2日の朝、次男君が静岡に新宮周りで帰った。次男君に食べさせようとおばあちゃんがお寿司を作ったのに、食べさせる時間とチャンスが
なかったことを思い出し、「食べられんかったね」とメールすると途中で買って食べたという。長距離なので心配だけど休み休み帰るという。
「(おじいちゃんは)どう?」とメールがあり、そのあとだったかおじいちゃんがだんだん肩で息をするようになり、モニターの点滅と
ブザー音も続くようになった。なったけど 心臓が強いのだ。心拍も落ちてきては復活を繰り返し「なんと!!スーパーじいちゃんだわ!」と
私はもうそれが信じられなかった。「わたしゃ ここまでがんばれんわ・・・」と。
あぁ、このときおばあちゃんもいたんだよ。ベッドの両側で「もうそんなに頑張らなくてええからね」「楽になってもいいんやから」と声を
かけたら、ず~っと開いたままの口が、自分の力でスッと戻って驚くくらいの笑顔(というか、くしゃおじさんみたいな顔)を二度してくれた。
「え~、今の顔すごく優しい!」とおばあさんと二人で顔を見合わせていたら、数分後亡くなった。おじいちゃんは自由な体になった。
次男君に「2時03分」とメールを入れたら、「戻るわ」って。松阪まで行ってんのに・・・
そのあとは、部屋の細々なものを取りまとめ私は先に家に戻った。本人は生前、自分の葬式というか、もろもろを段取りしていてそれを
書き残し、私に渡していた。遺言状というより、こうしてほしい、あぁしてほしいと書いていた。大まかなことは倒れて以来、二年間の
あいだに部屋を片付けているときに何枚も下書き原稿が出てきていたので、おばあちゃんと姉夫婦にも見せて「また~こんなことばっかり
書いて~。肝心なことは何も書いてない」と大笑いしたんだけど、本人の希望に従おうと決め、おじいちゃんが頼っていたおじいちゃんの
従弟のおじさんにも読んでもらい「わかった。じいさんがこう書いているからこの通りにしてあげよう」と決めたのだ。
おじいちゃんは孫たちにも会えたし、ひ孫にも会えた。でもきっと本人はベッドで動けないことのほうが苦痛で、それどころじゃなかった
かもしれない。だから私はお悔やみの言葉をかけてもらっても「本人が楽になったからいいと思っている」と答えている。もっと
家で看てあげればよかったというより、事実はもう家で看るのが限界だった。介護の辛さは看た者しかわからないと言われるけど、私がすることを
それが仕事とはいえ入院先や入所先のスタッフ・職員さんが代わってしてくれたことを思うと、本当に感謝しかない。おじいちゃんに
関わってくれた職員さんたちがお別れに部屋に来てくれ、お見送りもしてくれた。
夕方近く、家におじいちゃんが戻って奥の間に安置し、そこからが何をどうしたのか、スケジュールをこなしていく形の日々。
家族葬、ほんとうにひっそりしたものだったけど、それは本人が自分の父親を見送った時に、自分がいろいろな役を務めていたため
その関係の対応で大変だった体験と、華美なお葬式は誰のためなのか、盛大に送ってあげたければ送る側の子や妻がすればいいし、
家族で静かに送りたければそうするものだと考え、書き残したうえ、年末年始、新しい年の初めに不幸事からのスタートを血縁以外の
人にさせたくないと思ったんじゃないか・・と三尾川のおじさんが言った時「それもそうやな。やっぱり仕切り屋やったんや」と私は
笑ったのだ。私は 最期に弱っていくおじいちゃんのそばで
「今ね、魂が体から抜けて足元の上の天井近くでおじいちゃんは自分の姿を見てるんやて。悲しんでいる私らと横たわっている自分を
見ているらしい。これは姉ちゃんが○○○(亡き次姉)の臨終の時言っていた」とおばあちゃんに言うと「そうなん?」と聞くので
「いや本当かわからんけど、そう思うとなんかいいと思うやん」と天井を見ていた。幽体離脱ってことだけど、他人のオバケでもないから
コワイことないやん。葬儀のあとに見た夢を話した時におばあちゃんの妹が「それは凹ちゃんとおばあちゃんにありがとうってお辞儀して
いたかもしれへんで」と言った時おばあちゃんが「そんなのコワイ!」と即答したので笑ったんだけど 私は「あ~そうか。夢の中の
おじいちゃんの横にいた黒い影は亡き次姉だったのかもしれん。ちゃんと引き受けに来てくれていたのか」と私は良いほうにとることに
した。そうしたら亡くなった寂しさというより、おじいちゃんが楽になったから良かったという気持ちがわいてきたのだ。
ただ、おじいちゃんが無言の帰宅をしてこげを散歩に連れ出して、戻ってきてリードを解いたらいつもは母屋の入り口に飛んで走って
行くのに、手前の納屋の入り口で立ち止まって座ってしまったのを見たときに、こげも感じとったんだと思うとそれには、ぐっと
