あられの日記

カテゴリーは場所優先。鶴岡八幡宮は寺院・仏閣ではなく「鎌倉」に。一部検索し易さ優先で、花カテゴリーに入れてる場合も。

歴史物件も複数ある海福寺

2018年05月03日 06時36分06秒 | 神社・仏閣
2018.3.25参拝。目黒川の桜を楽しんだ後、目黒新橋から山手通りへの坂を登る。交差点で大鳥神社さん参拝。その後目黒不動尊へ向かう途中、海福寺さんの説明板を見つけちゃいました。
海福寺
明から来朝した隠元隆琦が万治元年(1658)に江戸深川に開創した黄檗宗の寺でしたが、明治43年(1910)に現在地へ移転しました。
本尊は釈迦牟尼仏で、ほかに四天王像や隠元禅師の像、木造阿弥陀仏如来立像(区指定文化財)が安置されています。木造阿弥陀仏如来像は彫刻技法の特徴などから12世紀頃に京都あるいはその周辺で製作されたものと考えられ、都内で現存している希少な例です。
山門に赤い四脚門(区指定文化財)は明治後期に新宿区上落合の泰雲寺(現在は廃寺)から移建したものです。山門左手前の「文化4年永代橋崩落横死者供養塔及び石碑」(都指定文化財)は、文化4年(1807)の深川富岡八幡宮大祭の時に起こった、永代橋崩落事件の使者供養のために建てらてたものです。
また、境内の梵鐘(都指定文化財)は天和3年(1683)武州江戸中村喜兵衛藤原正次の件で、中国の鐘の形式に似ながら日本の古鐘の形式に範をとるという特異な考案によるもので、江戸時代の梵鐘中でも類例の少ない一品です」
見どころが多そう〜。いそいそと石段を上がる。ちなみに、石段奥に見える門が四脚門ですね。門の左手の桜も既に咲いてます。

四脚門の手前、石段の途中に石塔があった。

説明板:文化4年永代橋崩落横死者供養塔及び石碑 東京都指定有形文化財(歴史資料)
指定:平成3年3月8日
文化4年(1807)の深川富岡八幡宮の大祭は、大げんかが原因で中止されていた祭りが12年ぶりに催されたため大変な賑わいだった。しかし将軍世子らの御座船が永代橋の下を通過する間、一時的に橋上の通行が禁止された。通行止めが解除されて一斉に群衆が橋を渡った時に橋の中央付近が崩落し、多くの人が隅田川に転落。多数の溺死者を出す、江戸開府以来の大惨事が発生しました。
事件後、当時永代橋に近い深川寺町通り(現。江東区深川2丁目付近)にあった黄檗宗永寿山海福寺に「無縁仏が埋葬された。そして百日忌に供養塔が、安政3年(1856)に50回忌に石碑が、海福寺境内に建立された。海福寺は明治43年(1910)に目黒区下目黒の現在地に移転したが、その際にこの供養塔及び石塔も移設され、現在に至っている。
この事件はのちに、戯作者山東京伝の『夢の浮橋』や、京伝の弟山東京山の『蜘蛛の糸巻』、滝沢馬琴の『兎園小説余禄』に所収されるなど、江戸市民に大きな衝撃を与えた。溺死者440名とも言われた空前の大惨事を、江戸市民がどのように受け止め後世に伝えたかを明らかにする重要な資料である」
境内に東京都文化財ウィークの絵葉書が置いてあって、それに乗ってるのは並ぶ石塔の左側です。でも私が興味ふかく見たのは右の石塔。

だってさ、石塔の傘の裏側に、木造のような石彫が見えたんだもの。連座部分も綺麗だし。

四脚門
目黒区指定有形文化財 昭和59年3月31日指定
海福寺四脚門は明治後期に新宿区上落合泰雲寺にあったものを移建したものであるが、その後の長い年月の間に海福寺境内や周辺環境によく調和しており、落ち着きのある景観を生み出す重要な建物として定着している。
四脚門は中央にある親柱二本とその前後に二本づつある4本の控柱からきた名称で、日本建築の代表的な門の形式である当四脚門はその細部絵様の様式において、江戸中期の特質を備える貴重なものである。」
狭い境内に見どころいっぱい。

武田信玄の屋形に置かれてあったと伝えられる九層の塔 「江戸名所図絵より」

東京都指定有形文化財の梵鐘
天和2年に当時深川にあった海福寺が全焼し梵鐘も灰燼に帰しました。
時の住職独本が新鋳し、黄檗宗の開祖隠元大師の新鋳を祝した銘が刻まれています。
裾の雲形の柔か味を工夫したほかに類例のない逸品です。
思いの外、歴史ポイントでしたっ。明治期に移転する前ならさらに歴史ポイントのあるお寺だったんだろうなあ〜。でも元々が深川にあったんだったら、関東大震災(大正12年)と東京大空襲(昭和19年11月〜20年5月まで106回)にあってたか。
コメント
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