あかない日記

写真付きで日記や旅行・趣味を書き留める

小説家 森鴎外 1

2022-07-09 | 人物忌


   名作のある風景・森鴎外「雁」 (日本経済新聞 2003/11/8)

 

 7月9日は 小説家 翻訳家 陸軍軍医の
  森 鴎外 が亡くなった鴎外忌

森鷗外(林太郎)は

1862(文久2)年1月19日
  石見国津和野町田村(現・津和野町)にて
 代々藩医の長男として生まれる。

1872(M5)年
  父と共に上京し  政府高官の親族で
    哲学者の西周(にし・あまね 1829-1897)
    宅に下宿

 官立医学校へ入学するためにドイツ語を
   学び始める。

1874(M7)年
  第一大学区医学校
  (現・東京大学医学部)予科に入学。

 入学に必要な年齢が足りず 
    14歳と偽って試験を受ける。

1877(M10)年
  本科へと進む。
 ドイツ教官からの講義を受けるかたわら

 佐藤元長(1818-1897)に師事し漢方医学
   さらに漢詩や漢文といった文学にも
   傾倒していく。
1881(M14)年
   大学を卒業。しばらくは
  父の橘井堂医院(北千住)を
    手伝っていたが
陸軍軍医副となり
    東京陸軍病院へ勤務する。

1882(M15)年
   軍医本部に配属され プロイセン王国の
  陸軍衛生制度の調査に従事。

   同時に私立東亜医学校にて
      衛生学の講義を受け持つ。

1884(M17)年
    陸軍衛生制度のさらなる調査や
  衛生学の習得のためドイツに留学

1884~87年
    ラプツィヒ大学、ドレスデンの軍医学講習会
  ミュンヘン大学、
細菌学者ロベルト・コッホの
  衛生試験所などを経て  勉学に励む。

  カールスルーエで行われた 
  第4回赤十字国際会議では
  通訳者を務め称賛された。

1888(M21)年
   プロイセン近衛歩兵第二連隊の軍医に。

  9月帰国し 陸軍軍医学舎と陸軍大学校の
  教官を兼任。

1889(M22)年
   読売新聞の付録として
 「小説論」を発表し  文学活動を開始。

1890~91(M23-24)年
  「舞姫」「うたかたの記」「文づかひ」など
  ドイツを舞台にした小説を

  相次いで発表し 注目を浴びる。
1894~1895(M27-28)年
  日清戦争が勃発し 
  軍医部長として駆り出される。

  終戦後は台湾にて勤務した後に帰国。
1896(M29)年
  陸軍大学校教官に再度就任。
 小池正道との共著「衛生新編」を発表。

 文芸雑誌「めざまし草」を創刊。
1899(M32)年
  陸軍軍医監に昇進。

 北九州に徴兵区をもつ第十二師団の
 軍医部長として小倉へと移る。

1902(M35)年
  荒木志げ(1880-1936)と見合い結婚。

  第一師団の軍医部長の辞令を受け
    東京に赴任。

 「めざまし草」を廃刊した後
 上田敏(1874-1916)らと「芸文」

 後に「万年艸」を創刊。
1904~1906年
    日露戦争に軍医部長として出征。

1907(M40)年
   陸軍軍医総監に昇進し
   陸軍省医務局長となる。

1909(M42)年
  文芸雑誌スバルにて
 「半日」「ヰタ・セクスアリス」「鶏」

 「青年」などを連載。
  東京帝国大学から文学博士の学位を
    授与される。

1911~18(M44-T7)年
  「雁」「鼠坂」「阿部一族」
 「山椒大夫」「高瀬舟」など
執筆。
  ゲーテなどの外国文学の翻訳も行う。

1916(T5)年
  陸軍引退。
1919~21(T8-10)年
   初代帝室美術院長(現・国立博物館長)を務める。

   次第に病状が悪化。
1922(T11)年
   腎委縮・肺結核により病死。享年60

 

               (参考:ウィキペディア)

 


写真家 植田正治

2022-07-04 | 人物忌

 

 7月4日は 
 写真家 植田正治が 亡くなった日

 

植田正治は

1913(T2)年 
  鳥取県西伯郡境町(現・境港市)
 履物製造小売業を営む父・植田常寿郎
 母・ミヤの二男として生まれる。
1931(S6)年 
 鳥取県立米子中学校(現・米子東高校)卒業
 米子写友会入会
1932(S7)年 
 増谷麟の世話により
 東京・オリエンタル写真学校に入学
 3ヶ月間通う。  

