おはようございます。四万十は、快晴。
キリッと冷えた空気の朝は、枯れ庭が白く薄化粧しています(最低気温は、-2、3度)。
川へ。薄暗い大橋のうえで、遅くのぼる冬の太陽を待つ(最も遅いのは1月7日8日)。
ひやいけど、風がないのがありがたい。
「おおっ、オハヨー!きちょったか。今日は風がないけんカヌーにはいいやろ」
「おはようございます。いいけど、ゲストもおらんし・・・」
「カヌー屋は、冬の仕事が課題じゃのう」
「まったくっす。郷里(くに)に帰ればよかったかなぁ。にしても、川の水が少ないっすねぇ」
「おお。まったく。まともに雨が降らんからなぁ・・・」
そんなハナシを、橋ムコウから歩いてきた顔みしりのおんちゃんとしていると、陽が川を照らしはじめました。
「見つけたぞ。何を? 永遠を。太陽にとける川」ランボーの詩は海だけど。
明るくあたたかい太陽に、こわばったカラダをゆるめながら思うのでした。太陽はエライ!ありがとSUN!と。
最高気温11、3度。午後も晴れ。
年始の四万十は、おだやかに晴れる日がつづきました。少し強い北風が吹く午後もあったけど。
暇暮らしガイドは、日中、風裏の日だまりのベランダのコットに寝転がり、本を読んだり、
ボンヤリと空をながめたり、夜は、お酒を片手に流れ星をさがしたり、ダラダラウダウダと新年を過ごす。
正月に読もうと思っていた本のなかに、「旅をする木」星野道夫著があった。
それは、年末に中村の街のアーケードにひっそりとオープンした小さな古本屋で購入。
この本は、持っていたのだけど、当時付き合っていた人に貸したまま、帰ってこず・・・。
とても、お気入りの一冊だったので、古本屋で見つけたときは、迷わずレジに。
「いつか、ある人にこんなことを聞かれたことがあるんだ。
たとえば、こんな星空や泣けるような夕陽をひとりで見ていたとするだろ。
もし愛する人がいたら、その美しさやその時のに気持ちをどんなふうに伝えるかって?」
「写真を撮るか、もし絵がうまかったらキャンバスに描いて見せるか、いややっぱり言葉で伝えたらいいのかな」
「その人はこう言ったんだ。自分が変わってゆくことだって・・・
その夕陽を見て、感動して、自分が変わってゆくことだと思うって」 旅をする木より
本を読むのをやめて、実に25年ぶりにAさんから届いた年賀状を手にとる。
絵柄だけのハガキには、年始の挨拶以外に、
「子育ても終わって、またオートバイに乗りはじめました(小型だけど)。
いつか四国西南も旅してみたいです。その時はよろしく!」と記してあった。
空をながめながら、Aさんの顔をナツカシイ記憶のなかに探す。
Aさんとは、長く沈没していた南国の島の年末年始に、
キャンプ場で出会い、長逗留している他の旅人とともに、一緒の食卓を囲み、海や山で遊んだ。
その時の旅で僕は、ほとんど写真を撮らなかった。
「このところの旅では、写真を撮らなくなったよ。
写真を撮るコトばかりに気にとられていると、大事な瞬間を、自分の目で見れないし、感じられなくなる。
印象的な風景やデキゴト、人とのであいは、できるだけ記憶のなかに鮮明に焼きつけておきたいと思ったから。
まぁ、例外はあるから一応カメラはもっていくけどね」
年上の旅の達人のそんな言葉に、それもいいかも?と思い実践してみたからだ。
ファインダーごしではなく、五感をとぎすませて、ジブンの目で旅を見て、ココロで感じてみようと。
あの島の元日、Aさんと2人でトレッキングし、山頂から見た海からのぼる朝日。泣けるような初日の出。
あれから、ずいぶん長い時間がたったが、
果たして自分は変わったのか、どうか?自分ではよくわからない(もちろん外見は変わったけど)。
追憶のなかの彼女は、海を見わたす山頂で、
真夏の太陽のような輝く笑顔を見せている。思い出補正もかかった記憶のなかで。
やっぱり、凡人は、写真撮っておけばよかったかな・・・。
年賀状をくれた方、ありがとうございます。
そのうち、返事をだしますね。ご当地ハガキでだせたらいいなぁ。
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