あかない日記

写真付きで日記や旅行・趣味を書き留める

小説家 半井桃水

2021-11-21 | 人物忌


   曹洞宗 繁栄山養昌寺門前(文京区本駒込1-20-17)

 


   桃水(Webから)

 

11月21日は 半井桃水が亡くなった日

半井桃水(なからい・とうすい)
新聞記者 新聞小説家であり
樋口一葉の師でもある。

1860(万延元)年12月 
 半井湛太郎・藤の4人弟妹の長男として

 対馬巌原藩(現・長崎県対馬厳原町)に生まれる。

 名は冽(きよし)
 桃水は号 別号は菊阿弥。

 父の仕事の関係で少年期は釜山で過ごす。
 家計を助けるため
 12歳から釜山で働き始めるが
 英語を学ぶため日本へ戻され 進学する。
1875 (M8)年
 上京し尺振八の共立学舎に学ぶ。

1888 (M 21)年
 東京朝日新聞の記者となる。

 朝鮮語が話せることから
 通信員として釜山に7年間駐在
1889(M22)年
 同紙上に「唖聾子」を掲載

 続いて「くされ縁」「海王丸」
「業平竹」などで新聞小説家
 としての地位を確立。

1891(M24)年から連載した
 長編「胡沙吹く風」が代表作

1891  (M24) 年
 樋口一葉(1872-1896)が門下に加わる。

1892(M25)年
 一葉のデビュー作「闇桜」は
 桃水が創刊した「武蔵野」に発表

1893(M26)年
 一葉は門下を離れる。
 一葉と恋人関係にあったという
 噂が当時からあった。

 桃水の幼名「泉太郎」が
 一葉の亡兄と同じで
 一葉はその偶然も好ましく感じ

 一葉日記には桃水のことにふれている。

 その他の著名な作品
「天狗廻状」「義民加助」などの時代小説

 また長唄や俗曲などにも詳しく
 いくつかの作詞をしている。

1926(T15)年11月21日
 脳溢血のため福井県敦賀市の病院で死去
   享年65

養昌寺には「半井家代々の墓」として
対馬市厳原町中村の生家跡に
半井桃水館がある。

 

 

 


放浪の画家 長谷川利行

2021-11-12 | 人物忌


  長谷川利行碑(台東区上野恩賜公園 弁天島)

 

 
 (NHK ETV日曜美術館から)

 

10月12日は 画家 長谷川利行が亡くなった日

長谷川は 
放浪の画家・日本のゴッホとも呼ばれる。


説明文には
「長谷川利行 
 放浪の画家・日本のゴッホ

・1891年(明治24)7月9日京都に生まれる。
・1921年(大正10)上京・博文館にて
 生田蝶介を知り小説を発表。

 岩田専太郎、矢野文夫等を知る。
・1923年(大正12) 関東大震災起こる。
 震災を歌った歌集「火岸」を
 発行、京都に帰る。

・1926年(大正15)再び上京、日暮里の寺に住む。
 第7回帝展に「廃道」入選。
 第13回二科展に「田端変電所」初入選。

・1927年(昭和2)第14回二科展に
 「酒売場」「麦酒室」「鉄管のある工場」入選、
 樗牛賞を受賞。

・1928年(昭和3)里見勝蔵・藤川栄子・
 靉光・井上長三郎・麻生三郎・
 吉井忠・寺田政明等後の
 自由美術家協会の画家達を知る。

・1932年(昭和7)浅草今戸に仮住まい。
 浅草・千住・三河島・荒川放水路界隈を放浪す。
 天城俊彦(高崎正男)を知る。

・1936年(昭和11)新宿・天城画廊で個展5回開催する。
・1937年(昭和12) 伊豆大島に遊ぶ。
 天城画廊で個展10回、
 喫茶店「エルテル」等で数回開催。
 二科展を去る。
・1939年(昭和14)胃潰瘍に苦しむ。
 千葉県太海・勝浦に写生旅行。

・1940年(昭和15)三河島救世軍宿泊所に住む。
 5月17日、三河島駅付近の路上で倒れ、
 行路病者として東京市立養育院
 板橋本院に収容される。

 10月12日胃癌で死去、満49歳。
 遺品類(絵も含む)すべて焼却される。

・1969年(昭和44)熊谷守一先生・
 洋画家揮毫の「長谷川利行碑」、
 有島生馬先生・洋画家揮毫の歌碑が
 台東区不忍池弁天島に建立さる。

 10月15日羽黒洞主催の除幕式行われる。 
   正像院利行日描居士
   羽黒洞主催遺作展数回開催


「養育院第五病室ニ胃ノ手術デ゙居リマス。
 午前中二一度ミニ来テ下サイ。

 詩集一冊下サイ。午後三時頃デモ
 何時デモヨロシイノデス。


(至急来テクレナイト死亡スル、
 動ケナイノデス)。
 市電板橋終点ヨリ二丁ホドノ処デス。
 何カ見学ニナルデシヤウ。氷サトウ、
 ゴマ塩一ケ忘レズニ持ッテ来テ下サイ。
 オ願ヒシマス。
 何カ甘イ菓子一折リ下サイ。死別トシテ。」