 帰郷し 自宅で植田写真場を開業
1937(S12)年 
   中国写真家集団創立同人となる。

1946(S21)年 
 戦後第1作「童」が
 朝日写真展覧会特選に入選
1947(S22)年
 写真グループ「銀龍社」に参加
1955(S30)年
 二科会写真部会員となる。
1958(S33)年 
 ニューヨーク近代美術館での
 エドワードスタイケンによる
 企画展に「雪の面」を出品
1975(S50)年
 九州産業大学芸術学部写真学科
 教授(待遇)に就任(~1994年)
1978(S53)年
 フランスから
 アルル・フォト・フェスティバルに
 招待される。

 作品数点がフランス国立図書館の
 コレクションに入る。
1993(H5)年
 東京で大規模な個展を開催
1994(H6)年
 フランス文化庁が20作品購入
1995(H7)年
 鳥取県岸本町(現・伯耆町)に
 「植田正治写真美術館」開館

 作品12,000点を収蔵
 建物は建築家 高松伸の設計により
 館内から大山を真正面に望み
 「逆さ大山」を写す人工池がある。

1996(H8)年
 フランスから芸術文化勲章を受章

2000(H12)年
 死去 享年87

このポスターは
2014
年島根に旅行したとき見かけたもの。

当方が初めて植田正治を知ったのは
2013年にNHKで放映された
「写真する幸せ~
   植田正治・UEDA-CHOの秘密~”であった。

植田は 生涯 故郷鳥取にとどまり
砂浜や砂丘を大きなホリゾント
(背景の幕)に見立てた
独特の「演出写真」を撮り続け 
その作風が「植田調」と呼ばれ 
海外でも そのまま「UEDA-CHO」と
表記されるほど 世界で
その名を知られる写真家となった。

特に フランス国立図書館が買い上げた
植田のオリジナルプリントの存在が
35年ぶりに明らにされていた。

 

        (参考:ウィキペディア ほか)

 

 


作家 住井すゑ

2022-06-16 | 人物忌


 2021年11月3日 「牛久市住井すゑ文学館」開館

 

 

6月16日は 作家 住井すゑが亡くなった日

 

住井すゑは 

1902(M35) 年 
 奈良県磯城郡平野村(現・田原本町)に生まれる。

 実家は大和木綿の製造業と農業を営んでいた。

1919(T8)年
 17歳上京 講談社に入社するが 

 女性社員への給与差別に抗議して1年で退社
1921(T10)年
 農民解放を目指した
 農民文学者・犬田卯(しげる)と結婚

1930(S5)年 
 無産婦人芸術連盟に参加し
 女性解放の視点からも創作活動を続けた。

1935(S10) 年 
 夫の郷里である茨城県茨城県稲敷郡
 牛久村城中(現・牛久市)に転居

1957(S32)年
 夫病死(66歳)

1959(S34)年
 「橋のない川」の執筆を雑誌「部落」に掲載

1961(S36)年
 第1部を出版

 自由と平等を求めて差別と闘う物語は
 800万部を超えるロングセラーとなり
 映画化される。

1973(S48)年
 第6部でいったん完結

 

  
        (2013年6月訪れた時)


1978(S53)年 
 自宅に平和や文化について学び合う
 「抱樸舎」(ほうぼくしゃ)を建てる。

 *「抱樸」は 老子の道徳経第19章から
  素朴な心を抱き続けること。

1992(H4)年
 第7部を出版

1997(H9)年 
 永眠 享年95 

 

2018(H30)年
 抱樸舎の住宅の建物と土地が牛久市へ寄贈

2021(R3)年
 改修され
「牛久市住井すゑ文学館」として開館

 

 

 


詩人 大町桂月

2022-06-10 | 人物忌

      豊坂(文京区目白台) 


6月10日は 詩人 歌人 随筆家の

大町桂月 がなくなった日

 

大町桂月(1869・M2-1925・T14)は 

高知市 元土佐藩士 大町通の三男として生まれる。
名は芳衛。

1896(M29)年 東京帝国大学国文科卒業
1899(M32)年 島根県で中学教師として奉職
1900(M33)  年 博文館に入社
1906(M39)年 退社

1913(T2)年 出版された「人の運」は
  処世訓集としてベストセラーとなる。

和漢混在の独特な美文の紀行文は広く読まれた。

終生酒と旅を愛し、酒仙とも山水開眼の士とも称され。
晩年は遠く朝鮮 旧満州まで足を延ばしている。

 

写真 豊坂の説明板には

「坂の名は、坂下に豊川稲荷社が
あるところから名づけられた。
 江戸期この一帯は、大岡主膳正の下屋敷で、
明治になって開発された坂である。
坂を下ると神田川にかかる豊橋があり、
坂を上ると日本女子大学前に出る。

