訪問日は2016年1月10日正午過ぎ。昨日の記事の総持院からすすぐの場所です。

うん。こんなこったろ~と…

愚痴ってよかですか。さっきの総持院さんの由緒も石碑に書いてありました。地面に置いてある御影石はとっても読みにくかったです。でもさ。ここの由緒を書いてある石碑はですね。年代が古くて更に読みづらい。石碑が大きいのだけが救い。
愚痴ってないで読んでみる。うわっ!古語じゃん!あ!あっちに新しい説明板があるわ~~。た、助かった~。
説明板発見:「有鹿神社(あるかじんじゃ) ご由緒
お有鹿様は、相模国で最古の歴史と高い社格を有する。
創成
遥か遠い昔、相模大地は、海底の隆起により出現する。有鹿谷の泉を水源とし、これより流れ落ちる鳩川(有鹿河)の流域に人々は居住し、有鹿郷という楽園が形成された。縄文の頃より、有鹿の泉は水神信仰されてきたが、弥生の頃になり農耕の発展に伴い、人々は、農耕の安全と豊穣を祈り、水引祭を越し、有鹿大明神と称え、有鹿神社を創建した。有鹿谷の奥宮、鳩川中流の座間の中宮、相模川に合流する地の奥宮である。
発展
奈良平安の頃、相模国府は有鹿郷に所在し、有鹿神社は、国司の崇敬を受け相模国の延喜式内社中随一の社格を有した。天智天皇3年(664)、始めて祭礼を行い、天平勝宝6年(754)8年(756)、藤原廣政の社殿の修理と墾田五百町歩の寄進を受け、貞観11年(869)、従五位上に昇階し、永徳元年(1381)、正一位の極位となる。広大な境内に美麗な社殿が建ち、条里制の海老名耕地を領有し、また、明神大縄(参道)は、社人の住む社家を経て寒川に至り、一大縄は、相模国分寺に至る。
変動
やがて、国府も移転し、有鹿郷から海老名郷に地名も変わり、有鹿神社は、豪族の海老名氏の崇敬を受けるに至った。その後、室町の二度の大乱を蒙り、海老名氏は滅亡し、美麗な社殿と広大な境内や社領も喪失した。
その結果、鳩川中流に鎮座した中宮も現在地に遷座し、有鹿姫の伝説(座間では、鈴鹿明神創建の伝説となる)として残る。有鹿神社は、農耕を礎とした産業の発展を背景とし、水引祭りの斉行により、海老名耕地の用水を守り、相模国五宮として人々の崇敬を集めた。
現代
明治維新となり、県社に列せられたが、郷柱に留まり、神饌幣帛料供進社となった。
第二次大戦後、宗教法人有鹿神社として神社本庁に属する。有鹿神社は、水引祭を通し、瑞々しい活力を与え、人々の生活の安全と繁栄を見守り続ける。
本宮
大鳥居の跡地(鳥居田)から400m参道を進むと、鐘楼跡の有鹿姫霊地の被を傍らに、松無しの有鹿の森が茂る本宮が鎮座する。鳥居の右側に手水舎、左側に鐘楼と神楽殿、正面に本殿を覆う覆殿・幣殿・拝殿の3棟一字の社殿がある。本殿の建築と社殿の天井の龍絵は、海老名市の重要文化財の指定を受ける。社殿の左側に日枝社・稲荷社・諏訪社の三社、また、社務所の…。」え~、撮影に失敗してました。説明板の左側が切れてます。
さてと?まずは手水舎で手洗いと口をすすぐ。

そして参拝。誰もいない…。現在では人気がないのな。寂しいな。

拝殿前の狛犬は大正時代のものでした。

入口鳥居の右に切り株が残っていた。

境内は今でもそこそこ広い。でもたいしたものが残っていない。家の小さなお社みたいな有鹿天神社が一つ残ってるくらい。
古い時代は水神信仰を背景に稲作をした周りは栄えてたけど、近年は凋落してたらしい…。参拝客が少ないのもそのあたりが原因かな?
さてと?時刻は既に12時半です。この後どうするかな~?

当初計画では三川公園でお昼ご飯だったのですが、ショルダーバックも持たずに初詣に出かけてきたので食糧を持ってません。
か、帰ろうかな?

