たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

ミュージカル『ミス・サイゴン』より-ベトナムのいま(1)

2020年04月18日 12時31分07秒 | ミュージカル・舞台・映画
(2014年帝国劇場公演プログラムより)

「ベトナムの現在いま 『ミス・サイゴン』公演に寄せて 早稲田大学教授 坪井善明

★ベトナム戦争=2015年

 来年2015年は、第二次世界大戦終了から70周年、日韓条約締結から50周年と様々な記念の年となる。ベトナムに関しては、アメリカと闘った「ベトナム戦争」(現在のベトナムでは抗米救国戦争と呼ばれている)終了の40周年の節目を迎える。『ミス・サイゴン』に登場する一人息子タムも来年には40歳という不惑の年齢を迎えることになる。戦後40年を迎えるベトナムの歴史と現状を、特に米国の関係を中心にお伝えすることにしよう。

 ベトナム戦争は、ホーチミン率いる北ベトナム(ベトナム民主共和国)と米国が戦った戦争として記憶されているが、正確には冷戦の最中、米国の支援を受けた南ベトナム(ベトナム共和国)とソ連・中国に支援された北ベトナムが同じ民族同士で戦いあった一種の「内戦」であった。

 1975年4月30日、南ベトナム解放民族戦線・北ベトナム軍が首都サイゴンの中心部にあった南ベトナム大統領邸にタンクで進入して、当時の南ベトナム大統領のズオン・バン・ミンが降伏を宣言して、ベトナム戦争は終了したのである。いわゆるサイゴン陥落である。これは、『ミス・サイゴン』に見られるシーンである。

 アメリカ人だけでなく、共産陣営に征服されたことを恐れる米軍関係で仕事をした人と南ベトナム政府・軍関係者の家族を中心に、多くのベトナム人が祖国を脱出した。その一人が『ミス・サイゴン』のヒロインのキムである。

 だが、脱出は1975年に限らず、1980年代の前半まで約8年間、「ボート・ピープル」という形で行われた。成功率は10%という生命賭けの逃避行に百万人以上のベトナム人が挑戦した。幸運にも、10数万人の人たちが、インドネシアやタイ等の近隣諸国にたどり着いたり、他国の船に救助されたりして逃避行に成功した。そして、大多数は最終的に米国に移住した。米国は、ベトナムの「ボート・ピープル」を寛大に受け入れたのである。

 「ボート・ピープル」のあまりの悲惨な運命に、ベトナム社会主義共和国に対する国際的非難も強まり、1980年代中葉から合法的出国の制度が始まった。アメリカ人兵士とベトナム人女性の間に生まれた混血児や多くの南ベトナム政府関係者の家族は、米国やフランス等に居住する親類縁者の支援を受けて、合法的な出国をすることができるようになった。このように、様々な形でベトナムを脱出して米国を中心に外国に新たな生活を始めたベトナム人を「越僑」(えっきょう;OverseaVietnamese)と呼ぶが、現在、その子供・孫・ひ孫を含めて世界中で総勢400万人に達すると言われている。


★枯葉剤被害

 敵として激しい戦争を戦った米国とベトナムの間の政府関係は遅々として進まなかった。相互不信が根深ったのである。国交回復が実現したのは、戦争終了後20年経った1995年だった。ビル・クリントン大統領が米国大統領として戦後ベトナムを初めて訪問し、冷え切った両国関係を切り開いたのだ。この米国との関係改善が始まって、ベトナムは東南アジア諸国連合(アセアン)に加盟を許されたのある。そして2001年に米国はベトナムに再恵国待遇を与えた。長い交渉の後、2007年にようやくベトナムは世界貿易機構(WTO)に加盟することが許された。これで、正式に国際的なビジネスシステムに参加することができるようになったのである。戦争が終わって32年経っていた。これ以降、ナイキやマイクロソフト等の米国大手企業も続々とベトナムに進出してきた。

