またまたネタがありません。今週は週末に次男君のところに出かけるのでその準備も
あり、新しい発見なり情報なりがあればお休みにならずにすむのですが・・・。
ということで、先週1月28日付けの読売新聞から・・・紙面は何に属するのかわか
りませんが、新聞のミミに解説とあり筆者は読売新聞の編集委員 芥川喜好 となって
います。コーナー名が『時の余白に』とあります。そんなものが新聞にあるというのも
知りませんでした。私はテレビ版・三面記事・和歌山版、スポーツとか編集手帳、新刊
紹介をザザっと読むくらいの毎日です。コーナー名がロマンチックに見え、その大見出
しに「現代のおとぎ話です」とあるので、なにかこうほのぼのとするお話かしら?と
思い読んでみたのです。
「昨年の春以来、テレビやラジオの放送をつけっ放しにしている時間が増えました。何
となく。今さらのようですが、そこで気づいたことがあります。半世紀もの間、聞く習
慣をなくしていたラジオで、出てくる人のおしゃべりの速度が格段速くなっていたとい
うことです。短い時間のなかに情報を詰めこんでいるのか。言いたいことがそれほど
多いのか。とにかく言葉数が多い。・・・」
出だしの言葉で、「私もそうやん、つけっ放しのラジオにテレビ」そのことでこの冬も
節電せよ!と言いたいのか・・と少し思いかけた途端そのあとに書かれたラジオの出演
する人達の言葉の速度が昔より速くなったと筆者の感想に、「うん、そうなんやて」
と思ったのだ。テレビなら早口でしゃべっていてもなんとなく 状況が見えるから
こんなことをしゃべっているのか・・とわかるけど、夜布団に入って聞くラジオは
まったくもって聞きとれないことが多い。出演者がみな、20代から30代なので
そうなのか・・と。土曜日の夜、ウタマルとかいう歌手のようなよくわからない若い
人の番組でウタマル氏の映画解説を聞くことがあるんだけど、内容はおもしろく「あ、
この映画次に観たいわ」とか「そうなんや、この映画は宣伝のわりには回収不能な
失敗作なんや」とか、本当にそうなのかはわからない、ウタマル氏の評なんだけどね。
聞きとれれば私にも解かるときがあるけど、解からないときが多い。一人でしゃべって
いるときは良いんだけど、隣りにゲストとかがくると親しさゆえか声もでかく、早口
で聞きとれない。リスナーからの映画評のハガキを読む時も、自分は下読みもしてるし
ハガキをまえにして読んでるから何を読んでいるかわかるだろうけど、聞かされるほう
は解からない。こんなDJ、昔ならホカされたと思うんだけど。人気があるからずっと
そんな調子だ。
「・・・しゃべりまくれば必然的に声の調子も高く、強くなります。高く、強くなれば
いずれ「俺が俺が」「私が私が」の世界になります。テレビの番組ではもはや既定の事
実にすぎないそうした現象―相手の話に割りこんで自説を主張する作法が、一部とはい
えラジオにも生じていることに時の流れを感じました・・・」あ、この編集委員さん
私と同じように感じたのね!と少し私も、己のシニア化にホッとしたのでした。あとの
文章はこのような現代の人間とは違った、少し年配のお知り合いの事を書かれていて
いつも静かに、相手を気遣いながら、しかし明るくゆっくりとしゃべるOさんという人
の思い出話でした。仕事が詩の世界では知られたフリーの校正者で八丁堀に生まれ育っ
た生粋の東京下町人だとか。彼は自分のために何かをしてくれとは頼んできたことは
一度もありません。何かと理由をつけては人を慰労する席を設け、うまいものを食わせ
ようとする。彼の友人知己でその振る舞いの恩恵に浴さなかった者はいません。本人は
どうしているかというと、人々のさんざめきに包まれて静かにうれしそうに座っている
酒は一滴も飲めません。・・・人間の関係は「やりとり」です。「遣る」と「取る」。
差し出すものもあれば、受け取るものもある。その相互性でバランスもとれている。
彼は決して返礼というものを受けなかった。その意味では全くバランスの悪い関係です
が、彼に何の打算もなく、自分を主張するいかなる意図もなかったゆえに、その一方的
に「与える」行為を、多くの人々が心に深く甘美に受けとめていたことを先日になって
知りました・・・とあります。Oさんは闘病を続けていましたが、元日に亡くなり筆者
も彼が70歳だったことを初めて知るほど、彼は自分を語る欲望も持たない人だったの
です。故人の遺志は葬式は身内だけでというものでしたが、遺志に反して焼香希望者が
殺到し通常の通夜・告別式となりました。後日『感謝の会』が開かれ40人ほどが駆け
つけ互いに、自分はどう与えられたのか、どう贈られたのかを披露しあう集まりになっ
たそうだ。資産家でもなく生涯独身で月10万あれば暮らせると言っていた残りを、
詩集や詩人の生活支援に秘かに自腹を切っていたらしいこと、筆者は「侠気」と書いて
います。遺族によれば彼の「侠気」は少年時代からのものだったといいます。
筆者が最後に・・・現代に欠けているものを思います。それは「与える」こと、そし
て「譲る」こと。大災害をへてもなお、時代は「奪い合って」います。自分が得をした
い。自分が優位に立ちたい。そのための自己主張であり、自己誇示であり、強者へのお
もねりでしょう。彼の生は、その意味で全く反時代的なものでした。不思議な存在感を