 目白台に住んだ大町桂月は
『東京遊行記』に明治末期このあたりの路上風景を、
次のように述べている。

 「目白台に上れば、女子大学校程近し。
さきに早稲田大学の辺りを通りける時、
路上の行人はほとんど皆男の学生なりしが、
ここでは海老茶袴をつけたる
女学生ぞろぞろ来るをみるにつけ、云々」
(以下略)」

*「東京遊行記」(1906・M39刊行)

 



雅号・桂月は地元 月の名所桂浜から。

浜には碑が置かれ
「見よや見よ
     みな月のみのかつら浜
  海のおもよりいづる月かげ」


の歌が刻まれている。


        仏ヶ浦

桂月は 青森県の十和田湖と奥入瀬を愛し
晩年 同地の蔦温泉に居住したが
1925(T14)年 胃潰瘍のため温泉旅館で死去。
享年57

1922(T11)年 佐井村の仏ヶ浦を訪れ
「神のわざ鬼の手づくり
     佛宇陀人の世
      ならぬ処なりけり」と詠う。

その歌碑が仏ヶ浦極楽浜に置かれている。

 

 


華道家 初代 安達曈子

2022-03-10 | 人物忌

  (入場券)

  (入場券裏)

 

 

3月10日は 

華道家 初代 安達曈子が亡くなった日

安達曈子は
 
日本の華道家 花芸安達流創始者

 

1936(S11)年 
 安達式挿花の初代家元であった
 安達潮花(1887-1969)の
 次女として誕生

 名の曈は 「日」に「童」
 “トウコ”と名付けられた。
1955 (S30)年
 学習院女子高等学校卒業
1968(S43)年
 後継者に指名されたが
 父との考え方の相違から独立

1973(S48)年
 花芸安達流を創設し主宰する。
1981(S56)年
 2代目潮花の死を機会に
 安達式挿花を統合
1990(H2)年
 安達育を養女に迎える。

1994 (H6)年
 個展「道」桜仙抄(新宿三越美術館)開催し

 入場者 82千余名と花道界の記録に 
2003 (H15)年
「椿物語」(上入場券)で入場者 49千余名
2005 (H17)年
 安達育を副主宰とし後継者に
2006(H18)年
 急性肝不全の為に死去 69歳

  • 東京農業大学 
    山野美容芸術短期大学 
    恵泉女学園大学の客員教授
  • 日本ツバキ協会会長
    東京都の「東京緑化推進委員会」の
    委員長を務める。
  • NHK「連想ゲーム」の
    レギュラー回答者になるなど
    テレビ番組にもよく出演する。

 

 

参考:・ウィキペディア ・花芸安達流


詩人 茨木のり子

2022-02-17 | 人物忌


   写真は 谷川俊太郎氏による撮影
 (NHK「クローズアップ現代」から)

 

 

2月17日は 
詩人 茨木のり子 が亡くなった日

 

先日 NHK「クローズアップ現代」でも

死後から 16年経って 
創作の原点を語った貴重な肉声が
見つかったとして 取り上げられていた。

 

茨木のり子は

1926(T15)年 
 医師の父の長女として大阪市に生まれる。

1932(S7)年 
 愛知県西尾市へ移住
1943(S18)年
 愛知県立西尾高等女学校を卒業後上京

 帝国女子薬学専門学校
 (現・東邦大学薬学部)に入学
 在学中は戦時下の動乱に巻き込まれ
 勤労動員や空襲・飢餓などに苦しむ。
1946(S21)年
 同校を繰り上げ卒業
1949(S24)年
 医師の三浦安信と結婚

 埼玉県所沢町(現・所沢市)に移住

 結婚前後から詩を書き始め
「詩学」に投稿し認められる。
1953(S28)年
 川崎洋(1930-2004)と
 「櫂」(-1957解散)を創刊
 水尾比呂志(1930-)
 谷川俊太郎(1931-)
 大岡信(1931-2017)
 吉野弘(1926-2014)が参加
1958(S33)年
 保谷市(現西東京市)へ移住
1975(S50)年
 夫が肝臓がんのため死去
1976(S51)年
 韓国語を習い始め
 韓国現代詩の紹介に尽力
1999(H11)年
 「倚りかからず」が朝日新聞の
 天声人語に取り上げられ話題に
2006(H18)年
 くも膜下出血により
  自宅で死去 79歳

  墓は遺言の通り夫の墓
 (山形県鶴岡市)に眠る。

 

作品には

「話」(1955年)
「見えない配達夫」(1958年)
 *戦時下の女性の青春を描いた詩
 「わたしが一番きれいだったとき」が収録
「鎮魂歌」(1965年)
「自分の感受性くらい」(1977年)
「倚りかからず」(1999年)
「茨木のり子詩集」(1969年)
「韓国現代詩選」(1990年)
  