 矢野文夫宛  長谷川利行 出

 昭和15年10月12日 満49才没


 人知れず 朽ちも果つべき身一つの
 いまがいとほし 涙拭わず
 己が身の影もとどめず 水すまし
 河の流れを 光りてすべる 
  利行短歌



  (NHK ETV日曜美術館から)

 

 

 


服部半蔵

2021-11-04 | 人物忌


  西念寺 (新宿区若葉2-9)



11月4日は 服部半蔵が亡くなった日

服部半蔵は 戦国時代から江戸時代に
かけて松平氏から徳川氏の麾下で活躍し
代々「半蔵」を通称の名乗りとした
服部半蔵家の歴代当主。

 

なお、忍者だったのは
初代半蔵の保長だけであり
2代目以降は
忍者ではなかったといわれる。

1596(慶長元)年11月4日死去

説明文には

「新宿区指定史跡
  服部半蔵の墓
   昭和59年(1984)7月6日指定

服部半蔵(1542~96)は、
本名を正成といい、
徳川家康の三河以来の旧臣で、
家康16将の1人に数えられる武将である。
「鬼の半蔵」として知られ、
元亀3年(1572)三方ヶ原の戦い、
天正18年(1590)小田原攻めで
功をあげ知行8千石を賜り、
同年の家康の江戸入府後は、
江戸城西門近くに居を構え、
城の警備等にあたった。
半蔵門の名は彼の名に由来する。
半蔵は、天正7年(1579)
家康の長男信康が切腹する際
介錯役を命じられた。
しかし、これを果たせず、
晩年、信康の菩提をとむらうため
麹町清水谷に庵を建て、
西念と号し、仏門に帰依した。
文禄2年(1593)には
家康から寺院を
建立するよう内命をうけたが、
慶長元年(1596)11月、
55歳で没した。
西念寺は、半蔵の没後完成し、
寛永11年(1634)江戸城の
外堀拡張・新設の際現在地に
移転したものである。
 平成17年2月
     新宿区教育委員会」

 

 

 


北白川宮能久親王

2021-10-28 | 人物忌


  北白川宮能久親王の馬上銅像

10月28日は
幕末・明治の皇族  陸軍軍人の
北白川宮能久親王
(よしひさしんのう)が亡くなった日

 

能久親王は

1847(弘化4)年
 伏見宮国家親王の第9皇子として誕生

1858(安政5)年
 上野寛永寺の門跡
 (皇族・貴族が勤める特定の寺社や
 その住職)となる。

 その後 徳川慶喜の助命嘆願や
 蜂起した彰義隊に擁立されるなど
 幕府寄りの立場をとり

 ついには  奥羽列藩同盟の盟主に
 担ぎ出されたため   同盟崩壊後
 謹慎・蟄居の憂き目となる。
明治維新後
1870(M3)年
   還俗(げんぞく)して伏見宮に復帰
   軍籍に就く。

1872(M5)年
   北白川宮家を相続

 後にドイツ留学を果たした。

 なお   留学先のプロイセンでは
 貴族の未亡人と婚約し
 帰国後  強い反対をうけあきらめる。
 結果謹慎
1884 (M17) 年 陸軍大将
1895 (M28) 年
     近衛師団長(当時陸軍中将)として
    ドイツより割譲された
    台湾の征討任務で台湾に渡るが 
 10月28日現地で病にて亡くなる。 49歳



征討作戦中の死であったことから
外地で皇族が戦没した初めての例となる。
(死後陸軍大将に特進)。

なお その子もパリで客死し
孫は昭和15年モンゴルで
砲兵少佐として戦死している。

銅像は 北の丸公園内の
国立近代美術館工芸館
(旧近衛師団司令部)近くに建つ。

建立されたのは 没後の
1903年(明治36)で
製作は新海竹太郎
芸術的にも高く評価されている。

新海竹太郎は北白川宮が
台湾にあった当時近衛騎兵として
仕えていたとも。

鋳造は陸軍砲兵工廠。

建立当時は 北の丸内に駐屯していた
近衛歩兵第一・第二連隊正門前
(現在地より東方約60m)にあったが
1963年 北の丸公園整備計画に従って
現在の位置に移されている。



儒学者 山鹿素行

2021-10-23 | 人物忌

 


    新宿区弁天町1番地の宗参寺

 

10月23日は 儒学者 山鹿素行がなくなった日

 

山鹿 素行(やまが そこう)は

号・素行  名・高興(たかおき)
字・子敬(しけい) 通称・甚五左衛門。

江戸時代前期の儒学者、軍学者で

山鹿流兵法及び古学派の祖である。

その思想は忠臣蔵の大石内蔵助ら赤穂藩士、
幕末の吉田松陰、
陸軍大将・乃木希典ら
後の武士社会に大きな影響を与えている。


1622(元和8)年 
 陸奥国会津(現・会津若松市)にて
 浪人・山鹿貞以の子として生まれる。
1628(寛永5)年 6歳で江戸に出る。
1630(寛永7)年 
 9歳のとき大学頭を務めていた
 林羅山(1583-1657)の
 門下に入り朱子学を学ぶ。

