「土曜日から食事時間を変えて、11時半に昼食を食べることにしました。しかも茶碗一杯のおかゆですませます。これで一食分節約になります。野菜はまだとても入手が困難です。今日の午後、腐ったようなレタスをゆでて食べました。野菜といえば、レタスとホウレン草しかありません。それに腐ったようなジャガイモを添えて食べます。とてもおいしい取り合わせです!
あなたも想像できるでしょうが、わたしたちはときどき絶望的に、「戦争が何の役に立つのだろう?なぜ人間は仲よく、平和に暮らせないのだろう?この破壊は、いったい何のためだろう?」と、疑問をいだきます。
この疑問はよくわかります。しかし、これまでのところ、だれもこれに対する満足な回答を思いつきません。そうです。人間は復興用に組み立て式の家を発明する一方において、どうして飛行機や戦車を大きくしようと努力するのでしょう。毎日、戦争のため何百万というお金を使いながら、どうして医療施設や、芸術家や、貧しい人のために使うお金が一文もないのでしょうか?
世界には食物があまって、腐らしているところがあるのに、どうして餓死しなければならない人がいるのでしょう。人間はどうしてこんなに気違いじみているのでしょう。
わたしは偉い人たちや、政治家や、資本家だけに戦争の罪があるとは思いません。いいえ、決してそうではありません。一般の人たちにも罪があります。さもなければ、世界の人々はとっくの昔に、立ち上がって革命を起こしたはずです! 人間には破壊と殺人の本能があります。そして人類が一人の例外もなく全部、大きな変化を経るまでは、戦争の絶え間はなく、建設され、つちかわれ、育てられたすべてのものが破壊され、ゆがめられ、人類はまた最初からすべてをやり直さなければならないでしょう。
わたしは意気消沈することがよくありますが、決して絶望はしません。この隠れ家生活を恐ろしい冒険だと思いますが、同時に、ロマンチックでおもしろいとも考えています。日記の名kで、あらゆる不自由をおもしろいものとして扱っています。わたしはほかの女の子とは違った生活、そして大きくなったら、普通の家庭の主婦とは違った生活をしようと決心しています。わたしの出発点はとても興味に満ちていました。最も危険なときでも、そのユーモラスな面をみつけて笑うのは、全くそのためです。
わたしはまだ若く、埋もれた素質をたくさんもっています。わたしは若く、健康で、大きな冒険の中に暮らしています。まだそのまっただ中にいるのですから、一日じゅう、不平ばかり言ってはいられません。わたしは快活な性質と強い性格をもっています。自分が精神的に成長していること、解放が近づいていること、自然はどんなに美しいかということ、周囲の人々がどんなに親切かということ、この冒険がどんなにおもしろいかということを、毎日感じています。それなら、なぜ絶望する必要があるでしょうか?」
(A・フランク 皆藤幸蔵訳『アンネの日記』1974年7月25日第1刷、1978年10月1日第11刷文春文庫、310~312頁より)