江國香織
『ウエハースの椅子』★★★★
世の中はどこもかしこもメッセージで溢れているので、私はなんだかうんざりしてしまう。
私にとって、人生は運動場のようなものだ。入口も出口もなく、無論どこかにはあるのだろうが、あってもそれに意味はない。無秩序で、前進も後退もない。みんなだた運動しているだけだ。私はそこで、途方に暮れている。
私もたくさん本を読むが、いい読者とはいえない。読む本がなかったら、恋人のいない時間をどうやって過ごしたらいいかわからないから読むだけだ。だから、夜、恋人が帰ったあとに、読書する。あるいは恋人の現れない昼に。
たくさん読むが、読んだはじから忘れてしまう。題名さえ忘れてしまうので、ときどき同じ本を二度買ってきてしまう。そして、それを読み始めても、随分ながいこと気づかない。ときには最後まで気づかずに読みおえて、二冊あることを知ってはじめておどろく。
私は抱きかかえてきたブランデーの栓をあけ、墓石の上からどぶどぶとかける。甘い匂いが線香の匂いにまざり、墓石は濡れて俄然生気を帯びる。ブランデーは母の好物だ。
私は、自分が恋人の人生の 離れ に間借りしている居候であるように感じる。彼のオプションのように。彼の人生の一部ではあるけれど、同時に隔離されているように。現実からはみだしているように。
私の恋人はやさしいが、やさしければやさしいほど、私は自分が架空の存在であるような、彼の空想の産物であるような気がする。
私は身動きがとれない。
言葉なんて役に立たない。言葉を使って物を考えようとすると、いつも結局どうどうめぐりをしてしまう。
「あのときあなたがいてくれれば、私はあんなに孤独ではなかったのに」
私はソファに横たわって目をとじる。そして、でもこのまま死んでしまってもかまわない、と、心から思う。
恋人と別れるべきかもしれない。
このごろ、気がつくとそんなことを考えている。私は恋人以外の男性に興味がないが、恋人と生きようとすれば、閉じ込められてしまう。
夕方、予定よりも一日早く生理がやってきて、私は絶望的な気持ちになってしまう。
「おどろかない?」
つややかでつめたいスパゲティをフォークにまきとって口に入れ、白ワインで喉をうるおしてから私は言った。
「なに?」
訊き返した恋人の目は愉しげで、私の言うことをもう知っているのだとわかる。
そして、絶望がやってきた。
私たちはみんなけものなのだ。一匹ずつべつべつの、孤独な。それなのに一体何だって、社会などという幻想をつくってしまったのだろう。