1636(寛永13)年
 15歳からは小幡景憲(1572-1663)
 北条氏長(1609-1670)の下で
 甲州流の軍学を、
廣田坦斎らに神道を、
 それ以外にも歌学など様々な学問を学ぶ。
1653(承応2)年 
 築城中であった赤穂城の縄張りについて
 助言したともいわれ、これにより
 二の丸門周辺の手直しが
 なされたという説があり、
 発掘調査ではその痕跡の
 可能性がある遺構が発見されている。
1662(寛文2)年 
 朱子学に疑問を持つようになり、
 新しい学問体系を研究する。

1665(寛文5)年 
 天地からなる自然は、
 人間の意識から独立した存在であり、
 一定の法則性をもって
 自己運動していると考えた。

 この考えは、門人によって編集され
 「山鹿語類」などに示されている。
1666(寛文6)年 
 朱子学を批判したことから
 播磨赤穂藩・浅野家へお預けの身に。
1675(延宝3)年
 許されて江戸へ戻り、
 その後の10年間は積德堂で軍学を教えた。

1685(貞享2)年 死去 64歳。

名言:「世の乱れは、言葉の乱れである」
   「天地これ師なり、事物これ師なり」
   「常の勝敗は、現在なり」

 

(参考:ウキペディア他)

 

 

 


講談社 野間清治

2021-10-16 | 人物忌


   「講談社野間記念館」(文京区関口2丁目)

 

 

10月16日は 講談社の創立者
 野間清治が亡くなった日


野間清治は

1878年
 群馬県山田郡新宿村
(現・桐生市)の教員住宅で生まれる。


1900年
 群馬県立師範学校を卒業,
 2年間小学校の教師をしてから

 東京大学臨時教員養成所国語漢文科に入学。
1904年
 卒業して沖縄県に行き
 中学教師と視学をつとめた。

1905年
 沖縄県立中学校
(現・沖縄県立首里高校)の教諭になる。

1906年
 沖縄県視学(地方教育行政官)となる。

 1907年
 東京大学法学部の事務官となる。

1909年
 大日本雄弁会を創立。

1910年
 最初の雑誌『雄弁』を創刊。

1911年
 講談社創業 雑誌「講談倶楽部」を創刊

 その後は「少年倶楽部」「面白倶楽部」
 「現代」「人倶楽部」「少女倶楽部」
 を次々に創刊
1924年 12月
 「キング」を創刊し
 その創刊号 (1月号) は 74万部売れた。

 「おもしろくて ためになる」という
 編集方針が大衆に支持された。

1925年
 1月号は 150万部売れ
 最初のミリオン・セラーの雑誌になった。

1930年
 報知新聞社の社長となり
 キングレコードの経営にもあたった。

 「世間雑話」 (1935) など著書もある。.
1938年 
 10月16日 急性狭心症で死去

 


  「講談社発祥の地」(文京区千駄木3丁目)

 

説明文には

「        講談社発祥の地
1909年(明治42年)11月、青年・学生の弁論と精神修養
のための雑誌「雄辨」発行を志した30歳の野間清治は、
東京団子坂下の借家(旧・本郷区駒込坂下町48番地、
現・文京区千駄木3丁目)の門柱に「大日本雄辯會」の
看板をかかげた。―講談社の創業である。
 創業時よりこの地にある伊予青石に刻まれた文字は、
第6代社長 野間佐和子の揮毫になる。 
                1996年7月4日
                株式会社 講談社 」

 


イラストレーター 和田 誠

2021-10-07 | 人物忌

「落語横車」(講談社文庫)

  一筆書きのように描く志ん生    
     落語にも造詣が深い

 

 

2年前の 10月7日は 
イラストレーター 和田誠が亡くなった日


和田誠は
イラストレーター グラフックデザイナー
 エッセイスト 映画監督であった。

1936(S11)年
 父・精が勤務していたNHK大阪局の
 赴任地大阪市で生まれる。
1945(S20)年
 父の失職により一家で
 世田谷区代田に転居するが 
 一人千葉県で敗戦を迎える。

1955(S30)年
 多摩美術大学図案(現・デザイン)科入学
 杉浦非水(1876-1965)に学ぶ。

1957 (S32)年
 第7回日宣美展で「夜のマルグリット」の
 ポスターが日宣美賞を受賞

1959(S34)年
 ライトパブリシティに入社

1965(S40)年
 雑誌「話の特集」にADとして参加

1968(S43)年
 フリー。「週刊サンケイ」の表紙に
 似顔絵を描く(4年間AD田中一光)

1972(S47)年
 平野レミ(1947-)と結婚

1974(S49)年
 講談社出版文化賞(ブックデザイン部門)

1977(S52)年
 「週刊文春」の表紙(絵とデザイン)を担当

1984  (S59)  年
 映画「麻雀放浪記」を初監督し
 第9回報知映画賞新人賞受賞

1993(H5)年
 自著「銀座界隈ドキドキの日々」が
 第9回講談社エッセイ賞

1994(H6)年
 第42回菊池寛賞

1997(H9)年 
    時間旅行展が毎日デザイン賞

2017  (H29) 年
 「週刊文春」の表紙絵が
 2000枚を迎える。
2019(R1)年
 肺炎により死去 享年83

 

 


 
   授業の時間割表は先生の似顔絵!


