たんぽぽの心の旅のアルバム

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『現代日本文化論6-死の変容』より-非日常化された死と死の教育

2024年09月21日 20時27分25秒 | 本あれこれ

『現代日本文化論6-死の変容』より-死への準備-死への準備が困難となった時代

「過去50年の間に、我が国におけるひとの誕生と死とは、大きくさま変わりしてきた。かつて、人は家族の祝福の中で産声をあげ、悲しむ家族に看取られながら、住み慣れた家で死んで逝った。死はひとの自然な姿であり、日常的な生活の延長線上に存在する当然の出来事であると、教わらなくとも誰もがそうとらえていた。

 ところが時の経過とともに誕生と死の病院化が急速に進行し、結果的に現代では生も死も家族や日常生活から切り離されることになった。たとえば1950(昭和25)年の統計によると、ひとの誕生は95パーセントが自宅であり、ひとの死の90パーセントはやはり自宅であった。しかし、その後在宅分娩、在宅死の頻度は著名に減少し、今ではほぼ百パーセントの人が施設(病院、診療所など)で生れ、大多数(7割強)の人が病院で死亡することになった。

 このような歴史的推移により、誕生と死は日常生活から意識的に切り離され、死への準備という言葉は死語と化した。かくして、ひとびとは身近な者の死や自らの死をさえも、第三者的なとらえ方しかできなくなり、死が現実のものとなった時に初めて狼狽(うろた)え、その備えをなしていなかったことを悔やむことになった。

 死は生の延長線上にある。誰しも逃げられない出来事ゆえ、充実した生を最期まで全うするためには、日頃からそれに対する備えが必要である。また、たとえばがん末期のように、死が目の前に差し迫った場合、その状況をどのようにとらえて対処してゆくのがよいかは、大部分の者にとって未知の事柄である。ここに、死への準備のための「死の教育」という領域が成立する根拠がある。

 教育とは人生における人間の成長・発展を支えるものであり、死の教育とは、人間が自分で自分の最期までの生き方を選択するための教育、死への準備のために必須の教育と言うことができる。死は全ての人間の最後の時に例外なく起こることゆえ、死の教育は人の成長・発展段階に応じて、その時々に最もふさわしい形で行うことが重要となる。」

 

(河合隼雄・柳田邦男『現代日本文化論6-死の変容』岩波書店、254~255頁より)

 

 

 

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