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たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

小原麗子『自分の生を編む-詩と生活記録アンソロジー』より-「むらのなかの声を聞く」(3)

2021年11月14日 18時19分23秒 | 本あれこれ
小原麗子『自分の生を編む-詩と生活記録アンソロジー』より-「むらのなかの声を聞く」(2)
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/200cdef5a8381cf4e9b429b893ad11c1



「千葉青年(25歳)は次男である。しばらく前までは家の百姓仕事をやっていた。老いた両親と三人で農作業に精を出す。兄は教師である。兄嫁も教師である.千葉青年は京都の大学で学び帰ってきた。農作業をやることに苦痛はない。だが次男であるから「家」を継ぎ農業をするということにはならない。両親は長兄が帰ってくることを信じている。長兄に老後を見てもらうことは、あたりまえのことであった。弟に家業を継がせることで揉め事は起こしたくない。家の中の揉め事を外に晒すことは出来ない。

 千葉青年は家の内にかもされるそうした空気のなかで、いつまでも家にはいられないなと思う。それで外に出て働くことにした。県庁の臨時職員で古墳発掘作業の助手の仕事である。発掘作業の根拠地は、この町の菊池屋旅館であるから、ときどきしか家に帰らない。千葉青年の手伝いは少なくなった。

 老いた両親を見かねて、今年の四月から兄が家から通勤すると言いだした。兄の子どもは来たが兄嫁は来ない。兄嫁は一度も百姓仕事に手を染めたことがない。兄は学校に行く朝めし前と、学校から帰っての夕方、農作業をやる。朝、兄の出かける時間に合わせて、父も母も動き出す.子どもが来たので子どもの動きも目に入る。子どもは夕方になると腹がすく。すると老母は孫が気になりだす。兄もそろそろ帰ってくるだろう。農作業のみに精を出してはいられない。いままで老父母が自分たちの身体に合わせた時間で、朝から夕方まであまり急ぐこともなくやっていた農作業のリズムが壊れてゆく。勤めの兄の時間に合わせて、家々のリズムがまわり、みなどこか落着かない。いらだたしい気持を抑えている。
身体に密着していた時間が剥ぎとられてゆく。
                           (『くらし』第28号、1975年3月)

 いままで老父母が自分たちの身体に合わせた時間で、あまり急ぐこともなくやっていた、農作業のリズムう場合の、この身体に合わせた時間とは、管理されていない時間である。「農村婦人の過重労働」といみきらった肉体の酷使にさえ、自分の身体に合わせたリズムというものがあったのではないかと思えてくる。
 
 (略)

 勤めの兄の時間に合わせることによって、農業を営む家のリズムが壊れて行く。「勤めのリズム」とは、管理されたリズムである。タイムカードのリズムであり、思考の小間切れとわたしが嘆くリズムである。レイレに立つ時間も何円の損失となりかねないリズムであり、生身のからだから「時間」を剝ぎ取って売る時間である。

 農業の破壊とは、この時間リズムの破壊ではなかったろうか。つまり、農業の持つ自然のリズムは一時間何円と換算出来るものであったろうか。

 自ら酪農経営をやってみて、岡田米雄氏は「農作物を商品にするな」と唱えている。

 もちろん、岡田氏とて、いまの世の中で、「化学肥料や農薬を使えば人手が省けるし、生産量も急増する」。農民が農業で生きてゆくためには、そうしなければならないことを承知でいうのである。承知のうえで、化学肥料や農薬を使ってまで農産物を増産し、生産過剰でいじめぬかれる愚行は自給自足経営ならおこりようもなかったと前置きし、それが、資本主義体制にまきこまれて、農産物を商品として売買するようになってから、農民は、ニセモノをつくり出し、農業を否定する結果になったと私は思う。

 農産物は、他の工業製品とちがって、これは、人間のいのちそのものだ。従って、人間が他の何よりもされるなら食べ物も人間同僚、他の何よりも尊重されるべきだ。ということは、コスト高だから化学肥料や農薬を使おうということは許されず、本質的には、本物の農産物を人間に供給するためには、コストのいかんにかかわらず、本物農産物を生産し人間に供給しなければならないはずだ。人間の命を救うのに、金がないから救えないことが罪悪であると同じに、こすと如何によって農産物を生産するのも罪悪であろう。つまりは、人間が非合理的なものであるように、農産物も非合理的なものであり、合理化されえず、商品化されないものである。農業経営は、企業として成立たせてはいけないのだ。そして、農産物は、商品として売買されてはいけないのである。