       活字も手書き!

ポスター「夜のマルグリット」が
日宣美賞を受賞(1957年)

これをきっかけに似顔絵と
TVコマーシャルのアニメーションの仕事が入る。

 


1977年より「週刊文春」の表紙
(絵とデザイン)を担当し2000号超える。

没後1年を追悼して 描いた全表紙を掲載する
「表紙はうたう 完全版 和田誠・週刊文春の
カヴァー・イラストレーション」が発売されている。

 

日本専売公社が発売予定の
新商品紙巻きたばこ「ハイライ」の
パッケージデザインコンペで採用される。

なお 同製品のデザインは1964年開業の
東海道新幹線の車体の配色の参考ともなる。

 

 

*写真「落語横車」以外は
 BSテレ東「新美の巨人たち」から

 

 


砂防の父 赤木正雄

2021-09-24 | 人物忌


 砂防会館前に立つ「赤木正雄像

 

9月24日は 
元参議院議員 赤木 正雄
が亡くなった日

赤木は
土砂災害などを未然に防ぐ
「砂防」という考え方を
提唱した先駆者で
「砂防の神」「砂防の父」とも呼ばれる。

赤木正雄は

1887(M20)年3月24日
 兵庫県豊岡市引野に生まれる。
1908(M41)年 
 第一高等学校の始業式で新渡戸稲造校長の
「治水事業は華々しい仕事ではないが、
 治水に身を捧げて、
 水害をなくすことに志を
 立てる者はいないか」との示唆で
 生涯 治水事業に携わることに決心する。
1914(T3)年 
 東京帝大農科大学林学科卒

 内務省治水局に入省
 土木局技師、同第3技術課長、
 農林省山林局技師を歴任。
1935(S10)年
 全国治水砂防協会(砂防協会)を設立する。
1942(S17)年
 貴院議員
1950(S25)年
 参院議員に当選、2期務める。
1951(S26)年
  ベルギーのブリュッセルで
 開催された国際水文科学学会で
 渓流等の浸食をコントロールすることを
「SABO」とすることが認められた。
1971(S46)年
 文化勲章
1972(S47)年9月24日
 死去 享年85

渓流砂防工事の技術的発展や
治水砂防政策の推進に尽くした
著書に「渓流及砂防工学」などがある。

 

 


クーデンホーフ光子 4

2021-09-13 | 人物忌


   ポペチョヴイツェは 
       ウィーンの北西約400kmにある 

 


クーデンホーフ光子の
欧州における ゆかりの地に触れる。


1896年1月28日 夜汽車で神戸駅へ
 神戸港から客船で
 香港 シンガポール セイロン 
 インド アラビア
 エジプト
 パレスチナ イタリアと
 陸路ウィーンを経由し
 3ヶ月かけてロンスベルクへ

 ボヘミアの領地ロンスペルグ城に住んだ。
 (ドイツ国境に近い
   現チェコのポペチョヴイツェ)

*乳母として日本人2人が同行している。

 

  ポペチョヴイツェの町 中央にロンスペルグ城は建つ


    ロンスペルク城正面 

 

住んだロンスペルク城は
14世紀ごろ建てられ

1864年 城と邸宅は 
クーデンホーフ=カレルギー家
によって購入された。



光子が家族と住んでいた
ロンスペルク城は、
その後兵舎などに使用され荒廃したが

光子の遺品等は 
ロンスペルク 約10km東にある
ホルショフスキー・ティーン町にある

カレル・ヤン・トラウトマンスドルフ侯爵
(1845-1921)の城に保管され展示されている。


光子の着物姿の肖像画や
記名されたゲストブック 
使っていた急須もある。

なお 現在ロンスペルク城
は修復されつつある。

 

 

 
  シェーンブルン宮殿とウィーン市内
       右にシュテファン大聖堂

 

  
    マキシング通り12番地

 

1906年 夫急逝(46歳)
1908年 子供たちの教育のため
 一家はウィーン・シェーンブルン宮殿西側
 のヒーツィング地区・
 マキシング通り12番地に移る。

 光子は「黒い瞳の伯爵夫人」として、
 ウィーンの社交界へ

 

1914(T3)年 第一次世界大戦勃発

 ストッカウへ疎開
(ロンスベルグの隣村,夫が買っていた所)

娘たちと仮設病院で奉仕活動。

 長男、三男は戦場へ 
 二男リヒアルトは
 女優イダ・ローランと結婚

 


