「バイエルの謎 日本文化になったピアノ教則本」(安田寛)を読んでます。
←あなたもバイエルでしたか?
まだ途中なんで、本の感想はまたいつか書くとして、私が「バイエル」について思っていること…
昭和四十年代生まれの子どもとして、当然ながら「バイエル」で育った。横長のバイエル上巻(通称赤バイエル)と、縦長のバイエル下巻があって、自分がそれでピアノを習い始めたというだけでなくて、母のところに習いに来ている子どもたちも全員がバイエル。稀に、大人でピアノを始めたいという人が習いに来ていたけれど、それでもやっぱりバイエル。
バイエルが、教則本としてすぐれているかどうか私には判断できないのだが、たとえば効率としてよりよいものが他にあるとしても、とにかくバイエルで特に困ること、欠けていることというのは思い当たらない。みんな、バイエルを通過してちゃんとその先に進んでいったし、趣味で終わった人も、音楽を専門にした人もいるが、だんだん難しい曲が弾けるようになっていった。
バイエルの曲が無味乾燥なものであるという批判的な見方は、大人になってからようやく獲得したものであって、子どものころは意識していなかった。思い起こしても、バイエルに退屈するより先に、バイエルは終わってしまうし、もっと「曲っぽい」ものを補いたい場合、母は「メトードローズ」とか中田喜直作品とか、なにがしかバイエル以外のものと組み合わせていたようである。確か「コダーイ」の初心者向け教則本? もあって、その耳慣れない響きにびっくりした覚えがある。しかしそれらはあくまでちょっとした寄り道、補足というものであって、本流はしっかり一本に決まっていた。「寄り道」まで弾くのはむしろ、学習スピードが遅くて本流だけでつっぱしれない、ゆっくりさんというような位置づけで。
自分がどう弾いていたかは直接覚えていないけれど、もっと物心ついてから、いろんな生徒がバイエルを弾くのを聞いて思ったことは、同じバイエルの曲を弾いても、無味乾燥に弾く子と、音楽っぽく弾ける子がいるということだ。
ま、そんな感じで、バイエルについて特に不足な点とかあるわけではないのだが、大人になって考えた、一番よくない点というのは、「道筋が一本だった」ということである。つまり、バイエルの良し悪しというのではなくて、全員があるひとつの道筋に乗ってピアノを習うことになっていたということそのもの。
偏差値じゃないけれど、一本の道というかものさしの上に乗っているということは、誰それちゃんは何番、誰それちゃんはもう何番だって、へぇーという比較を可能にする。バイエルが終わっても、ブルグミュラー、ツェルニー30番以降と、「一本のものさし」は続き、そこには厳然と「進度」というものが存在する。その曲をどう弾けたかということではなしに。
自分が、音楽に秀でた才能も持っていなければ、練習の鬼になる情熱もなく、このものさし上でたいして「かっとばして」はいないということにだんだん気づいてきたころ…小学校の三年あたり。なにしろ、環境の面でアドバンテージがあり、音楽性はなくとも理解力はある子だったから、「はじめのはじめ」というあたりなら進度は速い。それが、成長とともに、徐々に本人が持っているものそのものによって進むようになってくる。
ピアノの先生の娘が、この「一本のものさし」上であんまり停滞しているのはみっともない。
誰が恥ずかしいのか? 私なのか母なのか? 判然としないが、とにかく、じゃーもっとがんばるのか、やめるのかという二択になり(母がそういったわけではない。私が勝手にそう思った。)私はやめたわけだ。のちに趣味のピアノをするにしても早すぎる中断であった。
子どもたちが、教則本無視で、アニソンなどを楽しく演奏しながら、コードを教えてもらったりリズム遊びをしたり、ぜんぜん練習もしないのにピアノを続けていて、中学生くらいになると突然、自主的にピアノを弾くようになるのを見ていると、バイエルって…バイエルにみんながそろってるのって…なんだったんだろう、ということは思う。
にほんブログ村 ピアノ ←ぽちっと応援お願いします
にほんブログ村 ヴァイオリン ←こちらでも
にほんブログ村 中高一貫教育
←あなたもバイエルでしたか?
