも少し触れているが、通常の統計では測定されてこなかったアンペイド・ワークである。専業主婦は、「三食昼寝つき」「夫に養ってもらう身分」「家庭で行っているのは消費活動」などと言われて、あたかも生産労働に従事していないかのようにみなされてきた。
「主婦」が誕生したのは、第二章で見たとおり、欧米では産業革命後である。家族が共同で農作業や工業生産に従事する体制に代わって、企業による大規模生産が一般化する。賃労働成立と共に近代家族の機能が消費と子育てとに縮小していく過程で近代的性別役割分業が成立していき、「主婦」が誕生した。当時台頭してきた市民階級は、女性の本質によって女性の役割を、男性の賃労働と対比させて家事労働に固定した。女性の「美しいふるまい」としての家事労働は、女性の本性からただちに生じるものとみなされるようになったのである。B・ドゥーデンは、18世紀にドイツで発表された『女性の性格描写試論』という一文を当時の知識人たちが描く理想の女性像として紹介している。少し長くなるがここに引用してみたい。
「われわれは自分たちの目を、愛すべき対象、善良で家庭的で高貴な女性、つまり、子供たちの楽しい集まりとともにあり、母としての美しい役割を果たし、夫との仲睦まじい交わりの仲に見出される女性に向けてみよう。そして、それなしにはわれわれのもっとも効果的で長続きのする善き事を目指す動機がしばしば失われることになるであろう、そういう一つの性に対して、ここで内面的な敬意を払うことを学ぼう。われわれの周囲、社会的な生活集団において、やさしく善良で啓発的な一家の母のイメージほどに、心を惹きつける、思いやりのある、教訓的で高貴な人間像はありえない、ということを私は強く主張したい。諸君の目が、この愛に満ちた品位のある家族の女神につき従ってゆくところ、いずこにおいても、諸君は作為や故意といったあらゆる無駄を経験することなしに、家庭的秩序、家庭的質朴、家庭的調和、そして、穏やかであるがそれだけにいっそう愉快で無邪気な生活の楽しさを見つけ出すだろう。母および夫人としての家事執政官としてのその美しいふるまいのすべては、彼女をとりまく人々に快活さと愛を幅広くもたらしている。・・・貞淑さと穏やかさが彼女の行為ひとつひとつを特徴づけている。・・・愛情のこもった抱擁の中でも、あるいは夫や子供たちの機嫌が嵐のように荒れ狂っていても、高貴な女性の心と言葉は貞淑さと穏やかさを見失うことがない。」[v]
「家事」は本当に「女の本質」によって根拠づけられるものなのか。ここで、アン・オークレーの『家事の社会学』を参照しながら、「家事」について少し考察してみたい。「家事」とは、大半の女性が生活の中で日常茶飯にする経験であり、特に誰かがほめてくれる性質のものではない。何をいつやるのかある程度自分の思い通りに決めることができるので「自分自身が快適であるように」[vi]と心がければ、いくらでも快適にすることができる、そういう意味で自律性をもつ。しかし、同時に自分自身が主であるということは、自分が確認義務を負わなければならないので心理的な圧力を感じてしまう、管理されているわけではないが、自分自身の活動を選ぶほどには自由ではない、という点で他律的であると言える。家事は同じ行為の繰り返しを限りなく要求される「きりがない女の仕事」なのである。目には見えない非建設的な性格を持つ家事は、取るに足らないものというステレオタイプ的な考え方は主婦自身にも内面化され、「単なる」とか「ただの」主婦といった、他のどんな職業よりも劣っているものだという暗示を含んだ言い方をする。単調で繰り返しの多い労働は、多様なものに比べ、仕事に対する不満と結びつきやすい。主婦自身が家事に向ける不満は、それが本質的に単調で反復的だということにある。家事にはさまざまな仕事があるが、絶えず繰り返されなければならず、本質的な意味が捜せず、しかも達成したという感じが一時的である。明けても暮れても同じ決まりきった仕事を機械的にこなす完璧な主婦ほど、「自動的」なものはない。家事の単調さは、それをやりがいのない仕事にかえてしまう。