    ウィーンの郊外 メードリング

 


   メードリングの家

 

1920(T9)年 
 ウィーンの郊外
 メードリングに屋敷を買い移住。

 
なお 現在メードリングの博物館
Museum Mödling - Thonetschlössl)には

 光子のコーナーが設けられており 
 関係品や写真が展示されている。

  
     カレルギー家の墓


1941(S16)年8月27日
 二度目の脳卒中により
  メードリングの自宅で没 67才


光子は 望んだ夫の墓には入らなかったが 
シェーンブルン宮殿西側のピーツィンガー墓地の
カレルギー家の墓に眠る。

墓石には
「 Mitsu  Aoyama」の名がみえる。

 

参考:
 ・「ウキペディア」

    ・「Google」
 ・「吉田羊、プラハ・ウィーンへ
   ヨーロッパに嫁いだ なでしこ物語」

 ・「NHKザ・プロファラー」

 

 


クーデンホーフ光子 3 

2021-09-08 | 人物忌

 

続きクーデンホーフ光子について触れる。

光子は 日本で長男と次男を産み
総勢 7人の子をもうけるが
夫ハインリヒが亡くなったとき
光子31歳 
子供たちは 
  上が12歳 下が2歳半だった。


その子供たちを取り上げて見る。


○長男:ヨハネス
   (光太郎)  1893-1965 


裕福なハンガリー系ユダヤ人の一族出身で

オーストリア=ハンガリー帝国
最初の女性パイロット

リリー・シュタインシュナイダー
(1891-1975)と最初の結婚する。

のちに
女優ウルスラ・グロースと再婚し

先妻の長女 ピクシーは後に
光子の心の支えになる。



○次男:リヒャルト
(栄次郎) 1894-1972 

戦後の 1918(T7)年 
リヒャルトが有名舞台女優

イダ・ローラント(1881-1951)と
結婚すると言い出すが

イダ・ローラントは
ユダヤ人で離婚歴が2度有り

加えて年齢が34歳で19歳のリヒャルトと
大きく離れていることから光子と対立し
リヒャルトは駆け落ちをしてしまう。
光子は死ぬまでリヒャルトを許さなかった。



1923(T12)年 
 妻のイダの経済的支援で
「汎ヨーロッパ主義」
を出版し
「ヨーロッパの28の民主主義国家が
アメリカのような一つの連邦国家として
まとまるべきだ」
と唱えて 
一躍ヨーロッパ論壇の寵児となる。


リヒャルトの母が東洋人光子光子の子であることがわかり
光子は“欧州連盟案の母”として知られる。

その後 リヒャルトはナチスに追われ
妻のイダ・ローランとアメリカに亡命した。

その逃避行が 
不滅の人気のアカデミー賞映画
「カサブランカ」のモデルになっている。

 *映画「カサブランカ」は
  当ブログ(2011/4/10)で触れている。

*結婚歴は
1918(T')年 イダ・ローラント
(1881-1951)と結婚
1952年 アレクサンドラ・フォン・
 ティーレ=ヴィンクラー伯爵夫人
 (1896-1968)と再婚

1969年 メラニー・ベナツキー=ホフマン
 (1909-1983)と再々婚


○三男:ゲロルフ
   (ゲオルフ)1896-1978

1941年までプラハの日本大使館の
秘書兼報道官であり

プラハのカレル大学で
日本語と歴史の講師を務め

オリエンタルインスティテュートの
副学長を務めた。


なお 長女のバーバラ・クーデンホーフ
 ・カレルギー(1932-)は
 オーストリアのジャーナリスト。


2001年 トマーシュ・ガリーグ・
 マサリク クラスIVを受章している。

また三男のミャエル・クーデンホーフ
=カレルギー(1937-2018)は 画家で

 2002年から日本で暮らしていた。

 




○長女:エリザベート 1898-1936
 
 ウィーン大学で法律と
 経済学の博士号をとり
 最も優秀な頭脳を持っていたとも。

 
 オーストリアの独裁者エンゲルベルト
 ・ドルフース
首相(1892-1934)の
 秘書を務めていたが
 その後
 この首相はナチス党が政権を取った
 ドイツに殺されため 

 パリへ亡命したが病気で若死にしている。


 

 

○次女:オルガ   1900-1976

母光子が脳溢血で半身不随になった時
25才であったが

光子の口述筆記を受け持ち
母の介護のため進学 婚期を逃し
生涯独身であった。


光子の死後 第二次世界大戦が終わると
チェコ兵によって収容所に入れられ

その後難民キャンプで暮らし、
ドイツで生活保護を受けながら、
貧しく孤独な生涯を終えている。




○三女:イダ・フリーデリケ・ゲレス
 1901-1971

 
ウィーン大学卒業後
 20世紀カソリック文学の
  代表的作家になる。




○四男:カール    1903-1987

 ギリシャで大学教授をして
 スイスで文筆業に。


 