                  (『思想の科学』1970年4月号より)

「村」のうちに流れていたリズムの破壊とは、農業(自然)のリズムの破壊でもある。それは、とりもなおさず女の持つ体内(自然)のリズムの破壊でもあった¨。いや、そうではなく、女の持つ体内(自
然)のリズムの破壊こそが、農業(自然)のリズムの破壊と、イコールをなしていたのである。

 この世は男の論理によって統轄されているという。その論理が、「経営の規模拡大」であり、効率万能であり、利益の追求であるなら、女の体内(自然)のリズムは、その論理の装甲によって、引き裂かれ潰されていったイメージである。

「子どもを生む生まぬは私的なことで、生まぬと自ら決めてかかる女ゴたちが現われるに至っても、生めよふやせよと号令をかける訳にはいかぬだろう。ただ子供を生む女子を生む女子(人間)などは、どんどん切り捨てて、企業をどんどん優先させてまで、人類はどこに行くつもりなのかと思えてくるのである。きょうは、豊八どのの嫁ゴが子供を生む日だからといって、企業が、人類が総出で日なたぼっこをしていたら、宇宙征服の秒読みにおくれるというのだろうか。核実験の競争におくれるというのだろうか。」(「現代の青田売りについて」1970年)と、かつてわたしはこう書き止めて、この世の論理(男の論理というべきか)に疑義を申し立てた。」 

     (2012年1月6日、日本経済評論社 発行『自分の生を編む』、125-128頁より) 



宙組ブロードウェイ・ミュージカル『プロミセス、プロミセス』-初日おめでとうございます

2021年11月14日 01時48分07秒 | 宝塚
宙組ブロードウェイ・ミュージカル『プロミセス、プロミセス』ポスター画像公開
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/3f1027ce902d35d5474c1c420952aa00


芹香斗亜主演、宙組公演、ミュージカル「プロミセス、プロミセス」開幕
https://ameblo.jp/takarazukakagekishikyoku/entry-12709861162.html

 帰りがけにタブレット端末でキャトルレーヴのHPをチェックするとプログラム発売とあるので、電車代少しばかり持ち出しで有楽町駅まで足をのばしました。タイミングよくあと5分ぐらいで時間制限となる日比谷シャンテのキャトルレーヴに整理券なしで入ることができました。『プロミセス・プロミセス』のプログラムありますかとたずねるとご用意していますと。入ってすぐところにあり、スチール写真も、しどりゅうをしどりゅうと認識できないまま、とにかく4枚手に取りました。(よくみるとそらくんもしどうりゅうくんも結婚指輪しています。)お会計のカウンターでポスターもありますがよろしいですかと全くストレスを与えることなくさりげなくきいてくれるところが宝塚。毎回ほんとにすごいと思います。買う方もウキウキしている幸せ空間。

 裏表紙のキキちゃんも素敵。足が長い、ピンク色の着こなしが可愛くてカッコいい。保険会社の経理担当という地味な役なんですね。各新聞にあがっている初日レポ記事や観劇された幸運な方々のSNSを読んでいると花組ではみりおちゃんを、宙組にきてからは真風さんを支えてきているキキちゃんの安定の実力が発揮されていて、宝塚の新しい二枚目像になっているのかな。ほぼ出ずっぱりでものすごい台詞の量に、アドリブもうまくて存分に楽しませてくれるみたいで読んでいるだけで幸せな気持ちになります。かつていっちゃん(一路真輝さん)が二番手時代がいろんな役をやれて一番面白いと何かの番組で話していたことがあります。キキちゃん、いろいろなバリエーションの役をそれぞれ存分に楽しみながらやっているし、応援している人は長くいろいろなキキちゃんに出会えて幸せなことと思います。組替えで人としても成長したにちがいないキキちゃん、カーテンコールでは雪組へ異動するそらくんを、宙組の~と言い直して紹介していたとか。あったかいね。