 しかし、米越の相互不信が解けない原因の一つに、枯葉剤被害者の問題がある。米国政府は歴代、枯葉剤被害の責任は、まだ科学的因果関係が説明されていないとして、認めておらず、ベトナムに対して一切補償をしていない。ところが、枯葉剤を撒いて発病した元米国兵士とその家族で枯葉剤被害者には補償を行っている。完全なダブル・スタンダードである。ベトナムの枯葉剤被害者の団体は、ニューヨーク地裁に損害賠償を求めて提訴したが、訴えは認められないままである。世界各国のNGOが枯葉剤被害者を応援している。

 枯葉剤に含まれるオレンジ・エージェントという物質は、DNAレベルの細胞に作用して損傷させる。それによって、枯葉剤の被害は何世代にも遺伝する。お祖父さんが昔兵士で枯葉剤を浴びたことがあったが、その子供たちにはまったく悪影響が出ずにいて、孫の代になって現れるというケースが続出している。障害を持った赤ちゃんが誕生し、親が驚いて祖父母に詳しく聞くと、母方の祖父が昔戦争中に枯葉剤を浴びたことが判明するというケースが圧倒的に多い。女性の染色体XーXの一方に損傷したDNAがあって、母親には出現しなくて、赤ちゃんに隠れていたもう一方の損傷したX染色体が発現することで障害が生じるからだという。戦争にまったく関係のない第三世代の孫に被害者が出ているし、次の第四世代のひ孫にも発現するとされている。その第三世代を含めて現在枯葉剤被害者は総勢400万人に達する。

 その枯葉剤被害の子供たちを治療・リハビリする施設が「平和村」と呼ばれる施設で、ベトナム全国に11か所存在している。ホーチミン市にあるトゥーズ平和村にはシャムの双児で生まれ、日本で分離手術を受けた「ベトちゃん・ドクちゃん」の生き残りのドクちゃんが働いていいて、子どもたちに献身的なお世話をしている。」


 」

どう向き合っていくのか・・・

2020年04月17日 22時52分22秒 | 気になるニュースあれこれ
朝日新聞デジタルより

https://www.asahi.com/articles/ASN4G6KN5N4GUTFK00X.html

「クルーズ船でも感染者ゼロ 自衛隊のノウハウを公開
寺本大蔵
2020年4月14日 20時15分

防衛省は14日、新型コロナウイルスの感染防止対策をまとめた資料をホームページで公開した、と発表した。自衛隊は集団感染が広がった大型クルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス号」の船内活動でも感染者を出さず、自治体などからノウハウを教えてほしいとの要請が相次いでいた。」

PDFファイルで公開されています。

https://www.mod.go.jp/js/Activity/Gallery/images/Disaster_relief/2020covid_19/2020covid_19_guidance1.pdf



*************

今村顕史

@imamura_kansen
·
16時間


今日ご紹介する2つの記事は、必ず両方をセットとしてお読みください。新型コロナウイルスと、どう対峙していくのか。深い、深い、問いかけが含まれています。

①『音楽家が新型コロナ対策について感染症の専門家に問いかけた 「みなさん行き過ぎてませんか?」』

②『「劇薬を使ったからには最大限の効果を」  緊急事態宣言に感染症のスペシャリストが賛成した理由』

「世界的な音楽家が、感染症のスペシャリストに問いかける。「新型コロナ対策、やり過ぎじゃないか?」 指揮者の井上道義さんと岡部信彦さんという異色の対談がなぜ行われたのか、お二人にインタビューしました。」

https://www.buzzfeed.com/jp/naokoiwanaga/covid-19-inoue-nonchan


https://www.buzzfeed.com/jp/naokoiwanaga/covid-19-okabe-4-nonchan

ミュージカル『ミス・サイゴン』より _ベトナム戦争の世界と時代(3)

