小原玲
『シマエナガちゃん』★★★
司馬司馬の合間にほっこり。
小鳥好きとしては(置物だけど)
雪国好きとしては(北海道でボードしたことないけど)
真っ白もふもふのシマエナガに気持ちがほんわかあたたまる。
キーンと冷えた北海道の冬
撮るの大変だったんだろうな・・って現実的に思ってしまうけど・・
ぬいぐるみがあればほしい。
巻末にプロバードウォッチャー♪鳥くん?(誰?さかなクンのパクり?)シマエナガ講座、
シマエナガQ&Aで詳細が分かる。
ふむふむ
ん?
先日のyoga 初プライベートレッスン♪
マインドフルネス瞑想
対面だとどきどきしちゃって集中出来なかった・・
司馬遼太郎
【ワイド版】
『街道をゆく 14 南伊予・西土佐の道』★★★
http://publications.asahi.com/kaidou/14/index.shtml
これはどきどき。
伊予弁?に癒されているから余計に感慨深い「そうなんよ~」
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生温い四国弁というが、讃岐、阿波、土佐にはあてはまりにくい。
伊予弁だけがそうで
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そうそう(笑)
先日の家族とのやさしさあふれるやわらかい会話を聞いてホント泣きそうになった。
(同じこと言っているけどそれだけ印象深かった)
ここまで来るときっかけがない限り捨てるわけにもいかない??
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伊予は愛比売で、文字どおりいい女という意味である。
ずいぶん粋な言葉を県名にしたものだと思うが、おそらく松山の教養人が『古事記』を披いて江木に見せ、その判断資料にしたのではないか。
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松山という地名は、秀吉のころここに城と城下をつくった加藤嘉明が、正木(松前)の城からいまの松山城の丘に城を移したのだが、赤松の美しさを見て松山と命名したといわれている。
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『愛媛面影』
伊予第一の川ということで、伊予川とよばれていた。重信というのは、改修者の名である。日本の河川で人名がついているのは、この川だけではないか。
比志川(註・肱川)の流れを引て、城郭の遠望、殊にめでたし。
とあるが、私も、日本の旧城下町でこれほど美しい一角を持った土地はないと思ったりした。
「大洲はいいですよ」
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伊予人の気風は南にくだるにつれてのびやかになるといわれている。
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うだつは、卯建と書いて、かつてはうだちともいったらしい。
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あきちゃん元気かな・・
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豊臣政権のときには、南伊予は戸田氏、藤堂氏、富田氏がそれぞれみじかい期間、領主になった。
伊達氏が宇和島十万石に封ぜられるのは徳川幕府草創期の慶長十九年(一六一四)で、途中転封されることなく明治四年(一八七一)の廃藩置県にまでいたる。
伊達氏の統治は、農民に対するとりたてなども、二百数十年を均していえば廃藩に比してきびしくはない。藩政はほぼ安定し、宇和島らしい庶民文化を成熟させた点、江戸期の諸藩の政治のなかでも出色といっていい。
伊達氏とは、いうまでもなく奥州の伊達氏である。
奥州人が奥州人だけで一個の行政組織を編成して白河ノ関以西に領地をもつというのは、私の知るかぎりでは史上最初のことで、その後もない。
ましてその封地が南海道(紀伊と淡路それに四国)であり、そのなかでも温暖で物成りもわるくないとされる南伊予なのである。
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なぜか漢字ではなくひらがなのかわいい文字を探せなかった・・
司馬さん♪
鴻上さんの劇
『ベター・ハーフ』
http://betterhalf.thirdstage.com/
久々のヒット!!
とてもよかった。
なんせ一番前ど真ん中!