 ルイマキセくんはもともとの男役と代役で急遽決まった娘役の両方を早替わりでこなすのか。プログラムではリーゼントの悪い顔しているのがはけたと思ったらすぐにミニスカートで登場して、久しぶりのキキちゃんのキス・シーンの相手がルイくんで客席から笑いが起こったとか。ほんとに急だったのにこなせる安定の実力。ヒロインのみねりちゃん可愛くて、みんな歌がうまいのでコーラスが素晴らしいとか。

 プログラムの表紙をめくると、アメリカの著作権のきびしさが書かれています。著作権の会社かな?協力会社として名前が記載されています。残念ながらライブ配信や円盤の映像がSNSにあがってしまうこともあるから、ライブ配信も映像化もないかな。💰を出せばいいというだけではないと理解。もし映像がインターネット上に出てしまうことがあると劇団がすごく困るでしょう。みることができないのはさみしいですがこんな時に幸せな気持ちになれる作品を全力で届けてくれているという事実だけでも嬉しいです。原田諒先生のメッセージも嬉しいですがそれはまた明日にしましょう。






雪組の千穐楽を待つ東京宝塚劇場







シアタークリエ





日比谷シャンテ、OGさんのポップアップショップ、2階のステージ衣装展のすぐ前でやっていますが、みなさま綺麗すぎて眩しすぎて、アクセサリーなど買えるおサイフを持ち合わせてもいないので今日も入ることができませんでした。

『マイ・フェア・レディ』が始まる帝国劇場まで歩きましたがお写真はまた明日。











ペニンシュラ東京ホテル前





2014年2月寒風吹きすさぶ中労働局からの帰りに涙しながら歩いた丸の内仲通り、イルミネーションがきれいでした。















 杖かわりのビニール傘のおかげでいくぶん足の負担が軽かったように思います。ニュースをみれば吐きそうになり、自分の現実は暗黒、どうすればいいのか思考がとまり涙がにじむばかりですが今日はプログラムとスチール写真をみながら幸せな気持ちで休みましょう。



無事に往復できますように・・・

2021年11月13日 08時20分52秒 | 日記
 晴れやかな空、土曜日、あまり眠れなかったので今ひとつ頭は動いていません。無事に往復できますように、無事に一日が終わりますように・・・。

折りたたみ杖を注文してみました

2021年11月13日 00時14分06秒 | 日記
 アマゾンで折りたたみ杖を注文してみました。本格的なものではなく、あくまでも鞄に入れることもできるようにつくられているもの。日曜日に配送予定、可愛いので届くのが少し楽しみです。宙組『シャーロック・ホームズ』で真風さんホームズもキキちゃんモリアーティも剣を仕込んだ杖を持っていたことを思い出しました。ライヘンバッハの滝では最初にモリアーティが杖から剣を抜いてホームズに斬りかかり、ホームズは杖でかわすと自分も杖から剣を抜いて闘うという流れでした。東京公演プログラムと「ル・サンク」でそれぞれ杖を持っているお写真を確認。ホームズさんはアドリブで杖の頭の馬にチュンチュンやっていました。この舞台を思い出せば杖を持つことも悪くないと思えます。いや楽しくなる?『デリシュー』のキャンディーケーンの場面でキキちゃん、ららちゃんたちが持っていたステッキのようなポップなものがあればもっと楽しくなりそうですがさすがにないか。可愛いは正義、気持ちもあがります。







 明日はまた小さいビニール傘をもって出勤、土曜日なので人の歩みもゆっくりで少し楽です。平日の帰りは少し遅めに電車に乗ってもすごい人がいます、10両編成のいちばん後ろの車両に乗るためにホームを歩く時も誰もがすごい早さで歩いているし、おまけに工事中でせまくなっているので杖を持って足が悪いのでごめんなさいとアピールしないと危険と感じます。疲労しているところに立ち続けていると痛みと痺れがひどくなってきてしまい、このままでは体が壊れてしまうのではないかと涙が滲んできました。わたしが希望してやれるのであれば週4日以上働くこともできるようですが往復するのは週に3回が限界と感じます。残念ながら遠い、最寄り駅までバス生活になった分だけ時間かかるし体もきつい。とうていお給料足りないので、へたに稼働時間を増やしてしまうと負担の方が多くなりすぎるというジレンマの間で折りたたみ杖を使うことでどこまで自分やれるのか。