2020年04月17日 08時42分18秒 | ミュージカル・舞台・映画
(2014年帝国劇場公演プログラムより)

「★ディエン・ビエン・フーの戦い

 《アメリカン・ドリーム》の歌詞の中でエンジニアが歌う、「胸が痛みまさ、臭いのは香水で消す フランス人が教えた、ディエン・ビエン・フーの戦いで、フランスは引き上げた、お次のお客は、ドルを撒き散らす・・・」。

 ディエン・ビエン・フーの戦い。1954年、劣勢にあったフランス軍は、ラオス国境に近い険しい山に囲まれたディエン・ビエン・フーに、航空基地と要塞を築き、2万人に近い兵力を集結させていた。それに対しベトナム共和国軍は、人海戦術で山の頂に大砲を運び上げ包囲し、昼夜を問わぬ猛攻を仕掛けた。雨季の泥にまみれた戦場は悲惨を極めた。2カ月に及ぶ戦闘の果て、フランス軍は降参。ジュネーブの和平協定で停戦。これで第一次インドシナ戦争は終結する。

★アメリカとベトナム戦争

 しかし、このジュネーブ協定は、禍根を残す。協定の内容としては、ベトナムは南北に分離し、1956年7月に自由選挙を行い統一を図るというものであったが、1955年アメリカの後押しを受けた(アメリカは、15000人ほどの軍事顧問団を派遣していた)ゴ・ディン・ジエムが、選挙で南ベトナムの大統領に選ばれた。ゴ・ディン・ジエムは、ベトナム共和国の建国を宣言し、北ベトナムとの統一選挙を拒否した。アメリカとアメリカ軍事顧問団の支援の下、一方で、ゴ・ディン・ジエムは一族による政治支配と独裁、極端に腐敗した政治、経済政策の失敗で塗炭を舐める国民には弾圧を加えた。特に、国民の崇拝する仏教徒の僧侶の講義の焼身自殺が続き、世界に衝撃的な映像が伝えらた。

 ゴ政権は、軍事クーデターによって倒され、更なる軍事クーデターが起こり、政情は混迷を深めていった。そして、南ベトナムでは、北ベトナムの支援と指導の下、南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)が生まれ、治安は極端に悪化した。

 1963年11月、ジョン・F・ケネディがテキサス州ダラスで暗殺され、副大統領のリンドン・B・ジョンソンが大統領に就任した。1964年8月、アメリカは公海上のトンキン湾で、米駆逐艦が魚雷艇に攻撃されたとして、北ベトナムの魚雷艇の基地に攻撃を仕掛けた。

 このトンキン湾事件については、後年アメリカの駆逐艦が、北ベトナムの領海内で魚雷艇基地の攻撃任務についていたことが明らかになる。

 8月7日、アメリカの上下院は、ジョンソン大統領に無条件の戦争大権を与え、ベトナム戦争はエスカレートしてゆく。1965年2月、北ベトナムへの爆撃開始、3月に海兵隊、続いて陸軍、1967年には最大で50万人を越える若者が、祖国を離れたベトナムに送られ、ジャングルで戦い、泥の中で眠った。相手は、民族解放戦線のゲリラだけではなく、主体はベトナム正規軍だった。

★戦争後遺症

 戦争から生きて帰還した者も、戦争の犠牲者出会った。常に緊張した状態から解放されても、彼らの心の傷は癒すことはできなかった。国のために戦ってきたはずだが、アメリカでは、反戦運動が盛り上がり、同じ世代の徴兵を猶予された若者はヒッピーとなり青春を謳歌している。観劇式典もない。社会復帰するには、心の病が重すぎて、麻薬や薬物に依存するもの、犯罪を犯す者もいた。「国のために戦った」のに、彼らベトナム帰還兵は社会から「白い目で見られた」のである。