光子の晩年

光子死去時(1941)見守ったには
三女・オルガだけ 
葬儀に間に合ったのは 
三男ゲロルフ(44歳)と
三女イダ(40歳)だけであった。

当時 長男ハンス(48歳)は 
妻がユダヤ人のためローマに

  次男 リヒャルト(47歳)はアメリカへ亡命中 
  四男 カール(38歳)はギリシャに 
  長女 エリザベートはすでに亡くなっていた。 
    ( )内は当時の年齢



7人の子供は 
長女を除いて光子より永い生涯を終えている。

・ハインリッヒ・クーデンホーフ・カレルギー
  1859-1906・46歳
・クーデンホーフ光子
   1874-1941・67歳
・長男 ハンス(光太郎)
    1893-1965・72歳
・次男 リヒャルト(栄次郎)
  1894-1972・77歳
・三男 ゲオルフ(ゲロルフ)
   1896-1978・82歳
・長女 エリザベート
  1898-1936・38歳

・次女 オルガ 
   1900-1976・76歳

・三女 イダ・フリーデリケ・ゲレス
  1901-1971・70歳
・四男 カール
  1903-1987・84歳

 

また 7人の内3人が博士号を取得
 2人が作家になっている。

 

*写真はNHK「ザ・プロファイヤー」から

 

 


クーデンホーフ光子 2

2021-09-01 | 人物忌


  明治時代の納戸町〔赤枠〕 中根坂〔青枠〕

 ・二人の新居
    (納戸町26番地)

 ・オーストリア・ハンガリー公使館
    (納戸町28番地)

  

前回に続き

「クーデンホーフ光子」の
 都内ゆかりの地を巡る。


1892(M25)年2月
 東京に赴任していた
 オーストリア・ハンガリー帝国代理公使の
 ハインリッヒ・クーデンホーフ・カレルギー
 と知り合う。

その出会いは

着任2週間目のハインリッヒが
凍った中根坂で
人馬ともに転倒し負傷した。

たまたま目撃した光子は
ハインリッヒの救護にあたり
その手厚い看護がきっかけに
ハインリッヒの心を打ち
彼の求めにより

まずは オーストリア公使館に
勤めることになる。

 

当時光子は 19歳であって
このような行動ができには 

小学校を終えた後
行儀見習として 高級社交場・紅葉館に

女中として 勤めたことがあり
外国人との交流に慣れていたともいう。

 


 「納戸町公園」(新宿区納戸町26番地)


1892(M25)年 結婚し新居は、
 薬学者・柴田承桂(1850-1910)邸宅内の
 ドイツ風の洋館を借家にして
 長男と次男を産み 1896(M29)年
 渡欧するまで4年間過ごしている。

その跡地は、現在「納戸町公園」となり 
園内に説明文が置かれている。

「史跡 クーデンホーフ光子 居住の地

この地には、初めて西洋の貴族と
結婚した日本女性である
クーデンホーフ光子
(青山みつ)(1874-1941)が、

明治29年(1896)に
渡欧するまで住んでいた。

 光子は、明治7年(1874)
骨董商と油商を営んでいた

青山喜八と妻つねの三女として生まれた。
東京に赴任していた
オーストリア・ハンガリー帝国代理公使の

ハインリッヒ・クーデンホーフ・カレルギー
と知り合い、

明治25年(1892)に国際結婚し、
渡欧後は亡くなるまで
オーストリアで過ごした。

渡欧までの間、
光子と共にこの地で暮らした

次男のリヒャルト
〔栄次郎〕(1894―1972)は、

後に作家・政治家となり、
現在のEUの元となる
汎ヨーロッパ主義を

提唱したことから
「EUの父」と呼ばれている。

 平成25年3月 新宿区  」

 

 *納戸町の地名は
納戸役同心の組屋敷があったことによる。
御納戸役とは将軍家の
金銀・衣服・調度の出納、
大名・旗本からの献上品、

諸役人への下賜の金品の管理を司る役職

 


中根坂は 坂の中心部に
向かって下がって行く。

その中心部から先は安藤坂になる。

*中根坂の説明文
 「昔、この坂道の西側に幕府の
 旗本中根家の屋敷があったので

 人びとがいつの間にか
 中根坂と呼ぶようになった。」

 


 紅葉館(芝公園20号地)〔黄枠〕

 

*紅葉館は、1881(M14)年に
芝区芝公園20号地に開業した
会員制の高級料亭。

上流階級の人のみが利用することで
接待をする女中は
相当な美人でなければならない。

結婚の写真を見ても 

光子は当時の日本女性としては
背が高くて八頭身の美女で
あることが
うかがえる。


追:紅葉館は
 1945年3月の東京大空襲で焼失したが
 跡地には東京タワーが建っている。

 

 

 


クーデンホーフ光子

2021-08-27 | 人物忌


   結婚当時



8月27日は

「黒い瞳の伯爵夫人」
 クーデンホーフ光子が亡くなった日

 