 お風呂でマッサージして布団の上でヨガポーズの全身ストレッチと体操して7時間以上眠ることができると痛みと痺れがやわらぎ少し動きもよくなります。休息は大事なんですね。眼も肩も足も体は全身でつながっているので股関節なら股関節だけの保険によるリハビリの限界も感じます。定期的に通院を継続できるだけの時間とエネルギーはないのでPTのリハビリはもういいかなあ。かといって完全に中断してしまうのも不安、かといってそんなに辛いなら手術、手術と言われてしまうのもいやだし、整形外科なんてこれまでお世話になったことないし、お世話にならざるを得ないことをわかっていなかったのでなんか苦手、むずかしいです。最初に担当してもらったPTさんにいろいろと話したし話せたし1か月でいなくなるって突然決まったのかな。志の高い人は他にいくかもなあ、どうなんでしょうか。

『プロミセス・プロミセス』、お知らせがないのは、おそらく著作権によりライブ配信はないのかな。明日キャトルレーヴまで足をのばしたらプログラム売ってるかしら。雪組の観劇録がなかなか書けず次の日曜日には書けるといいかな・・・。

 

 



小原麗子『自分の生を編む-詩と生活記録アンソロジー』より-「むらのなかの声を聞く」(2)

2021年11月12日 17時08分47秒 | 本あれこれ
小原麗子『自分の生を編む-詩と生活記録アンソロジー』より-「むらのなかの声を聞く」(1)
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/7309982893cbafa7531a084207cdb5b3




「「オレの叔父ごよ、かなりの山あってよ、それを売ってくらしてた時はえがったのよ」と、後の席の田山次長は言い出すのである。十何アールかの山林に木々を飢え、成木になった順に、切り倒しては売る。切った後に植林する。老農夫は、ゆっくりと木々の成育を見てまわる。

 木々の成長の年月に合わせて、農夫の生活と時間の単位はめぐっていたのだろう。

 (略)

 開田が終ったと思ったら「休耕せよ」、そしてはたまたその復元工事には、二年間無利子で資金を貸付けるなどと「政治」は言い出すのである。

 「忙しばり、忙しくてよ、借金もどっさり背負ったすよ」と、田山次長は叔父ごについての説明をするのである。そういえば、あの『ほうかい沼のまつり』の木こりの親娘も消えうせてしまったのであった。(『くらし』第26号、1974年3月)


 山を切り開いて水田とする。

 これは、人が、飢えを充たすべく農業をやり始めてから一貫して持ち続けてきた思考ではなかったろうか。

 原野に開墾の鍬を入れるという思考は、なにもいま自分たちが住む土地のみに限ったわけではない。それはかつて満州開拓移民として「村ごと」の移住戸なって表われもしたのである。同じ村なりに住む農業者が離農することは、村そのものを淋しくする。だが離農者があればあるだけ、自分たちの経営面積も拡大出来るのだと語った青年は、なにごとにも誠実だった。「農業経営の規模拡大」という字句は、いまもなお魅力なのである。

 田村青年の水田耕作面積は13ヘクタールである。この2-3年の間に6・5ヘクタールから、2・7ヘクタールを購入し、さらに3ヘクタールの借地がある。この市内でも上位にランクするだろう。その表情の幼さとは逆に、田村青年の態度には、どこか耕作面積の拡大と比例して、横柄さが付着してゆくのは否めない。もちろん、これに要した資金の調達は自前というわけいにはゆかない。耕作面積は莫大な負債のつっかい棒によって成り立っている。

 山を聞いて水田とする。だが、そこに、すぐさま水稲の植え付けが可能となるわけではない。水利事業もまた苦難の歴史としてある。この地の奥寺堰の開通は、1665(寛文5)年から1679(延宝7)年まで、15年の歳月を要し、労働の主体は囚人であったと伝えている。

