2018.4.21訪問。みかどパンのヒマラヤ杉を鑑賞し、谷中の路地を抜けて大雄寺に13時到着。目的が巨木探訪なので、大木は目印代わりです。谷中は寺町ですから、あちこちにお寺がありまして、迷いがちです。
1月に図書館から借りてきた巨樹・巨木の本によりますと、大雄寺のクス
樹高:13メートル 幹周り6、2メートル 推定樹齢400〜500年
と掲載されてます。本によりますと、「言問通りからすこし北に入ったところに大雄寺がある。1604年(慶長9)、神田に創建され、1658年(万治1)に現在地に移転した。
クスノキの大木は本堂の前に堂々とした姿で立ち、広々とした境内を枝葉でおおって、涼しげな緑陰をつくっていた。1991年環境庁(現環境省)発行の「日本の巨樹・巨木林」では、東京都でもっとも大きなクスノキとされた。樹下のは自然石でつくられた墓があり、勝海舟、山岡鉄舟とともに、幕末の三舟といわれた高橋泥舟が眠っている。高橋泥舟は槍術の名人で、書道にもすぐれ、徳川慶喜が水戸に下る際、身辺警護にあたったことで知られている。」
東京都でもっとも大きなクスノキ??
確かに根元はごついよ。
見上げてもすごい樹ですが。本郷弓町のクスの方が大きいと思うんだよね。幹もあっちの方がすごいし。
巨木探訪・本郷弓町のクス(2018年3月21日)の記事 こちらの記事には弓町のクスは樹高20メートル、幹周り8、4メートル、推定樹齢600年とありますので、やっぱり弓町のクスの方が大きいわ。
でも大雄寺さんのクスの見どころは大きさだけではありません。
この角度で撮影すると、大クスの根元の横に寄り添うように高橋泥舟のお墓があるのです。
参拝する。この後13時40分集合で寛永寺さんの特別参拝に行きます。
江戸城を無血開城した日より15代将軍徳川慶喜は2ヶ月寛永寺で蟄居生活を送ります。(寛永寺では慶喜が謹慎した部屋を葵の間と呼んでました。)寛永寺で2ヶ月謹慎した後、徳川慶喜は水戸へ移動します。で、その時慶喜を警護したのが高橋泥舟なわけですね。へえ〜。
さあ次に移動だ!と大雄寺さんを後にしようとして、門の外に説明板を見つけました。
高橋泥舟の墓
高橋泥舟は幕末期の幕臣、槍術家。名は政晃。通称謙三郎。のち精一。泥舟と号した。山岡鉄舟の義兄にあたる。天保6年(1835)2月17日、山岡正業の次男として生まれ高橋包承の養子となる。剣術の名人として世に称賛され、21歳で幕府講武所教授、25歳のとき同師範役となり、従5位下伊勢守に叙任された。
佐幕、倒幕で騒然としていた文久2年(1862)12月、幕府は江戸で浪士を徴集し、翌3年2月京都へ送った。泥舟は浪士取扱となったが、浪士が尊攘派志士と提携したため任を解かれた。同年12月師範役に復職し、慶応3年(1867)遊撃隊頭取となる。
翌4年1月「鳥羽伏見の戦い」のあと、主戦論が多数を占めていた中で、泥舟は徳川家の恭順を説き、15代将軍徳川慶喜が恭順の姿勢を示して寛永寺子院の大慈院に移り、ついでみどに転居した際には、遊撃隊を率いて警護にあたった。廃藩置県後は、要職を退き、隠棲し書を楽しんだという。明治36年2月13日没。
勝海舟、山岡鐵舟とともに幕末の三舟といわれる」
なるほどな〜。時刻は13時7分。余裕で集合時間に間に合うわ〜。
1月に図書館から借りてきた巨樹・巨木の本によりますと、大雄寺のクス
樹高:13メートル 幹周り6、2メートル 推定樹齢400〜500年
と掲載されてます。本によりますと、「言問通りからすこし北に入ったところに大雄寺がある。1604年(慶長9)、神田に創建され、1658年(万治1)に現在地に移転した。
クスノキの大木は本堂の前に堂々とした姿で立ち、広々とした境内を枝葉でおおって、涼しげな緑陰をつくっていた。1991年環境庁(現環境省)発行の「日本の巨樹・巨木林」では、東京都でもっとも大きなクスノキとされた。樹下のは自然石でつくられた墓があり、勝海舟、山岡鉄舟とともに、幕末の三舟といわれた高橋泥舟が眠っている。高橋泥舟は槍術の名人で、書道にもすぐれ、徳川慶喜が水戸に下る際、身辺警護にあたったことで知られている。」
東京都でもっとも大きなクスノキ??
確かに根元はごついよ。
見上げてもすごい樹ですが。本郷弓町のクスの方が大きいと思うんだよね。幹もあっちの方がすごいし。
巨木探訪・本郷弓町のクス(2018年3月21日)の記事 こちらの記事には弓町のクスは樹高20メートル、幹周り8、4メートル、推定樹齢600年とありますので、やっぱり弓町のクスの方が大きいわ。
でも大雄寺さんのクスの見どころは大きさだけではありません。
この角度で撮影すると、大クスの根元の横に寄り添うように高橋泥舟のお墓があるのです。
参拝する。この後13時40分集合で寛永寺さんの特別参拝に行きます。
江戸城を無血開城した日より15代将軍徳川慶喜は2ヶ月寛永寺で蟄居生活を送ります。(寛永寺では慶喜が謹慎した部屋を葵の間と呼んでました。)寛永寺で2ヶ月謹慎した後、徳川慶喜は水戸へ移動します。で、その時慶喜を警護したのが高橋泥舟なわけですね。へえ〜。
さあ次に移動だ!と大雄寺さんを後にしようとして、門の外に説明板を見つけました。
高橋泥舟の墓
高橋泥舟は幕末期の幕臣、槍術家。名は政晃。通称謙三郎。のち精一。泥舟と号した。山岡鉄舟の義兄にあたる。天保6年(1835)2月17日、山岡正業の次男として生まれ高橋包承の養子となる。剣術の名人として世に称賛され、21歳で幕府講武所教授、25歳のとき同師範役となり、従5位下伊勢守に叙任された。
佐幕、倒幕で騒然としていた文久2年(1862)12月、幕府は江戸で浪士を徴集し、翌3年2月京都へ送った。泥舟は浪士取扱となったが、浪士が尊攘派志士と提携したため任を解かれた。同年12月師範役に復職し、慶応3年(1867)遊撃隊頭取となる。
翌4年1月「鳥羽伏見の戦い」のあと、主戦論が多数を占めていた中で、泥舟は徳川家の恭順を説き、15代将軍徳川慶喜が恭順の姿勢を示して寛永寺子院の大慈院に移り、ついでみどに転居した際には、遊撃隊を率いて警護にあたった。廃藩置県後は、要職を退き、隠棲し書を楽しんだという。明治36年2月13日没。
勝海舟、山岡鐵舟とともに幕末の三舟といわれる」
なるほどな〜。時刻は13時7分。余裕で集合時間に間に合うわ〜。