 戦争という暴力がこの世に存在する限り、この作品のメッセージは、色あせることはない。(文責;東宝演劇部宣伝室)」

2016年10月15日(土);『ミス・サイゴン』_10月15日プレビュー初日
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/5f7213b36ad690a28f8cd87092e9cc10

2016年12月17日(土);『ミス・サイゴン』_10月23日
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/d/20161217



 ベトナム、ラオス、カンボジア、一度も行ったことありませんが13年間働いた大会社の業務の中で、毎日航空会社の搭乗券をみていたし、通貨単位が頭の中に入っていました。VND(ベトナムドン)、ゼロがいっぱいあるので慣れないとびっくりでしたが、1VNDが0.01円だったかん、円換算するとゼロが減ったことを思い出しました。この世にいる間に一度はいってみたいものだとやっと思えるようになりました。



 2020年『ミス・サイゴン』、2016年に卒業した市村正親さんエンジニアがかえってくるはずでした。また必ず会えると信じつつ・・・。



ミュージカル『ミス・サイゴン』より_ベトナム戦争の世界と時代(2)

2020年04月16日 09時24分43秒 | ミュージカル・舞台・映画
(2014年帝国劇場公演プログラムより)

「★ベトナム戦争の起源

 歴史的事象の起源を探ることは難しい。歴史を紐解くということは、現在という点が描かれた軌跡が過去であり、その線をどこまでたどるかはそれぞれである。また、ソ連というマルクス・レーニン主義に基づいた国家が消滅した今、社会主義と共産主義の解釈があいまいになっている。

 ベトナム戦争の起源を区切るために、日本軍の仏印進駐までさかのぼりたい。資源を求めた日本軍は1940年、仏領インドシナ連邦(インドシナ、現在のベトナムとラオス・カンボジア)に武力侵攻した。1945年3月の日本軍全土制圧でフランスが撤退し連邦が解体して以降は、日本の軍事的な干渉下に置かれていた。第二次世界大戦終戦後、世界各地で民主主義が台頭する。ベトナムも同じであり、日本軍の撤退によりフランスの支配が開始されると、一気に独立の気運が高まった。

 ホー・チ・ミンに率いられたベトナム独立同盟(ベトミン)は、終戦後即座に、ハノイにおいてベトナム民主共和国(北ベトナム)の建国を宣言した。宗主国であるフランスは、これを認めず、1946年3月にフランスはベトナム南部にコーチシナ共和国を成立させる。フランスはベトナム民主共和国に武力で侵攻、第一次インドシナ戦争と呼ばれる戦争が始まった。そして新たにサイゴン市を中心に1946年6月ベトナム国(南ベトナム)を成立させる。同年7月ラオス、11月にカンボジアを独立させ、ベトナム国の正当性を認めさせようとした。これが南北分断の起源といえる。

★冷たい戦争

「バルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステまでヨーロッパ大陸を横切る鉄のカーテンが降ろされた。中部ヨーロッパ及び東ヨーロッパの歴史ある首都は、すべてその向こうにある。」

 アメリカを訪れた、イギリスのチャーチル首相が1946年フルトンの大学での講演で使用した「鉄のカーテン」という言葉に象徴されるように、第二次大戦終結かr、1989年12月、地中海のマルタ島でソ連のゴルバチョフ書記長とアメリカのジョージ・H・W・ブッシュ大統領が会談し、終結を宣言するまで、世界はアメリカを盟主とする資本主義(自由主義)の西側陣営、ソ連を中心とする社会主義(共産主義)の東側陣営の二極対立の緊張状態が続いていた。まさに、お互いに核兵器を突きつけてのロシアンルーレットのような緊張を生んでいたのである。これが東西冷戦といわれる状態であり、ヨーロッパの東西で睨み合い、様々な途上国で大国の覇権をめぐる戦争や紛争が続いた。