全体的な注意力など必要でなく、ひたすら、些細なことに神経を使うために何か他のことに集中するのは無理なのである。このように単調さと細切れは密接につながる。そして、毎日、果てしなく続く仕事をこなしながら、いつもやることがいっぱいあるという思いにつきまとわれるのだ。また、家事はあまりにも細切れなので、今やっている仕事のことを考えていると報告する主婦はほとんどいない。さまざまな技能が必要だが、完全な精神的集中力はいらない。家事が多種多様な仕事の寄せ集めであるために、主婦の注意力はあちこちに分散する。さらに、自分ではどうすることもできない時間的束縛を他の種類の仕事に比べより強く感じてしまう。要約すれば、単調、細切れ、及び時間的な束縛は、家事について主婦が共通に感じていることだということになる。[vii] このような家事労働について、主婦は自分自身で仕事の定義を見つけ管理しなければならない。
有償労働の中に隠された「すきま業務」、多くの場合OLに割り振られる、労働として評価されない「職場の家事」もアンペイド・ワークに含まれる。OLの職場での役割と先に記した主婦の家事労働とは、毎日同じことの繰り返しで単調、こまぎれ、オーバーペースであるという点できわめて似通った性質をもつのである。女性は職場でも、ファックス・メールやテレックスの確認・仕分け・配布業務、ごみ捨て、来客へのお茶・コーヒー出し、洗い物をする、ポットにお茶を入れる、給湯場清掃、会議の準備・後片付け、書類のファイル及び保管、企業内外の書類運び、郵便物の回収と仕分け、電話取り、電気つけ、庶務(切符・慶弔・その他の手配)、取引先へのお土産をととのえる、コピー機やファックスの紙詰まりを直すなど、一般事務と一口に言っても、OLが毎日実際に行っている仕事は、このようにマニュアル化されない不定期な他人の世話という部分が多くを占めている。その仕事内容はあまりにも切れ切れで細々としているため、やっている女性自身も自分の仕事であるという感覚を持つことが難しい。自分では管理することのできない要因による制約があるため、受身的にならざるを得ない。頼まれ仕事を引き受けるのは、OLにとって仕事というよりは男性のためにしてあげる「サービス」である。しかし、日本の男性は、女性が責任範囲外の仕事を頼まれても嫌とはいえないと思い込んでいる。だから、正規外の仕事を女性にやらせることはあっても、同僚の男性に頼もうとはしない[viii]。女性は受身的であるという性のステレオタイプが暗黙のうちに受け入れられてしまっているのだ。男たちは、占有する「高度な仕事」、「世界を相手にする」ビジネス、「会社の命運を賭けた」プロジェクトなどに集中したいと考える。その集中を妨げられないように周辺の、前後処理の「職場の家事」を女たちにまかせている。本務以外の雑用が女性というだけで押し付けられる。女性に求められているのは、男性が雑念を持たず「大切な仕事」を気持ちよくできるような環境を整えることである。「女性の特質」だと企業社会を体現する男性が考え、性別職務分離を正当化している、ソフトな対応、思いやり、ケアに適した性格などを仕事に生かして男性を補佐することをOLは求められている。仕事のスキル以上に、対人コミュニケーション能力が必要とされるOLの役割は、「主婦」という性役割と同じ性質をもつのである。「家事って炊事や育児とかの一つ一つのことじゃないのよ。家族が次々持ち込むごたごたの総和なのよ」(竹信三恵子「連載・家事神話」『WE』1999-2000年) [ix]という主婦の発言があるが、雑用係としてのOLの仕事にも、このような性格がまとわりつくのである。一人で複数の男性をサポートすることが多い日本の職場では、OLはしばしば「母」と表現されることもある。OLに求められるのは、先に述べられているような母性豊かな穏やかさ、人と調和していく能力であり、いつも笑顔を絶やさないでいてくれることを職場の男性は望んでいる。このような性格の仕事にはふつう「おじさん」はまぬかれているしんどさが伴う。一つ一つの事と事との間に横たわるそのしんどさは、言葉では非常に言い表しにくいものであり、評価の対象にもならない。従来、労働市場において、「男の仕事」・上位職務を特徴づける要素としての知識、「問題解決能力」、人事・財務の「統括責任」などが高く評価されるのに対して、「女の仕事」・下位職務にまとわりついている要素は軽視または無視されてきた。「女の仕事」の労苦は「男の仕事」の知識に比べて極めて市場価値が低い。誰かがやらなければならない「すきま業務」は、「女の仕事」であることを理由に労働市場において過少評価されてきたのである。