なお 先立った夫への想いを
綴った詩集「歳月」としてまとめられ
一周忌(2007年)に刊行された。

TVドラマ「3年8組金八先生」
(2007年放送)第8シリーズでは
詩集が取り上げられ

朗読されるシーンもあった。

 

 

 

 

 

 


洋画家 桂ゆき

2022-02-05 | 人物忌


  (BSテレ東「新美の巨人たち」から)

 

2月5日は 
洋画家 桂 ゆき が亡くなった日

桂 ゆきは

日本における前衛女性画家の
先駆者であり、第一人者

戦前から逸早く先端的コラージュの手法を
シュルレアリスムから
距離をおきながら独自に展開し

生活用具や動物など実在と抽象的な形を
混在させた独自の表現を探求した。
 本名は 雪子 初めは「ユキ子」
 1970年代頃から「ゆき」


1913(T2)年
 東京大学教授・冶金学者
 桂弁三の長女として
 東京市本郷で生まれる。

1931(S6)年  
 東京府立第五高等女学校
 (現都立冨士高)卒業

1933(S8)年
 東郷青児(1897-1978)が指導する
 アヴァンギャルド洋画研究所に通う。

1935(S10)年
 コラージュによる初の個展を開く。

 二科展に初入選し第9室に展示される。
1938(S13)年
 吉原治良(1905-1972)
 山口長男(1902-1983)ら
 とともに前衛グループ九室会の創立に参加

1946(S21)年
 三岸節子(1905-1999)らとともに
 女流画家協会を創立

1950(S25)年
 二科会会員となる。

1956(S31)年
 渡仏

1958(S33)年
 アフリカに旅行。

 帰仏後、すぐにアメリカに渡る。
1960(S35)年
 全米女流展(ニューヨーク、
 リバーサイド美術館)に出品

1961(S36)年
 帰国 東京画廊で個展を開く。

 第6回日本国際美術展で優秀賞を受賞
1963(S38)年
 「女ひとり原始部隊に入る」で
 毎日出版文化賞を受賞

1966(S41)年
 第7回現代日本美術展で
「ゴンベとカラス」が最優秀賞を受賞

1979(S54)年
 東京画廊で3回にわけて
 戦前から新作までの個展を開く。

1980(S55)年
 山口県立美術館で「桂ゆき展」開催

1981(S56)年
 「1960年代--現代美術の転換期」展
 (東京国立近代美術館)に出品

1991(H3)年2月5日
 癌のため東京女子医大病院で逝去 77歳


    

   50年前に コロナ感染を予感か!

 

参考:BSテレ東 「新美の巨人たち」
   ・ウィキペディア

 


軍人 三浦 梧楼

2022-01-28 | 人物忌


   文京区小石川2丁目3番

 
1月28日は 陸軍軍人 政治家
三浦 梧楼(梧樓)(みうら ごろう)が亡くなった日

 

なぜここに 三浦梧楼の碑があるのか?

説明文には

「前文略~(三浦梧楼将軍は) 
嘗て本町会の設立にあたって
非常に力を貸して下さり、町会長に
推たいした事もあったと伝えられている。
大正15年(1926年)当地でなくなられたので、
ここに生前尽くされた将軍の偉德を偲んで
碑を建立した。 
昭和57年8月吉日 富坂二丁目町会 」

とあり 現・小石川2丁目が終焉の地であった。

 

三浦梧楼は 

日本の武士、陸軍軍人、政治家
最終階級は陸軍中将 
栄典は従一位勲一等子爵 号は観樹


1847(弘化3)年
 長州藩士の陪臣・五十部吉平の
 5男として生まれ

 長州藩の藩校・明倫館で学び
 その後、奇兵隊に入隊して
 第2次長州征伐や戊辰戦争に参加した。

1871(M4)年
 兵部省に出仕し、兵部少丞から陸軍大佐、
 陸軍少将と昇進し、
 東京鎮台司令長官となった。

1873(M6)年
 陸軍省第3局長となり、
 台湾出兵には反対している。

1876(M9)年 
 前原一誠が起こした
 萩の乱の際には、その鎮圧を担当

1877(M10)年
 西南戦争では30歳で
 別働第3旅団長に就任し、
 九州各地を転戦し、

 城山(鹿児島城)を陥落させた。
1878(M11)年
 陸軍中に昇進、西部監軍部長に。 

 長州勢では井上薫と伊藤博文が
 明治政府に入り、山縣有朋と
 三浦梧楼が軍部を担っていたが、

 薩摩藩・長州藩といった
 藩閥政治には反対したと言う。

 三浦梧楼は山縣有朋と奇兵隊時代から
 不仲であり、谷干城・鳥尾小弥太
 ・曾我祐準らとともに反主流派を
 形成した「月曜会」の中心人物として
 山縣有朋・大山巌らと対立した。