 ベトナムも例外ではなく、ホー・チ・ミンのベトナム民主共和国は、ソ連と中国がベトナムを正当な政府と認め、武器援助をし、一方アメリカは、フランスとインドシナ三国に武器援助をした。特にアメリカは、「一国が共産化されれば周辺諸国も共産化する」という、猜疑的な「ドミノ理論」という考えを持っていた。」








朝日新聞デジタルより_「不安とか不安定こそが生きること」

2020年04月15日 19時20分56秒 | 気になるニュースあれこれ
「ガキたち、チャンスだぞ 五味太郎さんから子どもたちへ」

絵本作家の五味太郎さんのメッセージ。
2020年4月14日 14時00分配信。
朝日新聞の有料会員限定記事ですが、今なら無料で読むことができます。


「コロナの前は安定してた? 居心地はよかった? 普段から感じてる不安が、コロナ問題に移行しているだけじゃないかな。こういう時、いつも「早く元に戻ればいい」って言われがちだけど、じゃあその元は本当に充実してたの?と問うてみたい。」
 

「学校に行きたくない子どもに親が行きなさいというのは、子どもが「お風呂が熱い」って言ってるのに、親が「肩までつかって100まで数えなさい」というようなもので……。」


「これに耐えれば卒業証書、修了証書、そして退職金と続いていく。で、疲れちゃって、考えるのをやめていく。それを繰り返しているうちに、自分が何がしたいかわからなくなっていく。」


「ガキたちには、むしろこれがチャンスだぞって言いたいな。心も日常生活も、乱れるがゆえのチャンス。」


「学校も仕事も、ある意味でいま枠組みが崩壊しているから、ふだんの何がつまらなかったのか、本当は何がしたいのか、ニュートラルに問いやすいときじゃない?」
 

「心は乱れて当たり前。常に揺れ動いて変わる。不安定だからこそよく考える。もっと言えば、不安とか不安定こそが生きてるってことじゃないかな。」

 
 世界はもう元に戻ることはできないところにきているのかもしれません。東日本大震災のあと生まれ変わっていくチャンスだったのに「絆」できれいにまとめられてしまった日本も変わっていかなざるを得ないのかもしれません。今までと同じ働き方はできないのかもしれません。限りある人生の時間、これからどう生きていけばいいのか・・・。


 

ミュージカル『ミス・サイゴン』より_ベトナム戦争の世界と時代(1)

2020年04月15日 08時23分38秒 | ミュージカル・舞台・映画
(2014年帝国劇場公演プログラムより)

「★ニュースが伝えた戦争

 ベトナム戦争は、初めて戦場の様子がテレビで伝えられた戦争だ。1975年4月30日、ニュースで北ベトナム軍の戦車が南ベトナムの大統領官邸のフェンスを突破し、建物に北ベトナム軍の旗が振られる映像を人々は目にした。超大国アメリカと南ベトナムの敗北、サイゴン陥落を象徴する映像だった。

 そして、サイゴン陥落の混乱の映像もニュースで流された。北ベトナム軍の報復を恐れた市民たちが、アメリカ大使館やタイソンニュイット空軍基地に押し寄せた。離陸しようとする米軍兵士、恐怖が混沌を引き起こしていた。舞台で描かれるように、市民が詰めかけるアメリカ大使館のゲート、閉ざされたゲートの隙間から転がり込むように中に入る人々、沢田教一氏の有名な写真に名を借りるならばまさに「安全への逃避」である(戦場カメラマンであった、沢田教一氏はこのシーンではなく、戦場から川を渡って避難する母と子供たちの写真を撮り「安全への逃避」と題したピューリッツアー賞を受賞した)。そして、次々と飛来するヘリコプターが市民や兵士を搭載し屋上から飛び立ち、海上の空母に向かった。収容しきれないヘリは海上に投棄され、実質的にベトナム戦争は終結した。」