感動さめやらず興奮が続いて吉祥寺から歩いて帰ってしまった(笑)
まぁ別の理由もあるけれど、、
司馬遼太郎
【ワイド版】
『街道をゆく 13 壱岐・対馬の道』★★
http://publications.asahi.com/kaidou/13/index.shtml
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厳原(いづはらと読)
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九州島の北方、朝鮮にむかい、波濤を浴びてうかんでいるこの二つの島は、古くから「国」の処遇をうけてきた。上代、国郡の制ができたとき、壱岐、対馬、それに多褹(種子島)といういずれも小さな島が、それぞれ一国として遇せられたのは、九州が畿内政権にとって特別な地域だったことを想像させる。
明治四年の廃藩置県で分国が廃せられるまで「国」であった。
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系図というのは、あてにならない。すでに平安末期から武家が自分の家系を偽装したり粉飾したりするのがふつうになっていた。しかし例外として、社家の系図がある。とくに『群書類従』に出ている古い社家の家系は半ば信用していい。
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また系図・・(笑)
でもこれは初耳
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『わがアリランの歌』
この本には、悲惨とか悲痛、悲運、悲哀あるいは悲恋といったたぐいの、辞書のその項のあらゆる熟語があてはまりそうな状況と事態に満ちている。
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“人事文化”も、農と漁とはちがう。
漁業は、太古以来ごく最近まで命がけのしごとであった。技術もむずかしいが、個々の才能によって獲れ高がちがうことは農の比ではない。農は勤勉でさえあえれば、ある程度なりたつ。勤勉は農の徳とされた。
農業は投機のようなものだといわれるほどに年々の気候に左右されるし、手間数もかかるが、しかし基本的には人間が作物を製作するのではなく、自然が稲や麦を伸ばしてゆくのである。あとは村内の人間関係に、多くの時間と神経を、農民たちはつかう。
人事文化の基本は、言葉遣いの劉重さや他人への気くばりだが、漁民が板子一枚下は地獄という波の上にあって魚をとるとき、くそ丁寧な敬語などつかいあっていられないのである。
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人類という普遍的な概念からいえば、民族というのは具体的なだけに、なまぐさい。
同一民族とはやや似た顔つきや体格を共有し、日常のマナーを共有している。大ざっぱな意味で、歴史も共有している。
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杜そのものが神という思想は、古代東アジアにはごく普遍的にひろがっていたにちがいない。
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日本では赤飯はハレの日に供されるが、上古、神々が食べた赤米の名残りであると説く人が多い。
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今日お友達に「司馬遼太郎読んでるOL(今は死語?)見たことない」と苦笑された。
「・・・・・・・・。」
よいじゃなぃよいじゃなぃ
お次はどこかなNO.14
沖縄からクラブ触っていない・・(反省)
たまにはお勉強を ね。
結構みたなぁ
ドローとフェイド
「ミートですね」
ボールとの距離は目で見ない「身体のセンサー」で感じるもの!
「わたしはわたし」
「基本の風を信じて」
アドレスで高い所を見るのではなくフラットだと思って前方の斜面に目線を置く
距離のあるバンカーショット
アドレスでハンドダウンしてフェースを開く
目玉はサンドではなくウェッジ
グッと踏ん張ったところのパワーポジション
自分のターゲットを明確に意識するべき「よいイメージ」「思い込み」
しっかり振り抜く「ゆるめないようなショット」
「グリーンに近づくにつれてお金が転がってる(笑)」
司馬遼太郎
【ワイド版】
『街道をゆく 12 十津川街道』★★
http://publications.asahi.com/kaidou/12/index.shtml
連載・週刊朝日
一九七七年十月十四日~一九七八年一月二十七日号
漢字で書くとくどい。
1977年10月14日~1978年1月27日号
Happy Birthday!!!
十津川と聞いて浮かぶのは・・
西村京太郎トラベルミステリー十津川警部(汗;)あは。
見知らぬ土地
まさしく旅してみたい場所!
先日からしつこく旅したいと言っているけどこじれている人間関係。。
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十津川郷とは、いまの奈良県吉野郡の奥にひろがっている広大な山岳地帯で、十津川という渓流が岩を噛むようにして紀州熊野にむかって流れ、平坦地はほとんどなく、秘境という人文・自然地理の概念にこれほどあてはまる地域は日本でもまずすくないといっていい。
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御赦免
免租どころか、上代から戦国期まで、交通の隔絶した大山塊であるために、中央権力の及ばない一種の政治的空白地であることはたしかだった。
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十津川という地名の意味はおそらく、
「遠つ川」
であろう。十尾津川などとも書かれた。ともかくも大和盆地という「国中」からみてはるか雲煙のかなたということでそうよばれた、というふうにこの地名の語感を感じておきたい。
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何の縁もゆかりもないからか、睡魔 睡魔
途中からスロゥダウン↓
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「安堵」
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当時、新撰組は斬り捨て御免という、信じがたいほどの特権を持っていた。法的には京都守護職という非常警察権をもつ会津藩主(松平容保)から不托されたもので、こういう殺伐な警察権が存在したのは、日本史上、この時期の新撰組だけといっていい。
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「今日はこれからフリューゲルです。みました?」
「フリューゲル?」
「あ ブリューゲルでした。混み混みでした(・・;)」
本物に迫力を感じられなかった。
宣伝のせいだと思う。
個人的にはこれ なに?って・・・
ここ
---経過---
何もしなくてもすくすく育つ。
いえ、毎日水やりしてもらってます。
いつもありがとう。
今日は肥料+支え棒を長くしてみた。
お花が咲いた。
実もふくらみつつ。
今月末発表☆受賞出来るかな?
