あかない日記

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土木技術者 太田圓三

2020-03-21 | 人物忌

  太田圓三像



復興局跡地の近くに架かる
神田橋北詰の公園内に記念碑が残る。

3月21日は 鉄道技師 
太田圓三(1881-1926)が亡くなっている。

太田圓三は 明治・大正期の
土木技術者・鉄道技師。

詩人・木下杢太郎
(本名・太田正雄)の実兄で

杢太郎より四歳年上で
1881(明治14)年に
静岡県伊東市に生まれる。


1904年 東京帝国大学
工科大学土木工学科を卒業後、

逓信省鉄道作業局
(後の鉄道省)に入局し、

1910年から2年間欧米に留学。

1923年の関東大震災後
帝都復興院土木局長に抜擢される。

業績は、道路の拡張・新設と
それにともなう土地区画整理を推進した。


当時はまだ馬車が主流であったが
車社会の到来を見越してこれを断行した。


現在、東京の幹線道路となっている
昭和通りや靖国通りなどはこの計画による。

 また、隅田川復興六橋
(相生橋 永代橋 清洲橋 
 蔵前橋 駒形橋 言問橋)を

はじめとする「震災復興橋梁」の
設計に尽力した。

更に、高速鉄道(地下鉄)の
必要性を説き
鉄道網の具体的な計画化に携わった。


復興事業では予算の都合上
地下鉄の敷設まではできなかったが

その必要性を重視し
私案を作成して
内務省公告にまでこぎつけた。

 これらにより
近代都市・東京の礎を築き

「鉄道始まって以来の
天才技術者」とも呼ばれた。


帝都復興事業に心血を注いていたが

1926(大正15)年
区画整理に対する無理解や

土地売買に関わる贈収賄疑惑
(復興局疑獄事件)
による
心労から自殺した。

 その業績は
現在も東京に残されている。


碑文には

「大正12年関東大震災の直後、
氏は選ばれて帝都復興院土
木局長に任ぜられ、

復興事業の根幹で然も極めて
難事業であった区画整理、
およびこれに基く
土木工事の計画遂行に直面して、

献身的努力をなすこと二年余、
事業の基礎漸く成った
大正15年春、心身疲労の極、
事業の犠牲として、

惜しくもその生命を
絶ったのであります。

昭和6年復興事業の完成に当り、
先輩知友相寄り、氏の功績を偲び、
記念としてこの彫像を、
深川相生橋畔の
中島公園に
建立したのでありますが、

太平洋戦争の災禍により
損傷せられましたので、

昭和30年春それを修復の上、
この地に移設したのであります。

       昭和30年 6月」

 

*参照:ウィキペディア 伊東市HP