あられの日記

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岡山城の歴史

2010年01月30日 06時28分44秒 | お城&御所
岡山城は鉄筋コンクリート建て。
中にはエレベーターだってあります。ただし、5階まで。6、7階へは自力で階段を登らねばなりません。

天守から後楽園を見下ろす。
むむ??
時計を見る。
14時5分。
歩道に列なす人々が待っていたのは「鶴」です。
係のおじさんに連れられて登場した所ですね。
左奥に2羽。白いのが確認出来ます~?
無念じゃ。
鶴が舞う姿を見に岡山後楽園に来たというのに…。
園内でたびたび後楽園に来るおじさんの話では、登場する場所が決まってるなら、飛行コースも決まってるんだそうです。
ん?
飛行コース??
鶴、飛ぶんかい!?
飛ぶらしいですよ。
歓声が聞こえ、なんとなく飛んでる姿も見えました。
もっとも、コンパクトカメラの望遠を最大にしても米粒より更に小さい。でも鶴は白いから後楽園の上を飛べばわかる~。
まだ未練たっぷりだった私。
リベンジの訪問を誓い、岡山城の内部観光へ戻る。

上記は歴代城主の紋章です。
以下パンフレットより抜粋。
「安土城に建築あり制に擬して天守閣を設く。その制三重造にて五重…」と、古い記録(『岡山城誌』)にもあるように、この岡山城は、本格的な城づくりのスタートとされる織田信長の築いた安土城にならって作られた日本を代表する城郭建築で、城の研究には避けて通れない貴重な城である」
よし、つかみはOK。
…なんだかおおげさ~ですけど、これは「岡山城」のパンフレットですから、自画自賛はまあ、当然ですよね。

「岡山城を築いたのは、宇喜多直家の実子、秀家で、時の天下人、豊臣秀吉の養子となって「秀」の1字をもらった人物である。
彼は秀吉のアドバイスに従い天正18年(1590)から本格的な城作りを開始した。途中、秀吉の朝鮮半島への進攻には、総大将として出陣したが、帰ってくるとすぐに工事を継続し、ついに慶長2年(1597)の天守閣が完成する。起工以来8年に及ぶ大事業であった。
新しく出来上がった本丸(城の中心部分、内堀に囲まれた部分)は、面積が約4万平方メートル。
秀家の築いた天守閣は、石垣からの高さは20、45メートル。二階建ての建物を大中小の3つに重ねた三層六階の構造である。外壁の下見板には黒漆が塗られていたので、太陽に照らされるとあたかもカラスの濡れ羽色に似て『烏城」の別名がある。
壁が黒いのは、戦国時代の名残である」
へえ~。
つーか、あの時代にたった8年で完成させてたのか…。
予算はどこからひねり出したんですかね?
だって関ヶ原って確か1600年だったよね?
つーことは1590~1597年頃って日本の戦乱真っ最中~って頃じゃないの??
あんまり日本史ってよく知らない私。

トップ画像ですが、これは城主が生活していた「城主の間」なのですよ。
岡山城の天守閣には、かつて城主が暮らしていたのです。
他には愛知の犬山城しか例がないとても珍しいことです。
もっとも、かつては櫓が35棟、城門が21棟あったという岡山城ですが、現在は本丸のみかろうじて残されています。

岡山城の内部は基本的に撮影禁止なのですが、係員に尋ねたら城主の間と籠のみ写真を撮ってもいい。とのこと。
時間のある方は、お殿様やお姫様に衣装をつけて籠に乗ったり城主の席の座って撮影出来ます。
…最近、流行なんですかね?
小田原城でもなりきり衣装で撮影出来るようになってたものね。
ちなみに、衣装は貸し出ししてくれるようですよ。




コメント
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