 山を切り開いて水田とする思考には苦難の歴史と、経営の規模拡大がまじり合う。まじり合うことによって、より強力に農民の思考の中枢にすわる。その思考を、この老農夫は止めたのである。止めてみることが出来ると、エピソードは語っている。

 山を切り開いて水田の規模を拡大したその結果が、くらしを楽にせず、ゆったりした生活のリズムを破壊していくとは、思いもよらないことであった。」


 (2012年1月6日、日本経済評論社 発行『自分の生を編む』、122-123頁より) 

宝塚歌劇団顧客満足度第1位

2021年11月12日 00時10分23秒 | 宝塚
2021年11月2日付、JCSI 日本版顧客満足度指数より

「エンタテインメント業種は、2017年度以降2019年度までスコアを上昇させて
おり、2021年度も2019年度より上昇しました。順位は、1位宝塚歌劇団、2
位劇団四季、3位東京ディズニーリゾートとなりました。」

https://www.jpc-net.jp/research/assets/pdf/10b049d7ba11119985fe29de80d62f8d.pdf

 11月4日に東京宝塚劇場で雪組を観劇した時も残念ながら、客席もロビーもお喋りの声がとまりませんでした。公演を続けるためにマスクをしている状態でもお連れ様同士での会話や談笑はお控えくださいと若いスタッフさんたちが繰り返し呼びかけていました。トイレ待ちの列の目に入るようにかな、壁にも貼ってありました。終演後はお話は劇場を出られてからお願いしますと呼びかけていました。トイレ待ちの列に並んでいる時、2階ロビーで開かれているリニューアル20周年記念の展示をみている時、どうしても喋らずにはいられないのか、日生劇場と帝国劇場が静かだった後だけによりいっそうざわめきがひどいように感じました。なぜこうもうるさいのか、イライラしました。なんだか呼びかければ呼びかけるほどガン無視してお喋りしているんじゃないかと思うぐらい、残念でなりませんでした。一生懸命やってくれている若いスタッフさんたちがこのおばちゃんたちにうんざりなっているのではないかとすごく心配になりました。すごく宝塚が好きでスタッフになったのかもしれないのに、これで宝塚をいやになってしまったりしませんようにと思います。

 先日初めて松葉杖で東京宝塚劇場を訪れた時のスタッフの対応の素晴らしさをSNSに書かれている方がいらっしゃいました。入口で声をかけてくれて、エレベーターに乗る時にはすでにスタッフがドアを開けるボタンを押して待っていてくれたとか、わたしは雪組観劇時は体を休めた翌日だったのでさほど足を引きずることなくすみましたが、帝国劇場と日生劇場は出勤の翌日だったの辛くてスタッフさんの気遣いが本当に嬉しかったので、感謝を綴りたくなった気持ち、よくわかります。

 人は本当に色々です。どんな人がどんなことを言ってくるかわからないので、サービス業は本当に神経を使う感情労働だと思います。劇場スタッフのみなさま、キャトルレーヴスタッフのみなさま、いつもありがとうございます。わたしたちが楽しく安全に観劇できるようにと心を配って下さり、尊敬と感謝の気持ちでいっぱいです。これからもよろしくお願いします。

 ところで劇団さん、キキちゃんの『プロミセス、プロミセス』、ライブ配信のお知らせ、忘れていませんか。著作権の都合とかないですよね、梅田芸術劇場公演が13日からなので配信があるとしたら東京公演かなと期待しています。配信ありますよね、待っています。よろしくお願いします。



 