まだ途中なんで、本の感想はまたいつか書くとして、私が「バイエル」について思っていること…
昭和四十年代生まれの子どもとして、当然ながら「バイエル」で育った。横長のバイエル上巻(通称赤バイエル)と、縦長のバイエル下巻があって、自分がそれでピアノを習い始めたというだけでなくて、母のところに習いに来ている子どもたちも全員がバイエル。稀に、大人でピアノを始めたいという人が習いに来ていたけれど、それでもやっぱりバイエル。
バイエルが、教則本としてすぐれているかどうか私には判断できないのだが、たとえば効率としてよりよいものが他にあるとしても、とにかくバイエルで特に困ること、欠けていることというのは思い当たらない。みんな、バイエルを通過してちゃんとその先に進んでいったし、趣味で終わった人も、音楽を専門にした人もいるが、だんだん難しい曲が弾けるようになっていった。
バイエルの曲が無味乾燥なものであるという批判的な見方は、大人になってからようやく獲得したものであって、子どものころは意識していなかった。思い起こしても、バイエルに退屈するより先に、バイエルは終わってしまうし、もっと「曲っぽい」ものを補いたい場合、母は「メトードローズ」とか中田喜直作品とか、なにがしかバイエル以外のものと組み合わせていたようである。確か「コダーイ」の初心者向け教則本? もあって、その耳慣れない響きにびっくりした覚えがある。しかしそれらはあくまでちょっとした寄り道、補足というものであって、本流はしっかり一本に決まっていた。「寄り道」まで弾くのはむしろ、学習スピードが遅くて本流だけでつっぱしれない、ゆっくりさんというような位置づけで。
自分がどう弾いていたかは直接覚えていないけれど、もっと物心ついてから、いろんな生徒がバイエルを弾くのを聞いて思ったことは、同じバイエルの曲を弾いても、無味乾燥に弾く子と、音楽っぽく弾ける子がいるということだ。
ま、そんな感じで、バイエルについて特に不足な点とかあるわけではないのだが、大人になって考えた、一番よくない点というのは、「道筋が一本だった」ということである。つまり、バイエルの良し悪しというのではなくて、全員があるひとつの道筋に乗ってピアノを習うことになっていたということそのもの。
偏差値じゃないけれど、一本の道というかものさしの上に乗っているということは、誰それちゃんは何番、誰それちゃんはもう何番だって、へぇーという比較を可能にする。バイエルが終わっても、ブルグミュラー、ツェルニー30番以降と、「一本のものさし」は続き、そこには厳然と「進度」というものが存在する。その曲をどう弾けたかということではなしに。
自分が、音楽に秀でた才能も持っていなければ、練習の鬼になる情熱もなく、このものさし上でたいして「かっとばして」はいないということにだんだん気づいてきたころ…小学校の三年あたり。なにしろ、環境の面でアドバンテージがあり、音楽性はなくとも理解力はある子だったから、「はじめのはじめ」というあたりなら進度は速い。それが、成長とともに、徐々に本人が持っているものそのものによって進むようになってくる。
ピアノの先生の娘が、この「一本のものさし」上であんまり停滞しているのはみっともない。
誰が恥ずかしいのか? 私なのか母なのか? 判然としないが、とにかく、じゃーもっとがんばるのか、やめるのかという二択になり(母がそういったわけではない。私が勝手にそう思った。)私はやめたわけだ。のちに趣味のピアノをするにしても早すぎる中断であった。
子どもたちが、教則本無視で、アニソンなどを楽しく演奏しながら、コードを教えてもらったりリズム遊びをしたり、ぜんぜん練習もしないのにピアノを続けていて、中学生くらいになると突然、自主的にピアノを弾くようになるのを見ていると、バイエルって…バイエルにみんながそろってるのって…なんだったんだろう、ということは思う。
にほんブログ村 ピアノ ←ぽちっと応援お願いします
にほんブログ村 ヴァイオリン ←こちらでも
にほんブログ村 中高一貫教育