1881(M14)年
 開拓使官有物払下げ事件では、
 谷干城・鳥尾小弥太・曾我祐準と連名で

 議会開設及び憲法制定を訴える建白書を
 提出したため、翌年には
 陸軍士官学校長に左遷されている。

1885(M18)年
 陸軍卿・大山巌と共にヨーロッパの
 兵制を視察し、翌年に帰国

 そして、陸軍改革の意見書を提出したが、
 翌年には熊本鎮台司令長官に左遷されたため、

 就任を拒否してまもなく休職し、
1887(M21)年
 予備役に編入
 
 なお、1887(M21)年から
 1892(M25)年まで
 学習院の院長兼宮中顧問官を任官
1890(M23)年
 子爵による互選で貴族院議員に
 選出されたが、翌年には辞職
1895(M28)年
 日清戦争後の日韓関係が
 ギクシャクする中で、
 井上薫に代わって
 駐朝鮮特命全権公使に就任

 公使館付武官であり朝鮮政府軍部顧問の
 楠瀬幸彦中佐や、「漢城新報」社長の
 安達謙蔵らの協力を得る。
1895(M28)年
 閔妃暗殺を指揮したとされ(乙未事変)、
 事変後、関与したとされる他の日本人と
 ともに日本に召還され、広島にて投獄された。
 事件は一国の公使が在任国の宮廷にて、
 王族を殺害するという前例のない
 出来事であったが

1896(M29)年
 広島地裁や軍法会議の結果、
 証拠不十分として日本人関係者は
 全員無罪となり釈放された。

 その為、朝鮮では最初の反日武装闘争
 である義兵闘争が起こる要因となり、
 ロシアが朝鮮に介入する事となり、
 日露戦争に発展した。
1908(M41)年 後備役
1910(M43)年
 桂太郎首相の要請を受けて枢密顧問官に就任

 伊藤博文亡き後の大正期には
「藩閥打倒」を訴え、
 政界の黒幕としても活動。

 政党政治期の1916(T5)年と
 1924(T13)年の2度にわたって、
 対立する政党間の
党首会談を
 仲介するなど精力的に活動し
「護憲三派」結成にも貢献している。

 
1926(T15)年 死去81歳。

参考: ウキペディア

 


デザイナー  石岡瑛子

2022-01-21 | 人物忌


 (モデルは当時18歳の前田美波里 Webから)

 

 1月21日は アートディレクター、デザイナー
 石岡瑛子が亡くなった日

 

この印象深いサマー・キャンペーンポスター
を記憶にある方も多いと思いますが

このポスターを作成したのが石岡瑛子

  

 

石岡瑛子は

1938(S13)年7月
 グラフィックデザイナー石岡とみ緒の
 子として東京都文京区に生まれる。

1957(S32)年
 お茶の水女子大学附属高等学校卒業
 現役で東京藝術大学美術学部に入学
1961(S36)年
 東京藝術大学卒業後 資生堂に入社
1966(S41)年
 社会現象となったサマー・キャンペーンを
 手がけ頭角を現す。

 独立後もパルコ、角川書店などの数々の
 歴史的な広告を手がける。

1980(S55)年代
 拠点をニューヨークに移す。
1987(S62)年
 映画、オペラ、サーカス、演劇、
 ミュージック・ビデオなど、
 多岐にわたる分野で活躍

 マイルス・デイヴィス「TUTU」の
 ジャケットデザインでグラミー賞受賞

1993(SH5)年
 映画「ドラキュラ」の衣装で
 アカデミー賞衣装デザイン賞受賞

2008(H20)年
 北京オリンピック開会式の
 衣装デザインを担当

2012(H24)年 
 すい臓がんのため都内で死去  73歳 

 


  石岡瑛子氏 Webから


実業家 金原明善

2022-01-14 | 人物忌


   (NHK「英雄たちの選択」から 画像は以下同じ)

 

1月14日は 明治時代の実業家
 社会運動家 金原 明善 が
亡くなった日

 

金原 明善(きんぱら めいぜん)は
静岡県浜名郡和田村村長 
また
天竜川の治水事業・北海道の開拓
・植林事業など
国家社会公共
のために一生を捧げ
近代日本の発展に活躍した。

1832(天保3)年
 遠州国長上郡安間村
   (浜松市東区安間町)の豪農の
  長男として生まれる。

  幼名 弥一郎,のち
  8代目久右衛門を襲名
 後に明善と名乗る。

幕末に名主を務め
領主松平家の家政整理をする。

また 横浜に輸出商を出店したが失敗
維新後  第56区戸長となった。

 

 

1872(M5)年
 浜松県より堤防方付属を命ぜられたのを機に

 ,宿願の天竜川治水事業に挺身することを決意
1874(M7)年
 天竜川堤防会社を設立

1875(M8)年 
 改称した治河協力社総裁専務となり,

 水害が頻繁する天竜川河川改修と
 堤防修築,架橋などを計画した。

1878(M11)年 
 私財6万余円を治河協力社に寄付し
 事業の発展を策した。.