男性からみればOLは些細なことに、不当に、しかも脈絡なく腹を立てるように感じられる。小笠原祐子は、女性の気まぐれな性格を警戒する代表的意見として、ある研究所勤務の男性の次のような言葉を紹介している。「女性って、つまんないことで、文句言うところがあるでしょう。電話を取るのが遅いとか、後片付けがしっかりできていないとか。仕事がたいへんだ、あの上司は詰まんない仕事を押しつけるとか、陰で文句を言う。女性がかたまると、つまんないことでも大きなことになってしまう。陰口とか広まってしまう。要は些細なことでそうなっちゃう・・・。男も悪口をいったりはするけど、些細なことでそんな騒ぎにはならない。ほんの些細なことで女の子に文句を言われたと、よく同僚とか後輩の男がこぼしている」[x] 電話を取るとか後片付けをするとかは、それらを仕事としてカウントしていない男性から見ればつまらないことであるだろう。しかし、そうした「見えざる労働」を要求されるOLから見れば、決してつまらないことではないのである。下位に位置する単純・補助労働も日本経済に不可欠の営みである。実際にOLなしでは、どこに書類がファイルしてあるのかわからなかったり、コピー機の紙詰まりを直せなかったり、出張旅費の払い戻し方法がわからなかったりする男性が多い。難しい商談を成立させても、女性が必要書類をそろえ事務手続きを滞りなく行わなければその商談は正式には成立しないのである。にもかかわらず、「すきま業務」は、ほとんど仕事としては評価されていない。ある女性が先に記したような雑業の時間を計測すると一日一時間以上となった。この分だけ労働時間を短縮すれば13%の賃上げと同じ効果がある。 (『朝日新聞』97年3月22日、ペイ・エクティ研究会[97])。[xi]
「労働」はそれをする個人にとって、決して単一な定義ではおさまらないし、また、共有的な意味ももちにくい。つまり、労働の意味は、職種の数だけ存在するとも言えるのだ。[xii]雑用係のOLが仕事として評価されない周縁労働にやりがいを見出すことはむずかしい。仕事の内容が自分の仕事というよりは頼まれた男性へのサービスとなれば、OLは仕事のどこにやりがいを求めるのか。OLがやりがいを感じる余地があるとしたら、「女らしい」ふるまいと、主婦という性役割に固定された「家事労働」との同一化が、女性自身に知らず知らずのうちに内面化されていることが考えられる。どんなことでも義務でするのと、何の制約もなくするのとでは気分が違ってくる。OLとて「やっぱり女の子だから、周りの人にかわいく思われたいとかやさしく思われたいとか、いい人に思われたい」[xiii]という気持ちがあるので、積極的に性別役割を認識して、自ら「女らしさ」を再確認しようとする方向へと導かれる。どうせやらなければならない仕事なのだから、OLは自ら仕事の定義づけを行い、「かわいい女」「やさしい女」を統合して、パーソナリティの機能として展開していく。その結果が、ジェンダーの落とし穴の項で紹介したような、例えば好きな男性のフォローは積極的に行い、逆に嫌いな男性に対しては言われた以上のことはしない、というようなことをもたらす。好きな男性のためにしてあげる「サービス」としての労働の対価は、ねぎらいの言葉や出張に行けばおみやげを買ってきてくれるなど、女性の仕事に対する感謝の念を表してくれることである。