https://www.youtube.com/watch?v=EK8q9wcgk7Y
司馬遼太郎
【ワイド版】
『街道をゆく 10 羽州街道、佐渡のみち』★★★+
http://publications.asahi.com/kaidou/10/index.shtml
羽州と聞いてピンとくる人は山形人
博学者と一緒に旅をするとこんなにも目線がちがうものなのかと。
思えば上杉神社を横目にするだけで行ったことがない かも?
この本を基にして旅をしてみたい。
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五月雨をあつめて早し最上川
という『おくのほそ道』の中の句は、まことに玄妙な力をもっているといわざるを得ない。
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山寺
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「閑さや岩にしみ入蝉の声」
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紅花
わたしにとっては紅花荘かしら
蔵王温泉今と昔のちがいに茫然とした。
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まゆはきを俤にして紅粉の花
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天道から米沢まで五十キロである。そのほぼ垂直にちかい南下道路が、四つの城下町を串刺しに連らねいている。このことは、めずらしいといえばめずらしい
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その道程を何度も通っているから目に浮かぶ。
未だに米沢の雪に圧巻されたことを覚えている。
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最上川
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芭蕉がこの最上川を俳句にして以来、多くの文人墨客がこの川を見るために訪ねた。病身の正岡子規も、ここまできた。
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「セイタカアワダチソウの花です」
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そして佐渡・・
わたしには思い出深過ぎる島
ここまで佐渡に行った人はいないんじゃない?って。
傷心
鳥に見えない?
独りデッキで遠ざかる佐渡を眺めてた。
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佐渡は「遠国」とされながら、「国」として区分された歴史は古い。『続日本記』によれば、すくなくとも天平勝宝四年(七五二)十一月からずっと「佐渡国」である。しかし、その存在はあいまいで、国であるような、しかし実体をともなわないようなぐあいであった。
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大佐渡・小佐渡
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「……いやなものを見たやうな気がした。見ない振りをした。けれども大陸の影は、たしかに水平線上に薄蒼く見えるのだ」
――満州ではないかと思つた。
と太宰治の短編「佐渡」にある。
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春の日の長木の里は隣より
となりつづきに梅が香ぞする
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雪の高浜
長石浜
恋が浦
越の長浜
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辻藤左衛門の話と孫悟空
うならせる内容で、しばし現実を思った。
現実は小説より奇なり こんな言葉しか浮かばないけど。
実りある週末読書
さてさて次へ。
司馬遼太郎にハマるわたし。
ちょうど一年ぶり。
それも掘り出し物の初版本!
だからやめられない。
この気持ちを分かってくれる人は いない。
よいのよよいのよ。
村上春樹
『納屋を焼く』
昭和六十二年九月十五日 印刷
昭和六十二年九月二十五日 発行
今回印象に残ったのは・・・どこだろう?
さすがにこれだけ固執しているとするすると読んでしまう。
約20分の物語
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僕がいちおうホストとしてそれぞれのグラスにワインを注いだ。それから、乾杯した。ちょっと癖のあるワインだったけれど、飲んでいるうちにその癖が体になじんだ。
ワインがからになってしまうと、あとは冷蔵庫から缶ビールを出して飲んだ。うちの冷蔵庫には缶ビールだけはいつもぎっしりつまっている。
結局一時間足らずのあいだにビールの空き缶が二十四個机の上に並んだ。ちょっとしたものだ。
僕は台所から缶ビールを六本、カマンベール・チーズといっしょに持ってきた。我々はビールを三本ずつ飲んで、チーズを食べた。
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毎度思うのはこれだけビールって飲める?ってこと。
現在禁酒しているから余計にそう思うのかな。
明日は飲もう♪
「わたしに5分10分時間もらえます?」
司馬遼太郎
【ワイド版】
『街道をゆく 11 備前の諸街道』★★★+
http://publications.asahi.com/kaidou/11/index.shtml
備前・・・はて?