1885(M,18)年
 下流域諸村と紛議を生じ
 また大河川治水対策が政府直轄工事となったため

 「治河協力社」を解散 治水事業から撤退し
 第2の宿願である天竜川上流の植林事業に着手
1885(M,18)年
 静岡県豊田郡瀬尻村(磐田郡竜山村)の
 官林600haに杉・檜苗270万本の栽植を
 農商務省静岡山林事務所へ出願して許され

 以後13年間の植林は約760ha
 292万本におよんだが

1898(M31)年 これを献納した。
 またその周辺地で買収した山林1200haにも
 400万本を植林し“金原林”と称したが

1904(M37)年
 これも国に寄付して三方原の
 灌漑疎水事業のための
「金原疎水財団」を設立した。

 


○経済活動

東京の取引先 銀行丸屋銀行の整理にかかわり
1884(M 17)年
 東里為替店を設立し

1900(M33)年
 「金原銀行」
 (S15年三菱銀行に合併)とする。

また開通した東海道鉄道を利用して
木材運送のための
「天竜運輸株式会社」を
設立するなど実業面でも活躍


○社会事業
1880(M13)年以降
 刑期を終えた人の保護事業に関与し
 「静岡勧善会」「浜松勧善会」を設立

1888(M,21)年
 「出獄人保護会社」を設立

1907(M40)年
 2年間郷里の和田村村長

○北海道開拓事業
 1900(M33)年
 北海道瀬棚郡に金原農場を創設

 

1923(T12)年1月14日 死去 92歳


現在 浜松市の生家近くに
 「明善記念館」がある。

 

 

参考:・NHK「英雄たちの選択」
   ・「コトバンク」

 

 


流行歌手 渡辺はま子

2021-12-31 | 人物忌


    (BSテレ東)

  

12月31日は 
流行歌手 渡辺はま子 が亡くなった日

亡くなったのは 1999年であるから
20世紀の最終日であり

また 12月31日は NHK紅白歌合戦がある日
その紅白に 第1回(1951・S26年)から
計 9 回出演し
また「桑港のチャイナ街」を4回歌い
紅組のトリを3回つとめている。

 

当方は 中学生の頃 
地方巡業で学校体育館にて
渡辺はま子 を見て
あの声量に驚いたこと思い起こす。

 

渡辺はま子は 

1910(M43)年10月
 横浜に生まれ 生涯横浜で過ごしている。
 本名 加藤濱子 愛称は「おはまさん」

 武蔵野音楽学校卒業後
 地元の横浜高等女学校で音楽教師に
1933(S8)年
 ポリドールから
「最上川小唄」でレコード・デビュー

1935(S10)年
 教職を辞め 本格的にビクターから
 デビューし 歌手に専念

1937(S12)年
 コロムビアへ移籍

1938(S13)年
 国民歌謡で前年に放送発表した
 レコード「愛国の花」がヒットとなる。

 さらに「シナの夜」「広東ブルース」
 「蘇州夜曲」など中国を題材にした曲を
 多くヒットさせて
 “チャイナ・ソングの女王”とも呼ばれた。

 戦地慰問で訪ねていた天津で終戦を迎え
 10ヵ月間の捕虜生活を送る。

1946(S21)年 帰国
 その後、古巣のビクターに復帰して
 「桑港のチャイナ街」
 「あゝモンテンルパの夜は更けて」
 などがヒット。

1951(S26)年
 第1回NHKの紅白では
 「桑港のチャイナ街」で
 紅組のトリを務めた。

 懐メロ番組などに出演して
 長く活躍を続ける。

1973(S48)年 紫綬褒章
1981(S56)年 勲四等宝冠章
1989(H元)年 歌手引退
1999(H11)年 12月31日  89歳で死去

 


    (BSテレ東)

 

