たんぽぽの心の旅のアルバム

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『アーサー王の死-トマス・マロリーの作品構造と文体』-騎士と婦人の愛

2023年12月17日 13時32分57秒 | 本あれこれ

『アーサー王の死-トマス・マロリーの作品構造と文体』-物語と構造 - たんぽぽの心の旅のアルバム (goo.ne.jp)

 

中心的な主題は《アーサーの盛衰》

この盛衰に初めから深く関わり合っている。ランスロットとグィネヴィアの愛-もうひとつの主題。

 

『ランスロット卿とグィネヴィア王妃』物語の中の『荷車の騎士』の話の書き出し。ここではno stabilityを「移ろいやすさ」と訳したが、ガラハッドが天国に召される前に父ランスロットに言い残した「この世はさだめがたいことをゆめゆめお忘れなきように」の「定めがたい(unstable)」と同じ概念である。ガラハッドはランスロット自身にこのことばをおくったが、このことばのもつ情念を作者マロリーは引継ぎ、イギリス人に向けている。イギリス人に対する作者のやるせない思いを生々しく聞かされる。それだけにアーサーの時代に対する作者のあこがれ、ノスタルジアの深さを知るのである。

 

作者は「王妃はまことの恋人であった。だからこそ最後は立派であった」と言う。ランスロットとグィネヴィアの恋が結局アーサーとアーサー王国を崩壊させる引き金となったことを忘れていない。

それでも作者は「まことの恋人であり最後は立派であった」と言う。作者の精一杯の皮肉ととるべきだろうか。ことばの通り解釈すべきか。これが作品のもうひとつの重要なテーマを解く鍵である。

 

 

12世紀、南フランスにみられた《至純の愛》

中世キリスト教の世界では歴史的には女性の地位は低く結婚は一族の政略的道具となることが多かった。女性の意志・感情はほとんど無視される。ところが12世紀南フランスで異変ともいえる現象が起きる。新しい愛の観念である。新しい愛の観念である。アキテーヌ公ギョーム9世。

相手は身分の高い既婚婦人。しばしば愛を捧げる騎士よりも身分が高い。そのため騎士は家臣が主君に奉仕するように婦人に対して愛の奉仕をする。自己犠牲もいとわない。ただすばらしい婦人ときくだけでまだ会ってもいない相手を愛することもある。相手が不在、身分が高ければ愛を成就するのは困難である。しかし困難であればあるほど愛はつのり高まる。また愛する婦人の名は秘密にしていなくてはならない。慎み深さが要求される。

 

ex.ジュフレ・リュデルの『伝記』

 貴族のジュフレ・リュデルはトリポリ伯夫人のすばらしさを耳にする。彼はたちまち激しく愛するようになる。ただ会いたい一心から十字軍に参加する。しかし遠征の船舶で病に倒れ、瀕死の状態でトリポリのある宿に運び込まれる。このことを知った伯爵夫人は彼の病床を訪ね、腕の中に彼を抱く。うつろな中でこのことに気づいた彼は至福の思いに満たされ、神に感謝しながら婦人の腕の中で息が絶える。婦人は彼を丁重に葬り、自らも修道院に入り彼のために祈りの生活に入る。

 

ランスロットとグィネヴィアの愛がこの《至純の愛》といえるものであろうか。

二人の愛はプラトニックではない。侍女の魔術によりぺレス王の娘エレーヌを王妃と思い込み一夜を共にし、ガラハッドを生ませているところからも知れる。王妃はこのことを知るとホルス達を呼びつけ、ランスロットの不実、裏切りをきびしくなじる。魔術によりエレーヌが王妃の姿に変えられていたのでというランスロットの弁解で、やっと怒りも収まる。マロリーはこのあたりから王妃の嫉妬に苦しみ、怒り狂う姿を提示しはじめている。さらに王妃の爆発は、エレーヌが宮廷にきた時に起こった。祝宴の夜、王妃はランスロットに夜自分の部屋にくるようにと命じていた。エレーヌのところに行かせないためである。このことを知ったエレーヌの侍女(魔女)はランスロットを王妃のお呼びとだましてエレーヌのところに案内してくる。王妃はランスロットがエレーヌの所にいると知ると嫉妬で怒り狂い、二度と現われてはならぬと宮廷から追放する。ランスロットは狂人となり、二年間各地を放浪する。

嫉妬で怒り狂い、追放し、激しく後悔し、詫び、和解する。このパターンは何回ともなく繰り返され、そのたびに人間的愛は深まる。伝承的女神の神々しさも歴史的王妃のプライドもない。人情に支配される生身の女の姿である。ランスロットは王妃のどんな激しい屈辱的なことば、態度にも弁解ひとつせずただ命令に従うだけである。騎士の婦人への愛、宮廷愛の形をとる。

 

宮廷愛は騎士にどんな犠牲をも要求する。

 ギョーム9世が残した南仏の文化的伝統は孫娘にあたるエレアノール・ダキテーヌにより北フランスに移植され、さらに彼女の娘、ことにマリーはシャンパーニュ伯と結婚し宮廷に文化の花を咲かせた。シャンパーニュの宮廷にはロマンスの作家クレチアン・ド・トロワ、あるいは愛の理論家アンドレ・ル・シャプランを抱え《宮廷愛》の殿堂となる。

《宮廷愛》は南フランスの《至純の愛》を受け継いでいるが、一層思弁的となり教条化されたという。騎士は愛する婦人の命令にはどんなことでも絶対的服従が求められた。

二人の愛はプラトニックではない。明らかに姦通愛である。マロリーは最後まで言質を避けているが、しかし王妃の行為が問題になる時にはいつもランスロットの「王妃はあくまで王に貞節であり、これに否をとなえるものあればいつでも剣にかけて立証しようぞ」というセリフが繰り返される。ランスロットは正しい戦いであろうが、間違ったものであろうが、王妃のためにはどんな戦いもしたといわれる。メリアガウンスが王妃を告発した時ランスロットが述べたこのセリフに対して、メリアガウンスは「最高の騎士といえども悪い戦いをすれば神罰がくだるだろう」と言うが、これは正しい。明らかに反騎士道であるばかりか、神を怖れぬ行為である。結局二人の愛が神を怖れぬ傲慢さ、高慢さであることがアーサーとアーサー王国を破滅させたといえる。『アーサーの死』のテーマである。

 

トリスタンとイゾルデの愛は当事者だけを燃焼させた。自己燃焼、自己破滅である。ランスロットとグィネヴィアは自分達の愛をただ一筋に全うした。しかしその代償はあまりにも大きかった。

 

それでもマロリーは「王妃はまことの恋人であった。最後は立派だった」と言う。

ランスロットもグィネヴィア王妃も最期になり、神を怖れぬ人間、悔い改めをした恋人として天に召された。二人はまことの恋人となった。最期は立派であった。こうして最初の問いへの答えは出されたのである。

 

2024年2月25日(日)~3月3日(日)

宙組公演 『Xcalibur エクスカリバー』 | 宝塚歌劇公式ホームページ (hankyu.co.jp)

2024年2月25日(日) ~3月3日(日);博多座(福岡県)

2024年3月16日(土) ~3月26日(火);梅田芸術劇場メインホール(大阪府)

 

 

 

 

 

 


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