無事に往復できますように・・・

2021年11月11日 08時33分56秒 | 日記
 晴れやかな朝、不安神経症に打ち勝って無事に往復できますように・・・。

 雨は降りませんが小さなビニール傘をもって出てみます。つっかい棒のかわり。


明日はビニール傘をもって出勤しよう

2021年11月11日 00時01分27秒 | 日記
 先ほどやっとアマゾンで折りたたみ杖をみてみましたがカートに入れるにとどめました。お店で試して買った方がいいですかね、キティちゃんの折りたたみ杖があるんですね、高齢者を前提にした説明文ばかりですが、そりゃそうですが、これなら可愛いので気持ちがさがらずにすみそうです。金曜日にまた考えましょう。しばらく雨は降りそうにありませんが、明日は杖のかわりにビニール傘をもって出勤しようと思います。小さいので目立たないし、どこかに忘れても惜しくはないもの。朝はそうでもありませんが、帰りは疲れているのでふらふらしてしまって駅のホーム、電車の中、駅構内、買い物するために歩く地下街の人混みが危ないと感じます。転倒するかもしれないので支えるものが必要。レントゲン写真で軟骨がすでになくなってしまっていると言われたことを実感するようになりました。体重をかけるとかくっとなります。左足の靴を履く時とか着替える時とかもできるだけ右足に体重をかけないようにしないと手術しないで人生を終えることはできないのかもしれません。お皿がすべっていないと言われた右膝とかばって歩くために左足も痛みます。生まれる前から股関節脱臼していたとこの年齢になって知ることになった人生、自分では選びとれなかった試練、なにか努力したらなってしまった軟骨がもどるわけでもない。体を左右に揺らしながら歩いていますが、わたしの根性が足りないからではないし精神的にたるんでいるからでもありません。国家資格を生かせる仕事をさがすとか、経験を積み上げていくとか、そんな志を完全に失ってしまったわけではないですが手術を告知されたことでぶっ飛びました。残念ですが、訪問で歩き回ったことも相当ダメージを与えてしまいました。いつまで生きていられるのか、どこまで生き延びられるのか、自分がこの世にいるためにあといくら必要なのか、今はわかりません。先々週の土曜日むずかしいときかされた女性と明日初顔合わせ、少人数の狭いフロアに二人で取り残され状態になるとか、どうなるのかわかりませんが自分を食わせるためにまた出勤しなければなりません。

 パートタイムとはいえ、外へ勤めにでればリハビリ通院との両立はきびしい。医者通いは時間とエネルギーが必要。出勤の翌日疲れてしまってなかなか体が動かないし、リハビリの翌日はだるくなるので出勤がさらにつらい。馴染まないし再開したものの3回目をキャンセルしたまま、全く行かなくても不安ですが行ってもストレスになる。補助を受けて補装具をつくることができるならつくりたいですが確かめるためにはまた診察を受けるしかありません。どうしたものでしょうか。歩くだけで全身で緊張しているので足腰だけでなく全身ものすごく疲れています。お風呂上がりに足の長さをそろえてヨガポーズで全身ストレッチ、筋肉をつける体操を少し。今やれる最大限。

https://twitter.com/michinohisa

 妹が自死したことは事実、心の血を流しながら生きてきました。亡くなる前精神科医から家を出ることをすすめられていたと知ったのはいつだったか。誰も幸せになれなかった家、誰も幸せにしなかった家、どんな因縁があるのか。

 希望はありませんが、不安に支配されていますが、死ぬことはできない。今は生きていかなければならない・・・。

 生きる希望、ライブ配信のお知らせはまだですか、劇団さん。


小原麗子『自分の生を編む-詩と生活記録アンソロジー』より-「むらのなかの声を聞く」(1)

2021年11月10日 12時32分25秒 | 本あれこれ
小原麗子『自分の生を編む-詩と生活記録アンソロジー』より-姉は国と夫に詫びて死んだ(2)
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/81f543d30a1d7356d4f785e2daf286e3



「「大型の機械時計の発達は、市民を支配する領主側にとって好都合なものである。広場に建てられた巨大な時計のしめす時刻は、全市民に共通の時間となった。市民たちは同時性を確保する手段を与えられたのである。この同時性の贈物によって、ひとつの都市は共通の時間の流れによって管理されるものとなる。」(吉田光邦『時から時計へ』平凡社カラー新書、1975年」

 つまり、「かつてはせいぜい今の二時間ぐらいの単位時間を指示し所有することが、領主たちの権力のシンボルであった。」という。だから、初期の時計には分針はなく、一本の時針のみであったともいう。だが、いまや秒単位なのである。

「人間がこのようにこまかに分割された時間のなかで生きようとするのは、実は人間のすべての行動が秒単位で管理されつつることの証明でもある。」(前同)