1952(S27)年
 NHKラジオ『陽気な喫茶店』を
 司会していた松井翠声の元に送られた

 フィリピンの日本人戦犯が
 作詞作曲した曲 
 「あゝモンテンルパの夜は更けて」を
 渡辺がレコード化。


 また日本政府と渡辺の奔走で
 モンテンルパ市の刑務所へ
 慰問コンサートが実現。

 これによりフィリピン政府当局に
 減刑、釈放を嘆願し
 当時のキリノ大統領に
 日本人戦犯の釈放を決断させ
 全員の日本への帰国が実現している。

渡辺の歌手人生は
歌で人々を励まし
行動をおこした 熱い魂の人であったと。

 

   ********

 

ご訪問いただきありがとうございます。

なんとか 当ブログも 
2021年の終わり迎え
新年を迎えることができそうです。

しかし このところ
コロナ感染者数も下げ止まってはいたが
オミクロンとやらの株が拡大し始めている。

果たして 
来年はいかなる寅年と相成ることやら

少々心配ですが 
今年以上にはなることだろと期待したい。


皆様方には
良き年をお迎えいただきますよう・・・


 


冒険家 植村直己

2021-12-13 | 人物忌

 
       中央公論Adagio 15号

12月13日は
冒険家 植村直己が亡くなった日

 

植村直己は

1941(S16)年
 兵庫県城崎郡国府村
(豊岡市日高町)上郷で生まれる

1960(S35)年
 明治大学農学部農産製造学科入学
 山岳部に入部
1964(S39)年
 明治大学卒業 
 移民船「あるぜんちな丸」にて渡米

1966(S41)~1971(S46)年 
・66モンブラン: 
 ヨーロッパ最高峰4807m単独登頂

・66キリマンジャロ:
 アフリカ大陸最高峰5895m単独登頂

・68 アコンカグア:
 南米大陸最高峰6960m単独登頂

・70 エベレスト:
 世界最高峰8848m松浦輝夫と登頂

・70 マッキンリー:
 北米大陸最高峰6194m単独登頂

  *世界初の5大陸最高峰登頂者になる

・71 グランド・ジョラス4208m北壁完登

1974(S49)~1980(S55)年
・74 野崎公子と結婚
・74~76 犬ぞり単独で北極圏1万2千km完走
・78 北極点犬ぞり単独到達
・78 グリーンランド縦断
・80 厳冬期アコンカグア第2登達成
・84 世界初のマッキンリー冬期単独登頂
     翌日12/13消息途絶える  
  4月国民栄誉賞受賞

 

  錦華坂沿いにある明大10号館
   この地下3階に山岳部がある。

  中山道と石神井川が交差する
   「板橋」の地名発祥の板橋 

 

植村が板橋区のアパートで暮らし始めたのは

エベレスト登頂の前年 1969(S44)年の夏

アパートは3畳一間で

家具はトランクと寝袋だけであったと。


そのアパートは今はないが

「植村冒険館」が板橋区にある。
 *現在リニューアル中

 

   参考:中央公論Adagio

 


岩崎久弥 邸宅

2021-12-08 | 人物忌

旧岩崎邸


12月2日 岩崎久弥に触れたが

その邸宅が台東区池之端にある。


1896(M29)年 
 岩崎久彌によって洋館と和館を
 併設した新しい屋敷が建てられた。

その後の約50年間、新しい洋館と和館は
岩崎家の本邸として使われたが、

終戦を迎えるとGHQに接収されていた。

2001(H13)年
「旧岩崎邸庭園」は

 東京都に移管され後、
都立公園として開園している。

 


現在の「旧岩崎邸庭園」に
残されているのは、
洋館と和館の一部、撞球室、
庭園の一部だけになっている。

内部は撮影禁止になっていた。

 

1961(S36)年 
 洋館と撞球室が重要文化財に指定

1969(S44)年 
 和館大広間と洋館東脇にある
 袖塀が国の重要文化財に指定

1999(H11)年 
 宅地、煉瓦塀、実測図が
 国の重要文化財に指定


  庭園から眺める洋館

洋館の前は大名庭園の形式を
一部に踏襲した和洋併置式の
芝庭になっており
近代庭園の初期の形をしている。



洋館ベランダに並ぶ列柱は
1階がトスカナ式
2階はイオニア式の装飾が施されている。

 

洋館は木造2階建て、地下室付

イギリス17世紀初頭の
ジャコビアン様式を基調とし
明治洋風建築を代表する建物。

その設計は、
英国人ジョサイア・コンドル
(1852-1920)が手がけた。

コンドルは現在の東京大学工学部建築学科の
初代教授に就任
本格的な西洋建築の教育を行い
多くの人材を育成した。
 
門下生には東京駅を設計した辰野金吾や
赤坂離宮を設計した片山東熊など
著名な建築家がおり
日本建築界の礎が築かれた。

 