くるものがあった。
なかったことを思い出し、「食べられんかったね」とメールすると途中で買って食べたという。長距離なので心配だけど休み休み帰るという。
「(おじいちゃんは)どう?」とメールがあり、そのあとだったかおじいちゃんがだんだん肩で息をするようになり、モニターの点滅と
ブザー音も続くようになった。なったけど 心臓が強いのだ。心拍も落ちてきては復活を繰り返し「なんと!!スーパーじいちゃんだわ!」と
私はもうそれが信じられなかった。「わたしゃ ここまでがんばれんわ・・・」と。
あぁ、このときおばあちゃんもいたんだよ。ベッドの両側で「もうそんなに頑張らなくてええからね」「楽になってもいいんやから」と声を
かけたら、ず~っと開いたままの口が、自分の力でスッと戻って驚くくらいの笑顔(というか、くしゃおじさんみたいな顔)を二度してくれた。
「え~、今の顔すごく優しい!」とおばあさんと二人で顔を見合わせていたら、数分後亡くなった。おじいちゃんは自由な体になった。
次男君に「2時03分」とメールを入れたら、「戻るわ」って。松阪まで行ってんのに・・・
そのあとは、部屋の細々なものを取りまとめ私は先に家に戻った。本人は生前、自分の葬式というか、もろもろを段取りしていてそれを
書き残し、私に渡していた。遺言状というより、こうしてほしい、あぁしてほしいと書いていた。大まかなことは倒れて以来、二年間の
あいだに部屋を片付けているときに何枚も下書き原稿が出てきていたので、おばあちゃんと姉夫婦にも見せて「また~こんなことばっかり
書いて~。肝心なことは何も書いてない」と大笑いしたんだけど、本人の希望に従おうと決め、おじいちゃんが頼っていたおじいちゃんの
従弟のおじさんにも読んでもらい「わかった。じいさんがこう書いているからこの通りにしてあげよう」と決めたのだ。
おじいちゃんは孫たちにも会えたし、ひ孫にも会えた。でもきっと本人はベッドで動けないことのほうが苦痛で、それどころじゃなかった
かもしれない。だから私はお悔やみの言葉をかけてもらっても「本人が楽になったからいいと思っている」と答えている。もっと
家で看てあげればよかったというより、事実はもう家で看るのが限界だった。介護の辛さは看た者しかわからないと言われるけど、私がすることを
それが仕事とはいえ入院先や入所先のスタッフ・職員さんが代わってしてくれたことを思うと、本当に感謝しかない。おじいちゃんに
関わってくれた職員さんたちがお別れに部屋に来てくれ、お見送りもしてくれた。
夕方近く、家におじいちゃんが戻って奥の間に安置し、そこからが何をどうしたのか、スケジュールをこなしていく形の日々。
家族葬、ほんとうにひっそりしたものだったけど、それは本人が自分の父親を見送った時に、自分がいろいろな役を務めていたため
その関係の対応で大変だった体験と、華美なお葬式は誰のためなのか、盛大に送ってあげたければ送る側の子や妻がすればいいし、
家族で静かに送りたければそうするものだと考え、書き残したうえ、年末年始、新しい年の初めに不幸事からのスタートを血縁以外の
人にさせたくないと思ったんじゃないか・・と三尾川のおじさんが言った時「それもそうやな。やっぱり仕切り屋やったんや」と私は
笑ったのだ。私は 最期に弱っていくおじいちゃんのそばで
「今ね、魂が体から抜けて足元の上の天井近くでおじいちゃんは自分の姿を見てるんやて。悲しんでいる私らと横たわっている自分を
見ているらしい。これは姉ちゃんが○○○(亡き次姉)の臨終の時言っていた」とおばあちゃんに言うと「そうなん?」と聞くので
「いや本当かわからんけど、そう思うとなんかいいと思うやん」と天井を見ていた。幽体離脱ってことだけど、他人のオバケでもないから
コワイことないやん。葬儀のあとに見た夢を話した時におばあちゃんの妹が「それは凹ちゃんとおばあちゃんにありがとうってお辞儀して
いたかもしれへんで」と言った時おばあちゃんが「そんなのコワイ!」と即答したので笑ったんだけど 私は「あ~そうか。夢の中の
おじいちゃんの横にいた黒い影は亡き次姉だったのかもしれん。ちゃんと引き受けに来てくれていたのか」と私は良いほうにとることに
した。そうしたら亡くなった寂しさというより、おじいちゃんが楽になったから良かったという気持ちがわいてきたのだ。
ただ、おじいちゃんが無言の帰宅をしてこげを散歩に連れ出して、戻ってきてリードを解いたらいつもは母屋の入り口に飛んで走って
行くのに、手前の納屋の入り口で立ち止まって座ってしまったのを見たときに、こげも感じとったんだと思うとそれには、ぐっと
くるものがあった。