梨木香歩
『エストニア紀行 森の苔・庭の木漏れ日・海の葦』★★★★★
人が森に在るときは、森もまた人に在る。現実的な相互作用 ――人の出す二酸化炭素や持ち運ぶ菌等が、森に影響を与え、人もまたフィントンチッド等を受け取る―― だけでなく、何か、互いの浸食作用で互いの輪郭が、少し、ばやけてくるような、そういう一瞬を必要とする人々がいる。人が森を出ても、人の中には森が残る。だんだんそれが減ってくる頃、そういう人々はまた森に帰りたくなるのだろう。自分の中に森を補填するために。
「五月の風をゼリーにして持ってきてください」
深々とした森、沼沢地、葦原。車、船、人の営み。そしてきらめく海の向こう、微かに弧を描く水平線。国境などという「線」は、どこにも引かれていない。
彼らには世界がこういう風に見えていたのだ。永遠に連続する海と大地。
祖国は地球。
渡り途中の鳥たちに、もしも出自を訊いたなら、彼らはきっとそう答えるに違いない。