光子は

1874(M7)年7月24日
 東京府牛込納戸町
で骨董店を営む
    青山喜八と妻・津禰(つね)の
    三女・青山みつとして生まれる。

1892 (M25)年2月 
   当時のオーストリア=ハンガリー帝国の
    駐日代理大使として赴任してきた
   ハインリヒ・クーデンホーフ伯爵に
 見初められ
  大使公邸に
 小間使いとして奉公する。


  諸説あるが 
  ハインリヒが騎馬で移動中に落馬したのを、
 みつが手当てしたのがなれ初めだといわれる。

1893(M26)年 
 光子(18歳)ハインリヒ(33歳)と結婚
 当時東京府に届出された
   初の正式な国際結婚とも。

  長男・ハンス(光太郎)
  次男・リヒャルト(栄次郎)
 の2人の子を生む。

1896(M29)年1月
 帰還命令により夫の祖国である

 オーストリア=ハンガリー帝国へ向かう。
 
  クーデンホーフ家が所有する

 西ボヘミア・ロンスペルク村の居城へ。
(現:チェコ共和国・ポビェジョヴィツェ)

 旅立ちの前に、光子は明治皇后
 (のちの昭憲皇太后)に拝謁を許され、
「どんな場合にも
 日本人としての誇りを忘れないように」と
 特別にお言葉を賜ったと言われる。
 このお言葉が
 以後の光子の生涯に大きく影響していた。

 渡欧後 自分の無学を補うため
 歴史・地理・数学
 ・語学(フランス語・ドイツ語)
  ・礼儀作法など
 家庭教師を付けて猛勉強した。

1905(M38)年
 日露戦争の勝利により
 日本の国際的地位が高まると
 光子への偏見も和らぐ。
1906(M39)年5月14日
 夫ハインリヒが
 心臓発作を起こし急死(46歳)
 
 ハインリヒの遺産は
 全て
光子が相続するように
 遺言がなされていたものの
 一族が財産を巡り訴訟を起こすが
 光子は自ら法律書を読み
 勉強をしてこれに勝訴する。
 
 以後 夫の遺産を相続し

 伯爵夫人として簿記などを勉強し
 領地経営  法廷闘争と取り仕切った。

 


  (NHK・BS ザ・プロファイラー)
 
   そして子供たちの教育のため

 財産を処分しウィーンへ居を移す。
 光子は社交界にデビューし
 「黒い瞳の伯爵夫人」とも呼ばれる。

1914(T3)年に始まる第一次世界大戦では
 オーストリア=ハンガリー帝国と
 日本は敵国として戦うことになり
 二つの祖国が敵国として戦うことになり
 光子への差別は強まった。

 また 長男ハンスと三男ゲオルフの
 2人の息子が兵士として従軍する。
(次男リヒャルトは
 肺の病気で徴兵を免れた)

 光子自身も赤十字社を通しての
 食糧供出に奔走するなど
 多難な時期を送る。

1918(T7)年
 第一次世界大戦で
 オーストリア=ハンガリー帝国が
 崩壊したことに伴い
 クーデンホーフ=カレルギー家も
 多くの財産を失った。
1925(T14)年
 脳溢血により右半身不随となるが
 ウィーン郊外で唯一の理解者であった
 次女・オルガの介護により
 静養の日々を過ごす。
1939(S14)年9月に始まった
 第二次世界大戦後は
 ドイツ難民として中央ヨーロッパを放浪
1941(S16)年8月27日
 世界大戦の火の手がヨーロッパを覆う中
 2度目の脳卒中が発作し
 オルガに見守られながら息を引き取り
 ウィーンのカレルギー家の墓に葬られる。
 
 享年67

 

 

 

 


歌手 藤 圭子

2021-08-22 | 人物忌


  (東京・新宿区 花園神社境内)

 

8月22日は 演歌歌手
 藤 圭子 が亡くなった日


藤は 
1951(S26)年 

  浪曲師の父と曲師の母のもと
  岩手県一関市に生まれ
 北海道旭川で育った。

 本名 宇多田純子 旧姓は阿部

1969(S44)年
 ソングライター石坂まさを
(1941-2013)によって見いだされ

 「新宿の女」でデビューする。

  夜の世界に生きる女性の感情を
  描いた暗く陰湿な楽曲「怨歌」を

  独特のドスの効いたハスキーボイスで
  のびやか かつ深々と歌い上げ
 その可憐な風貌とのギャップも相俟って

 70年作のファーストアルバムは
 オリコンの週間チャートで20週連続1位を

 セカンドアルバムなどは

 42週続けてチャートの1位を独占して
前人未踏の記録を打ち立てている。

1979(S54)年 引退
1981(S56)年
 「藤圭似子」の名(~84)で復帰

2013(H25)年8月22日
 転落死  62歳

代表曲は
「圭子の夢は夜ひらく」(1970)