近年きかれるようになった成果本位という名の能力主義はまたこれまで有償だった労働の無償化を促す要素をはらんでいる。日本型企業社会では多くの場合、それぞれの行っている職務を洗い出して確定し、その仕事に賃金をつけるということは行われてこなかった。このままで「能力」や「成果」を問われたら、「認められない仕事」を担わされた人は、いくら働いても賃金は上がらないことになってしまうのである。1997年、東京のある女性の契約社員が、春闘に臨んで「仕事」を正確に評価してもらおうと、自分が職場で果たしていることの全てをリストアップしてみた。朝の机の拭き掃除、新聞・郵便の回収、コーヒー入れ、電話取りなど、男性が「仕事」としてカウントしていない「すきま業務」を書き出してみると数十にものぼり、しかも、これに、就業時間のかなりの部分をとられていることがわかった。この指摘は重要なものを含んでいる。一日何時間職場にいれば、いくら、という計算方法をやめ、「能力」や「成果」で大きく格差をつけるなら、「職場の家事」とも言える見えない仕事をカウントしないと、これらはみなアンペイド・ワークにされてしまう。日本の職場では「能力」や「成果」を公正に評価する方法を持たないのに対し、欧米のオフィスでは、しばしば「ジョブディスクリプション」(職務の記述)として、仕事の項目を書き出して労使で合意のうえ、仕事の確定を行う。ここで合意した仕事内容について、評価の対象にするのである。日本の職場で、その職務についてのどんな「成果」を評価の対象にするのかはっきりさせず、「長時間職場にいる社員は勤勉」との従来の評価を据え置いたまま、印象による「能力給」部分を厚くすれば、当然残業が増える。さらにその構造を変えずに裁量労働を拡大すれば、サービス残業はこれまで以上に増え続け、家庭でのアンペイド・ワークの時間は一段と失われていくのである。見えない仕事も洗い出し、職務を確定した上での能力評価が不可欠である。[xiv]「女の仕事」の市場価値は低い。今「男の仕事」と「女の仕事」の現実の賃金格差を100対60としよう。しかしそれぞれの仕事に求められる技能・知識・精神的及び肉体的な労苦、責任などを公平に秤量してみれば、両者の「職務価値」の差はあるいは100対80、あるいは100対100になるかもしれない。「女の仕事」に特徴的に求められる文化的・人間関係的な熟練、細部に気配りする責任、ストレスに耐える力など「見えざる労働」を評価させる営みも見直されるべきであろう。[xv] OLの仕事の内容の豊富化と公平な評価が今求められている。OLの見えない仕事も洗い出し、職務を確定した上での能力評価が不可欠である。
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引用文献
[i] 小笠原祐子『OLたちのレジスタンス』26頁、中公新書、1998年。
[ii] 唯川恵『OL10年やりました』133頁、集英社文庫、1996年(原著は1990年刊)。
[iii] 久場嬉子・竹信三恵子『「家事の値段」とは何か』2頁、岩波書店、1999年。
[iv] 川崎賢子・中村陽一『アンペイド・ワークとは何か』20頁、藤原書店、2000年。
[v] B・ドゥーデン・C・ヴェールホーフ著、丸山真人『家事労働と資本主義』1-2頁、岩波現代選書、1986年。
[vi] 栗原はるみ『貯金の話題 315号』郵便貯金振興会、2001年4月1日。
[vii] アン・オークレー著、佐藤和枝・渡辺潤訳『家事の社会学』91-100頁、松籟社、1980年。
[viii] トレーシー・ワイレン/中川雄一訳「アメリカ女性が日本人と仕事をする心得」内橋克人・奥村宏・佐高信編『日本型経営と国際社会』199頁、1994年、岩波書店。
[ix] 熊沢誠『女性労働と企業社会』211頁、岩波新書、2000年。
[x] 小笠原、前掲書、65頁。
[xi] 伊田広行『21世紀労働論-規制緩和へのジェンダー的対抗』142頁、青木書店、1998年。
[xii] アン・オークレー、前掲書、113頁。
[xiii] 小笠原、前掲書、128頁。
[xiv] 久場嬉子・竹信三恵子、前掲書、53-54頁。
[xv] 熊沢誠、前掲書、205-206頁、210-211頁。