上の画像は、JR相模線の踏み切りが右手に、左奥にリコーのビルが見えてます。去年の秋リコービルの下にららぽーとが出来ました。おそらくこの風景は今だけ。これから激変する場所です。となると、有鹿神社さんも氏子さんが増えるのかな?もうちょっと歴史に伴う風格の社の建物群が欲しい所ですよね。だってさ、由来を遡ると縄文時代に続く神社さんのお正月に、参拝者がほとんどいないのは寂し過ぎるもの。

うん。こんなこったろ~と…


愚痴ってよかですか。さっきの総持院さんの由緒も石碑に書いてありました。地面に置いてある御影石はとっても読みにくかったです。でもさ。ここの由緒を書いてある石碑はですね。年代が古くて更に読みづらい。石碑が大きいのだけが救い。
愚痴ってないで読んでみる。うわっ!古語じゃん!あ!あっちに新しい説明板があるわ~~。た、助かった~。
説明板発見:「有鹿神社(あるかじんじゃ) ご由緒
お有鹿様は、相模国で最古の歴史と高い社格を有する。
創成
遥か遠い昔、相模大地は、海底の隆起により出現する。有鹿谷の泉を水源とし、これより流れ落ちる鳩川(有鹿河)の流域に人々は居住し、有鹿郷という楽園が形成された。縄文の頃より、有鹿の泉は水神信仰されてきたが、弥生の頃になり農耕の発展に伴い、人々は、農耕の安全と豊穣を祈り、水引祭を越し、有鹿大明神と称え、有鹿神社を創建した。有鹿谷の奥宮、鳩川中流の座間の中宮、相模川に合流する地の奥宮である。
発展
奈良平安の頃、相模国府は有鹿郷に所在し、有鹿神社は、国司の崇敬を受け相模国の延喜式内社中随一の社格を有した。天智天皇3年(664)、始めて祭礼を行い、天平勝宝6年(754)8年(756)、藤原廣政の社殿の修理と墾田五百町歩の寄進を受け、貞観11年(869)、従五位上に昇階し、永徳元年(1381)、正一位の極位となる。広大な境内に美麗な社殿が建ち、条里制の海老名耕地を領有し、また、明神大縄(参道)は、社人の住む社家を経て寒川に至り、一大縄は、相模国分寺に至る。
変動
やがて、国府も移転し、有鹿郷から海老名郷に地名も変わり、有鹿神社は、豪族の海老名氏の崇敬を受けるに至った。その後、室町の二度の大乱を蒙り、海老名氏は滅亡し、美麗な社殿と広大な境内や社領も喪失した。
その結果、鳩川中流に鎮座した中宮も現在地に遷座し、有鹿姫の伝説(座間では、鈴鹿明神創建の伝説となる)として残る。有鹿神社は、農耕を礎とした産業の発展を背景とし、水引祭りの斉行により、海老名耕地の用水を守り、相模国五宮として人々の崇敬を集めた。
現代
明治維新となり、県社に列せられたが、郷柱に留まり、神饌幣帛料供進社となった。
第二次大戦後、宗教法人有鹿神社として神社本庁に属する。有鹿神社は、水引祭を通し、瑞々しい活力を与え、人々の生活の安全と繁栄を見守り続ける。
本宮
大鳥居の跡地(鳥居田)から400m参道を進むと、鐘楼跡の有鹿姫霊地の被を傍らに、松無しの有鹿の森が茂る本宮が鎮座する。鳥居の右側に手水舎、左側に鐘楼と神楽殿、正面に本殿を覆う覆殿・幣殿・拝殿の3棟一字の社殿がある。本殿の建築と社殿の天井の龍絵は、海老名市の重要文化財の指定を受ける。社殿の左側に日枝社・稲荷社・諏訪社の三社、また、社務所の…。」え~、撮影に失敗してました。説明板の左側が切れてます。
さてと?まずは手水舎で手洗いと口をすすぐ。

そして参拝。誰もいない…。現在では人気がないのな。寂しいな。


拝殿前の狛犬は大正時代のものでした。

入口鳥居の右に切り株が残っていた。

境内は今でもそこそこ広い。でもたいしたものが残っていない。家の小さなお社みたいな有鹿天神社が一つ残ってるくらい。
古い時代は水神信仰を背景に稲作をした周りは栄えてたけど、近年は凋落してたらしい…。参拝客が少ないのもそのあたりが原因かな?
さてと?時刻は既に12時半です。この後どうするかな~?

当初計画では三川公園でお昼ご飯だったのですが、ショルダーバックも持たずに初詣に出かけてきたので食糧を持ってません。
か、帰ろうかな?

上の画像は、JR相模線の踏み切りが右手に、左奥にリコーのビルが見えてます。去年の秋リコービルの下にららぽーとが出来ました。おそらくこの風景は今だけ。これから激変する場所です。となると、有鹿神社さんも氏子さんが増えるのかな?もうちょっと歴史に伴う風格の社の建物群が欲しい所ですよね。だってさ、由来を遡ると縄文時代に続く神社さんのお正月に、参拝者がほとんどいないのは寂し過ぎるもの。