サイゴン陥落の様子がリリカルに描かれている舞台、役者さんたちの全身全霊の演技は凄まじいものがあります。

こうしてブログが続いていくことを全く考えずに書いていた2014年の観劇日記、
もしお時間とご興味がありましたら・・・。

2014年8月13日(水):『ミス・サイゴン』(1)
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/0dc78ee3012395cb460b48de804a4bc4

2014年10月13日(月):『ミス・サイゴン』(2)
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/02b36197bc7b67f0142ea7a64144c79e

2014年10月29日(水):『ミス・サイゴン』(3)
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/945d0b2cb9ce4ac1a40e4210ed4021bd

2014年11月4日(火):『ミス・サイゴン』(4)
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/4178d5661d4e253acf578215c8fe3dcc

ミュージカル『モーツァルト』より_モーツァルトの真実

2020年04月14日 09時40分11秒 | ミュージカル・舞台・映画
(2018年帝国劇場公演プログラムより)

「モーツァルトの真実 音楽ライター;後藤真理子

♬5歳で作曲した早熟の天才

「クラシック音楽史上、最も人気のある音楽家は?」という質問に「モーツァルト」と答える人は、過半数を越えるのではないでしょうか。もちろん好みの問題はあるでしょう。「人気のある」という言葉の定義も、人によりさまざまかと思います。けれども、例えば、演奏会等で取り上げられる頻度、映画やドラマの中で耳にした、あんな曲やこんな曲が、モーツァルト作品であったりすること、そしていわゆる「モーツァルティアン(モーツァルトの熱狂的なファン)」の多さからも、モーツァルト人気の高さは推し量れるのではないでしょうか。

 モーツァルトの生涯もまた、映画やドラマで紹介されています。「神童」を呼ばれた早熟の天才で、浮き沈みの激しい人生を送り、若くして世を去った、というその一生のあらまし程度は、何となく知っている、という人も多いと思います。

 では、どれほどの天才であったのでしょうか。モーツァルトの姉ナンネールは、モーツァルトがわずか3歳で、ピアノで3度の和音を鳴らして楽しんでいた、と証言しています。4歳になると、父レオポルトからピアノを学び始めますが、あっという間に曲を覚えていったそうです。そして5歳の時いはもう、ピアノ曲を作曲!(ただし、まだ楽譜が書けなかったので、レオポルトが譜を書きとめています。)なんとも呆れるばかりの「神童」ぶりではありませんか。

 敬虔なカトリックであったレオポルトは、息子のこの稀有の才能を「神の賜物」と考えました。神の奇跡を広く世に知らせることを使命と信じ、まだ6歳のモーツァルトを連れて、ヨーロッパ各地を旅して回りました。結果「神童」の名声は、あまねく知れ渡ることになったのです。14歳でオペラを作曲し、オペラの殿堂ミラノの宮廷劇場で上演されたこと、ヴァチカンの、門外不出とされた複雑な構成の秘曲《ミゼレーレ》を、2度聴いただけで、記憶を頼りに譜面に書き起こした逸話などは、モーツァルトの才能の一端を物語っています。

♬フリーランスの音楽家として生きる

 モーツァルトが生きた時代、楽才に恵まれた者の進路は、ほぼ決まっていました。モーツァルトの父や、ハイドン、グルックといった当時を代表する音楽家たちがそうであったような、宮仕えの道です。宮廷もしくは貴族、教会などに雇われて、日々の行事などに必要な音楽の仕事をこなすー。収入は、一介の庶民としては悪くなく、雇い主の許可があれば、ほかの仕事を引き受けることも可能でした。場合によっては、引退後の恩給にも恵まれました。

 父がザルツブルク宮廷に仕えていた関係で、モーツァルトも当初は同じ職場に身を落ちつけます。ところが、主君が代替わりし、厳格なコロレド大司教がやってくると、モーツァルトは次第に息がつまるような思いを味わうことになりました。ウィーンやパリといった大都会の宮廷楽団を見てきた目に、専任のクラリネット奏者がおらず、カストラート歌手も雇えないザルツブルクの宮廷楽団は、貧弱で物足りないものに思えたことでしょう。

