あかない日記

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蘭方医 伊東玄朴

2021-02-23 | 人物忌


台東区谷中4-4 天龍院)


2月22日は 江戸から明治の蘭方医
伊東玄朴 がなくなった日

 

伊東玄朴は 近代医学の祖で、
官医界における蘭方の地位を確立した。


墓は 台東区谷中の天竜寺にあり
また居宅は 台東区台東1丁目にあった。

説明文には

「 伊東玄朴は、近世後期の蘭方医。
寛政12年(1800)、肥前国仁比山村
(現、佐賀県神埼郡神埼町)の農家に生まれる。

医学を志し、長崎では通詞猪股伝右衛門と
ドイツ人フォン・シーボルトに師事して
オランダ語、西洋医学を学んだ。


文政11年(1828)、江戸に出て、
本所番場町(現、墨田区東駒形1丁目)で開業、

翌年下谷長者町(現、台東区上野3丁目)に
転居し医療を施し、

天保2年(1831)には、佐賀藩医となった。
天保4年(1833)、移転した下谷和泉橋通
(現、台東区台東1丁目)の家は、
象先堂と称し、訪れる者が列をなしたという。

 
玄朴は、嘉永2年(1849)、
幕府が発した蘭方禁止令、蘭書翻訳取締令に
対抗するため、私設種痘所の建設を企画、
同士に呼び掛けた。

安政5年(1858)、神田お玉が池
(現、千代田区岩本町)に設立され、
これが蘭方医学を幕府に
認めさせる突破口となった。

種痘所は
、翌年火災による焼失のため、
玄朴宅の隣地
である
下谷和泉橋通に移転、再建された。

万延元年(1860)には、幕府直轄となり
翌年 西洋医学所と改称、
玄朴は その取り締まりに任命された。

その後は 明治政府に引き継がれ、
現在の東京大学医学部の前身となった。

 玄朴は、明治4年、72歳で没し、
ここ天龍院に葬られた。


ドイツ人ビショップの著書の翻訳
『医療正始』は、
現在でも高く評価されている。


なお、台東1丁目30番には、
種痘所跡・伊東玄朴居宅跡の
説明板が建っています。

平成14年3月 
     台東区教育委員会   」

なお 妻は
長崎のオランダ語通詞・猪俣傳次衛門の
長女・照(1812 - 1881)