備前焼しか浮かばない。
それも10の羽州街道、佐渡のみちを飛ばして読んでしまい微妙な気分
(そういうところがへんな神経質)
また今回も歴史っておもしろいなと思わせる内容だった。
通勤の20分×往復で毎日身になっている40分
片道2時間の人なんてどれだけ勉強になるだろう(な~んて(笑))
先日うっかりなのか本を忘れた時は快速にあえて乗りぎゅうぎゅうに納得し、
我慢できず帰りBOOK-OFF♪に寄ったら掘り出し物に出逢った(こういうこともある)
うん。だからおもしろい。
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樹々のなかで、樹ぜんたいが煙ったように芽を吹きだしているのがある。あれは何でしょう、と伺うと、「楓です」と、平凡な名がかえってきた。そういう樹でも、全体の風趣の中で芽吹いていると、なにかふしぎな樹のように思えてくるのである。
「楓は秋といいますけど、春のほうがいいですね」
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最近秩父の山奥で勉強したばかり。
今時期紅葉して見えるのは「楓」ね。
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似たような処遇が、航海士ヤン・ヨーステン(蘭人)にもあたえられた。かれの名は耶揚子などといったような漢字があてられ、「ヤヨスどの」などとよばれた。その拝領屋敷が八重洲海岸にあったが、当時はヤヨス河岸などとよばれていたらしい。現在の東京駅の八重洲口の地名のおこりが、日本に最初にきたオランダ人の航海士の名に由来しているということはおもしろい。
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昔から馴染みある八重洲口
おもしろい。
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日本人の家系というのは、すべて自称で成立している。江戸期の大名・旗本の家系がほとんどうそであるのと同様、遠くて平安時代に関東でむらがり興った武士たちがそれぞれ源平藤橘を称するのだが、その九割までがうそといっていい。
戦国期の九州の豪族の多くは、
「われらわこのような草深い九州の地生えではない。その祖は鎌倉殿の御家人であり、はるばる関東から下向してきたのである」
と称したがったが、その理由は、半ばは自家の所領の法理論的正当さを、「鎌倉殿から領地をもらった」という伝説をつくることでたしかなものにしようとした。薩摩の島津氏でさえそのような家系伝説をつくっている。
いまでも九州人には中央志向の気分がつよいが、古来以来、そうなのか、それとも室町の乱世のころに九州の各地に乱立した地侍たちが、「関東から下向」と称し、節目の源泉を鎌倉に置いて以来のことなのか、あるいはもっと深いところに根があるのが、よくわからない。
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その後に書き込みがあった(写真参照)
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当時、日本人はマカオのことを天川といった。
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太陽くん・・
ひょっとするとひょっとするかも!?
永かった春
ただし油断は出来ない(想定範囲内)
『世界の広場 ~Squares~』★★★
こういう写真集好き。
何かに特化しているもの。
日中は風がびゅうびゅうで窓からの風にあたりながら家yoga+ストレッチ
yogaマット買おう。yoga教室やめよう。
最近ハマってるHalsey
https://www.youtube.com/watch?v=2oI-BsWbIg4&list=RDJGulAZnnTKA&index=12
https://www.youtube.com/watch?v=JGulAZnnTKA&index=6&list=RDMMe2vBLd5Egnk
そしたらミックスリストからこの曲が!
二人とも好き(笑)
https://www.youtube.com/watch?v=eP4eqhWc7sI&index=21&list=RDJGulAZnnTKA
さてさて腹筋しながら世界の広場
やっぱりロシア|モスクワ|赤の広場にはどこも適わない。
あとインド|アーグラ|タージ マハル広場
個人的には
スペイン|チンチョン|マヨール広場
写真集のようなステキな写真が見当たらず・・
ポルトガル|リスボン|ロシオ広場
フィンランド|ヘルシンキ|元老院広場
サウジラビア|メディナ|預言者のモスク広場
中国チベット自治区|ラサ|ポタラ宮前広場
惹かれてやまないこういう系
ミャンマー|ヤンゴン|シュエダゴン パゴダ境内広場
あと番外編おもしろ広場
スイス|ジュネーヴ|国連前広場 のイス
https://www.youtube.com/watch?v=EK8q9wcgk7Y