「時は金なり」という諺がある。「時」をムダにしてはならない。なぜならわたしたちは限りある人生をいきているのだから、という意味でもあろう。すべて、金に換算されるこの世では、金がなくては生きられない。金を得るために、人は昨日もきょうも働いているように、その金銭に値するほどにも「時間」は貴重なのだという意味も含まれていよう。金銭に値するほどにも「時」は大切なのだという場合の「時」は大切なのだという場合の「時」は「金かね」に従属するものとして、例えられる。

 それは現代の労働なり仕事なりが、金銭を得るために働いているのだと、つい口にしたくなるほど、人の気持ちにそぐわないところで成り立っているのと同じである。金銭を得るためにではなく、人は手足を動かし、なにかを作り出していなければ、この世ではとうてい間が持たないのではあった。それが、いまは逆である。

「金さえあれば、こったに朝暗いうちから夜おそくまで働いて苦労すねェ」とは、貧乏をなめつくした、父からも母からも聞いた言葉である。

「時は金なり」と「時」を「金」に従属させる例えが示すように「時」を「金」に比較させることが、そもそも第一の轍を踏んだことの結果ではなかったかという気がする。

「地獄の沙汰も金しだい」というほどに「金」に力を持たせたがゆえに「地獄」を見るのだということは、予期せぬことであった。

「金」の虜になった人々のエピソードは絶えない。人はそれを口の上であやつり、ほんろうし、次の者に耳打ちする。

 上のT老人は、物を売ると紙幣ではなく、必ず硬貨に換えてもらった。硬貨がたまると夫婦で目方を計るのである。紙幣を数えるのではなく、夜半、夫婦で金の重さを計っているのである。その目はつりあがっているか、しだいに光をおびていったか、どちらかであろう。

 ある日、T老人は袋につめた硬貨を農業用一輪車に乗せてどこかへ持って行った。農業用一輪車に肥料その他ならいざしらず、硬貨の袋が積まれたということ自体、好奇心をそそるものであった。持って出かけた二日後にT老人は死んだのである。あの金の袋はどこへ・・・。これは上の人々にとって、いまだに謎である。

 春右ェ門さんは、地元の農協支所には貯金をしない。町なかの本所までわざわざやってくる。その貯金額とは逆に、身なりの貧しさは人一倍である。シャツの袖口もすり切れたままである。その袖口が出したお茶に入るのではないかと思う手つきで、ずるずるとお茶をすする。書き替えるたびにその定期の貯金額は多くなる。その証書(たかが一枚の紙片というなかれ)を古新聞に包む。息子のために蓄積された額かと思っていた長男は、30代の半ばで事故死した。だが、この20年近く春右ェ門さんの動作はつづいている。

 この頃は、大分からだもよかったのか、血圧が高いのだといい、花巻方面に行く者があったら、車に乗せてくれというのである。雪も降ってきたし、歩くのが大儀だという。ハイヤーを呼びますかと係の者が言う前に、乗せてくれなければ、わざわざここまで来て、貯金する気はないのだと、鼻水をすすりあげた。

 「金」の虜にならずとも、「金銭」が介在すると、視えなくなる関係というものがある。」

        (2012年1月6日、日本経済評論社 発行『自分の生を編む』、118-120頁より) 

『ちひろのアンデルセン』より-「アンデルセンいろいろ」

2021年11月10日 00時35分49秒 | いわさきちひろさん


「わたしは、仕事の性質上、たくさんの童話を読むけれど、わたしの好きな童話というのは、あくまでも自分の絵に都合よくできているものばかりである。詩のようにことばの短く、うつくしく、いろいろなことを思いうかべることのできる、そんなものが好きである。

 たとえ(文章で)克明に書いてあってもなお、わたしが描きよいものに、アンデルセンの童話のいくつかがある。「マッチ売りの少女」とか、いろいろなおひめさま、魔女たちに、わたしは、それぞれのイメージをつくり、それをすこしずつ発展させながら、なんかいかいたことだろう。なんかいかいても、なお工夫するたのしさを、わたしはいまだに失わないでいる。

                                      ちひろ・1964年」