 結局モーツァルトは、才能に見合う職場と地位を求めて、就職活動の旅に出ることになるのです。しかし、行く先々の人々の反応は、音楽に造詣のある人は別として、子供時代とは比べようもないほど冷ややかなものに変じていました。王侯貴族たちが求めたものは「神の奇跡」であって、稀有の音楽的才能そのものではなかったのです。また、いずこの宮廷も貴族たちも、長年の奢侈放漫がもたらした借財に苦しみ、音楽どころではなくなっていました。

「天才」につきものの気まぐれなイメージとは裏腹に、実際のモーツァルトは、誇り高きプロの音楽家でした。作曲依頼の注文期日に遅れたことはほとんどなく、素人に近い音楽愛好家のために書いた作品すら、今日ではその分野の傑作と言われる名曲です。

 一方でモーツァルトは、楽壇や貴族たちとの駆け引きに疎く、「あまりに無邪気で、だまされやすい」(グリム男爵の手紙)青年でした。結局は、モーツァルトの就職旅行は失敗に終わりました。おまけに、旅先で最愛の母をなくし、さらに失恋というダブルパンチを受けたのです。傷心を抱えたモーツァルトは、再びザルツブルクへ戻るしか、ありませんでした。


 とはいえ故郷はすでに、天才が翼を広げる場所ではなくなっていました。モーツァルトは一人、再び旅立つ決意を固めます。行く先は、ウィーン‐モーツァルトの言葉を借りれば、当時のウィーンは「ピアノの国」でした。

 ウィーンは音楽が盛んな都会で、宮廷劇場だけでなく、カジノやレストラン、上流階級の邸宅で、毎晩のように予約演奏会が開かれていました。当時ピアノは、改良を重ねてようやく現代の楽器に近くなり、オーケストラと対等に渡りあえる表現力と音量をそなえたものに進化していました。貴婦人たちは教養の一環として、こぞってピアノを習いたがり、楽譜は飛ぶように売れていく‐ここならば、宮仕えをせずとも、生計を立てていくことができる‐そんな風に、モーツァルトは考えたのです。

 幼い頃から、音楽家として生きるべく、厳しく父から育てられたモーツァルトだからこその、いかにもプロらしい選択、それが、ウイーンで、フリーランスの音楽家として生きていく、ということでした。


♬時を越えて輝きを放つモーツァルト音楽

 ウイーンで、またたく間にモーツァルトは楽団の寵児となります。コンスタンツェと結婚し、豪華な住まいを借り、社交界でもてはやされて過ごします。モーツァルトは、いわば「流行」になったといえますが、流行とはやがて廃れるものでもありました。モーツァルトのウィーンでの人気凋落について、古来さまざまな論考がなされてきました。けれども、決定打と呼べるほどの説はありません。ただ、「時代の変化」は、確かにモーツァルトが落ち目になった理由の一つです。

 とはいえ、オペラ『魔笛』の成功は、再び楽団の寵児となる時期が近いことを告げていたはずです。しかし、モーツァルトに残された時間は、長くはありませんでした。36歳にわずかに満たない若さで、早熟の天才モーツァルトは、世を去ります。

 死後ほどなくして、ドイツを中心にモーツァルト・ブームが巻き起こり、以来モーツァルトの音楽は、全世界の人々に愛されてきました。それは、モーツァルトの音楽が、耳に心地よく、美しいだけのものではないからです。何より、人間の心情や感性の多才な綾を、巧みに豊かに、音楽で表現している、というのが、モーツァルト音楽の最大の魅力です。

