「2014年9月20日(土)
昨日は自死遺族の会で自分のことを語ったぶり返しがけっこうきている。
母の病気、妹の死-受け入れられなくて自分をどうしたらいいのかわからなくて本当に苦しかった。母をみていてこの人から生まれた自分を好きになることができなかった。きつかったなあ、自分を責め続けてー。
子供が亡くなった第一発見者で「この子は私に最初にみつけてほしかったんだ」というお母さんの声をきかせていただいた。
私はMちゃんの現場をみていないが、姉としてはそれが背負いきれる限度だったんだと今さらながら気づいた。
母が発見した時にはヒモが切れて下に落ちていた。安達のおじさんに電話しておじさんとおばさんが駆けつけてくれてA生病院と警察がきてとそこまでは聞いている。
その光景をたびたび想像してしまうことがあるが、背すじが凍りつくのでそれ以上はやめようと思う。私が受け入れられるのはここまでだ。これ以上のことをきいてしまっていたらもっともっと私が大変で気も狂わんばかりになっていただろう。姉として受け入れていくには十分すぎる。背負い切れるのはここまでだったということだ。
母は病気だったし、父は話をきいてくれるような人ではなかったので、具体的な話が成立する関係ではなかった。だから父も母も私の苦しみは知らない。
終わってからS本さんがおっしゃられた。HPをリニューアルするので是非原稿を書いてほしい。親を亡くした人、子供を亡くした人の声はたくさんあるけれど兄弟姉妹で声を発信している人はほとんどいない。声を発信していてほしいとー。親は知らず知らずに子供を傷つけることを言っている。ここらへんに私のやるべきことがありそうだ。
私のやりたいことは書くことー。それでどうやってごはんを食べていくんだ。早くできるだけたくさん示談金ほしい。」
この後実際に手記を書き一定期間HPに掲載されていましたが、4年前郷里に馴染めず気がつけば人生の半分以上を暮らした地域に舞い戻ってきたのを機に削除していただきました。結局なにもできませんでした。
自分がわかっていなかっただけで生まれる前からの右足股関節脱臼に始まり、変形性膝関節症末期で終わろうとしている人生。股関節の痛みも足先の痛みも痺れもたしかに直接命に別条ありませんが歩くことができなくなったらどうなるのでしょう。ADLってやつが低下したらどうなるのでしょう。それはいつやってくるのでしょう。自力で歩けところまで生きるしかないと言い聞かせつつ、老いてきた見苦しい面をさらしつつ今のところまだなんとか生き永らえています。