 和館

和館は書院造りを基調とし
棟梁は財政界の大立者たちの
屋敷を数多くてがけた
大河喜十郎と伝えられている。

和館内には橋本雅邦が下絵を描いたと
伝えられる障壁画が残っている。

スイスの山小屋風の造りの撞球場

洋館と地下通路で繋がっている。

 


 

重要文化財 「袖塀」

岩崎家の家紋である
「重ね三階菱」の意匠は
 三菱の社章の基となった。

 

 

 


実業家 岩崎久弥

2021-12-02 | 人物忌

 

 

12月2日は 実業家 三菱財閥3代目総師
 岩崎久弥が亡くなった日

 

久弥は
1865(慶応元)年
 岩崎弥太郎・喜勢夫妻の長男として
 土佐国安芸郡井ノ口村
 (現・高知県安芸市)に生まれる。
 父・弥太郎(1835-1885)は 三菱財閥の創設者

1875(M8)年
 福澤諭吉の慶応義塾に幼稚舎から入塾。

1878(M11)年
 父が開設した三菱商業学校(明治義塾)に転じ、

 英語や簿記、法律、経済を学んだ。
 慶応義塾普通部を卒業後
1886(M19)年 
 米国留学

1888(M21)年 
 アメリカのペンシルベニア大学
 ウォートン・スクールに入学
1891(M24)年
 帰国後、副社長として三菱社に入る。

1894(M27)年
 三菱社の合資会社転換と共に、
 叔父・岩崎弥之助(1851-1908)

   代わって社長に就任。

1916(T5)年
 いとこの岩崎小弥太(1879-1945)

    社長を譲るまで、三菱財閥三代目
 として長崎造船所の近代化や

 東京・丸の内地区の開発など
 事業の拡充を図り、麒麟麦酒、農政事業、
 製紙業などの創業にも関わった。

 特に農政事業に関しては
 小岩井農場(岩手県)
 末広農場(千葉県)のほか
 朝鮮半島、スマトラ島、ブラジル
 といった海外にまで経営の手を広げた。
 また、現在でいう事業部制を
 三菱合資会社に導入し、
 グループの活性化をもたらした。
1947(S22)年 
 太平洋戦争後の財閥解体政策により、
 3人の息子と共に財閥家族に指定され、
 三菱傘下企業の全役職を辞任。
 千葉県富里にあった末廣農場の
 別邸にて引退生活を送った。

なお 1924(T13)年 
 アジア学研究のための図書館・
 東洋文庫(東京都文京区本駒込)を
 設立するなど、様々な社会貢献をした。


 また、東京都江東区清澄の清澄庭園、
 本駒込の六義園は、それぞれ

 1924年と1938(S13)年に
 久弥が東京市に寄付している。

 


小説家 半井桃水

2021-11-21 | 人物忌


   曹洞宗 繁栄山養昌寺門前(文京区本駒込1-20-17)

 


   桃水(Webから)

 

11月21日は 半井桃水が亡くなった日

半井桃水(なからい・とうすい)
新聞記者 新聞小説家であり
樋口一葉の師でもある。

1860(万延元)年12月 
 半井湛太郎・藤の4人弟妹の長男として

 対馬巌原藩(現・長崎県対馬厳原町)に生まれる。

 名は冽(きよし)
 桃水は号 別号は菊阿弥。

 父の仕事の関係で少年期は釜山で過ごす。
 家計を助けるため
 12歳から釜山で働き始めるが
 英語を学ぶため日本へ戻され 進学する。
1875 (M8)年
 上京し尺振八の共立学舎に学ぶ。

1888 (M 21)年
 東京朝日新聞の記者となる。

 朝鮮語が話せることから
 通信員として釜山に7年間駐在
1889(M22)年
 同紙上に「唖聾子」を掲載

 続いて「くされ縁」「海王丸」
「業平竹」などで新聞小説家
 としての地位を確立。

1891(M24)年から連載した
 長編「胡沙吹く風」が代表作

1891  (M24) 年
 樋口一葉(1872-1896)が門下に加わる。

1892(M25)年
 一葉のデビュー作「闇桜」は
 桃水が創刊した「武蔵野」に発表

1893(M26)年
 一葉は門下を離れる。
 一葉と恋人関係にあったという
 噂が当時からあった。

 桃水の幼名「泉太郎」が
 一葉の亡兄と同じで
 一葉はその偶然も好ましく感じ

 一葉日記には桃水のことにふれている。

 その他の著名な作品
「天狗廻状」「義民加助」などの時代小説

 また長唄や俗曲などにも詳しく
 いくつかの作詞をしている。

1926(T15)年11月21日
 脳溢血のため福井県敦賀市の病院で死去
   享年65

養昌寺には「半井家代々の墓」として
対馬市厳原町中村の生家跡に
半井桃水館がある。