 200年以上昔の価値観や習慣の中で創造された音楽が、現代の人間の心を揺さぶることができる‐これこそ、モーツァルトが成し遂げている最大の奇跡ではないでしょうか。」







宙組『FlYING SAPA』、きっと会えるよね

2020年04月13日 22時09分06秒 | 宝塚
「Jun Miyake /三宅純 @jun_miyake 7時間

宙組Flying Sapa、今日から公演開始か?という淡い望みもありましたが、既報の通り延期となりました。
出演者+制作チームの方々の真摯な研鑽は感動的でした。
劇場での音響もベストに作り込んでいたのにすごく残念です。
近々私の方からお知らせしたいことがございますので、数日後に。」


 昨日ライブビューイングで会えるはずでした。幻となったチケット代だけでも何億?何十億?の損失となっているはず。6月末まで全公演中止も、退団予定日を変更して7月以降の公演スケジュールも見直しもみんなの命を守るための命がけの決断。未来のために今は中止するという決断。みんな生活があるのだから、ひとつひとつ命がけの決断。次に観劇する機会にめぐまれたときはいっぱいいっぱい拍手を送る。見届けるまで死ぬわけにはいかないやね。

 まあ様が退団のあいさつでのこしてくれたことば、

 「この唯一無二の世界が永遠でありますように・・・・」
 
 祈り続ける。

 





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命がけの決断を無駄にしたくない

2020年04月13日 13時01分54秒 | ミュージカル・舞台・映画
「神田恭兵@KyouheiKanda


昨晩書いたように僕らが舞台を中止するという事は、3年後の未来を大きく変えてしまう。
これで辞める俳優もきっと沢山出てくる。
でも今はやらない事が未来を作るのだとどの俳優も思っている。
だから僕らが命懸けで決断をしたんだから、政治家の方々も命懸けで頑張って下さい。
応援してます。」

「神田恭兵@KyouheiKanda 4月12日


役者はオーディションを受けるのが約2年前、決まるのが1年半前。スタッフさんたちは企画のために動き出すのは3年以上前。
公演期間は1、2ヶ月だけど、それに込めた人の準備、かけた時間、思い全てが無になってしまう、この状況。
今は舞台はやるべきではないと心から思う。
でもただただ悲しいな。」

 

 

  


 2020年『ミス・サイゴン』、5月23日に帝国劇場で幕があがるはずでした。みんなが無事に生き延びていけばまた『ミス・サイゴン』に、神田恭平さんのトゥイに会えますね、帝国劇場で会えますね。その時が訪れると信じて、その時まで死ぬわけにはいかないとの強い気持ちをもって無事に生き延びていこうと思います。次に観劇する時は今までよりももっともっと大きな拍手を送る、その日が必ず訪れると今は信じるしかない。

 国会議員のみなさん、せめて特別委員会や本会議場で居眠りするのやめてくださいね、わたしたちみんな一日一日、命がけで生きています。

 画像は2014年『ミス・サイゴン』。こんな時だから少しずつ思い出をたどり直していこうと思います。『ミス・サイゴン』の前に、『モーツァルト』の記事、もう一回だけお付き合いください。

他人に判断を委ねないということ

2020年04月13日 08時29分11秒 | 気になるニュースあれこれ
「他人に判断を委ねないということ」

https://note.com/kyoukn/n/n95d3beb0aabf

野本響子@マレーシア編集者&ライター
2018/07/19

「災害時にいつも思うのは、重要な局面は自分で判断しないといけないってコトです。」

「現場の状況を一番わかってるのは自分です。」

「マレーシア人は、政府や公的機関をそこまで信用してません。
必要があれば、国も変える、と言う人も少なくないのです。
実際、今回の選挙の結果をみてダメなら国を変えようと思うと言う人、結構いました。(逆に選挙の結果で戻って来た人もいました)
ところが、子供の頃から親や教師の言うことを全部聞いてくると、この判断力が鈍って来ます。
自分で判断するって選択肢が見えなくなっちゃうんですよね。」

「周りに判断力がないのなら、無視して自分で動いちゃえばいいと思うんですよね。」