歌手・宇多田ヒカルは
藤の長女で1998年にデビューしている。


1993(H5)年 当時夫であった

音楽プロデユーサーの
宇多田照實(1948-)と

宇多田ヒカルと共に
音楽ユニットのU3を結成した。


2000(H12)年
 宇多田ヒカルの札幌公演に

 飛び入りして
「圭子の夢は夜ひらく」を歌ってもいた。


  (東京・新宿区 花園神社境内)

 

 


薬学者 大井玄洞

2021-08-15 | 人物忌


   大井玄洞の胸像 

8月15日は 
薬学者 政治家 陸軍軍人
大井玄洞 が亡くなった日

大井玄洞(げんどう)の胸像が
文京区関口の
江戸川公園内に置かれている。

説明文には
「 大井玄洞翁の胸像 
 生誕 安政元年(1855)
  加賀藩金沢に生まれる

 明治33年(1900)より
  小石川区(現文京区)在住

 逝去 昭和5年(1930)8月15日
  伊豆にて没す(享年75才)


江戸川(現神田川)の治水事業は
沿岸の人々にとって、永年の願いであった。

明治43年(1910)の大洪水の後、
玄洞翁は、人々の願いの実現に努力し、

大正2年(1913)護岸改修に着工させ、
大正8年(1919)に完成させた。
人々は、翁の功績をたたえ、
永くその徳を伝えるために、

昭和3年(1928)、江戸川公園内の
当所に胸像を建てた。

 昭和58年(1983)12月
       文京区役所」

大井の概歴
1855(安政元)年
 加賀藩の儒医の子として生まれる。

 藩の明倫堂で学び
 更に藩の道成館で英語を習得した。

1873(M6)年
 大学南校(現東京大学の前身)
 の卒業とともに
文部省上等出仕となって
 大学区医学校
 (現東京大学医学部の前身)に
 ドイツ語通訳として勤務。
 教科書を作るにあたり
 ドイツ語の翻訳で
 「生薬学」の訳語をあてた。

1880(M13)年
 金沢医学校製薬学科
(現金沢大学薬学類の前身)に赴任し、
 同校の教諭と石川県立金沢病院
 現金沢大学医学類附属病院の前身)の薬局長

1885(M18)年 
 これらの職を辞して翌年ドイツに遊学
1886(M19)年 
 陸軍病院薬剤課長心得

1894(M23)年
 第一師団軍医部に配属

1897(M26) 年
 日清戦争に出征

1900(M33) 年
 義和団の乱に伴い召集される。

 事変が終わるとともに
 召集解除となった。

 薬剤官としての生活を終えてから
 東京市小石川に居をかまえ
 ガーゼや脱脂綿などの衛生材料を
 商う傍ら区会議員となり、

1907 (M40) 年
 府会議員となり
 以来5期20年
(1928・S 3)年まで)に  わたって
 地域の発展に貢献した。

1930(S5)年8月15日 死去 享年75





経営者 土光敏夫

2021-08-04 | 人物忌


 (BS朝日・昭和偉人伝から)

 

8月4日は 
経営者 土光敏夫が亡くなった日

土光敏夫は 石川島播磨元社長
東京芝浦電気(東芝)を再建し
経団連会長も務め 
“財界の荒法師”
“ミスター合理化” とも呼ばれた。


また 赤字国債が82兆円にまで
膨れあがっていた

昭和50年代、財政を立て直すため
鈴木内閣のもと結成された
第二次臨時行政調査会の会長を務めた。


土光は

1896(M29)年
 岡山県御津郡大野村
 (現・岡山市北区)に生まれる。
1920(T9)年
 東京高等工業学校
 (現・東京工業大学)機械科を卒業し

  石川島造船所入社。
1936(S11)年 石川島芝浦タービン技術部長
1946(S21)年 同社社長
1950(S25)年 石川島重工業に社長として復帰
1960(S35)年 石川島播磨重工業(現IHI)社長
 1964~1972年 同社会長
1965(S40)年
 石坂泰三(1886-1975)に
 請われ業績の悪化した

 東京芝浦電気(現・東芝)の社長に就任し
 再建に努力、率先垂範して
 同社の立て直しにあたる。
1968(S43)年
 経済団体連合会
 (現・日本経済団体連合会)副会長

1972(S47)年
 東京芝浦電気の会長となる。

1974~80年
 経団連第4代会長として
 「行動する経団連」を実践(名誉会長)

1981(S56)年
 第二次臨時行政調査会会長となり
 行革問題に取り組む。
1981~83年
 第2次臨時行政調査会の会長として

「増税なき財政再建」を目指し
 日本国有鉄道をはじめとする
 3公社の民営化など
 一連の行政改革に指導的役割を果たした。
1983~86年
 臨時行政改革推進審議会の
 会長として行政改革実現に力を尽くし
 ”日本を再建した男”とも。

1988(S63)年8月4日 死去 91歳



   (BS朝日 昭和偉人伝から)

また土光の母 登美が 
1942(S17)年に創立した 
橘学苑(中・高校)の理事長として
女子教育に尽力した。


「簡素」「シンプル・ライフ」が信条で
個人は質素に 社会は豊かに。
思想(おもい)は高く 暮しは低く。