残して彼は去り、去ったあとに何とも温かいものが残りました・・・
読みながら、政府の中にバレンタインのチョコも女性記者から受け取らない・・と
いう議員さんが以前話題になったけど、それで記者と親密になるとか下心があるんじゃ
ないかと疑われたくないし、そんなチョコの一つで便宜をはからう・・なんてこと誰も
思わないんだけど、義理チョコも頂きたくないのねと、なんと器の小さい男!と思った
事があった。Oさんとは違う種類の人物でしょうね・・・。
そう現代は、誰もが自分を主張しすぎる。静かに人の話を聞く。まさに『感情トレー
二ング』だと思う。早朝のラジオ番組に『あなたにモーニングコール』というのがあ
る。半分夢うつつに聞くのだけど、そこの女性DJはみな静かに語る。早朝からガンガ
ンと滝つぼの中みたいな騒音を奏でることもなく リクエストされた昭和時代の歌を
流している。その話すテンポがとても穏やかで、聞き惚れたまま二度寝することも。
そう、学生時代に聞いていたラジオだって今のようなうるさい番組はなかった。
耳が衰えてきているのもあるかもしれないけど、穏やかな放送が戻ってくることを
編集委員さんも私も望んでいるのだ。昨年の春から、私達は考える機会を与えられて
いるんじゃないかな・・・と思ったのでした。(相変わらず支離滅裂なまとめね)
あり、新しい発見なり情報なりがあればお休みにならずにすむのですが・・・。
ということで、先週1月28日付けの読売新聞から・・・紙面は何に属するのかわか
りませんが、新聞のミミに解説とあり筆者は読売新聞の編集委員 芥川喜好 となって
います。コーナー名が『時の余白に』とあります。そんなものが新聞にあるというのも
知りませんでした。私はテレビ版・三面記事・和歌山版、スポーツとか編集手帳、新刊
紹介をザザっと読むくらいの毎日です。コーナー名がロマンチックに見え、その大見出
しに「現代のおとぎ話です」とあるので、なにかこうほのぼのとするお話かしら?と
思い読んでみたのです。
「昨年の春以来、テレビやラジオの放送をつけっ放しにしている時間が増えました。何
となく。今さらのようですが、そこで気づいたことがあります。半世紀もの間、聞く習
慣をなくしていたラジオで、出てくる人のおしゃべりの速度が格段速くなっていたとい
うことです。短い時間のなかに情報を詰めこんでいるのか。言いたいことがそれほど
多いのか。とにかく言葉数が多い。・・・」
出だしの言葉で、「私もそうやん、つけっ放しのラジオにテレビ」そのことでこの冬も
節電せよ!と言いたいのか・・と少し思いかけた途端そのあとに書かれたラジオの出演
する人達の言葉の速度が昔より速くなったと筆者の感想に、「うん、そうなんやて」
と思ったのだ。テレビなら早口でしゃべっていてもなんとなく 状況が見えるから
こんなことをしゃべっているのか・・とわかるけど、夜布団に入って聞くラジオは
まったくもって聞きとれないことが多い。出演者がみな、20代から30代なので
そうなのか・・と。土曜日の夜、ウタマルとかいう歌手のようなよくわからない若い
人の番組でウタマル氏の映画解説を聞くことがあるんだけど、内容はおもしろく「あ、
この映画次に観たいわ」とか「そうなんや、この映画は宣伝のわりには回収不能な
失敗作なんや」とか、本当にそうなのかはわからない、ウタマル氏の評なんだけどね。
聞きとれれば私にも解かるときがあるけど、解からないときが多い。一人でしゃべって
いるときは良いんだけど、隣りにゲストとかがくると親しさゆえか声もでかく、早口
で聞きとれない。リスナーからの映画評のハガキを読む時も、自分は下読みもしてるし
ハガキをまえにして読んでるから何を読んでいるかわかるだろうけど、聞かされるほう
は解からない。こんなDJ、昔ならホカされたと思うんだけど。人気があるからずっと
そんな調子だ。
「・・・しゃべりまくれば必然的に声の調子も高く、強くなります。高く、強くなれば
いずれ「俺が俺が」「私が私が」の世界になります。テレビの番組ではもはや既定の事
実にすぎないそうした現象―相手の話に割りこんで自説を主張する作法が、一部とはい
えラジオにも生じていることに時の流れを感じました・・・」あ、この編集委員さん
私と同じように感じたのね!と少し私も、己のシニア化にホッとしたのでした。あとの
文章はこのような現代の人間とは違った、少し年配のお知り合いの事を書かれていて
いつも静かに、相手を気遣いながら、しかし明るくゆっくりとしゃべるOさんという人
の思い出話でした。仕事が詩の世界では知られたフリーの校正者で八丁堀に生まれ育っ
た生粋の東京下町人だとか。彼は自分のために何かをしてくれとは頼んできたことは
一度もありません。何かと理由をつけては人を慰労する席を設け、うまいものを食わせ
ようとする。彼の友人知己でその振る舞いの恩恵に浴さなかった者はいません。本人は
どうしているかというと、人々のさんざめきに包まれて静かにうれしそうに座っている
酒は一滴も飲めません。・・・人間の関係は「やりとり」です。「遣る」と「取る」。
差し出すものもあれば、受け取るものもある。その相互性でバランスもとれている。
彼は決して返礼というものを受けなかった。その意味では全くバランスの悪い関係です
が、彼に何の打算もなく、自分を主張するいかなる意図もなかったゆえに、その一方的
に「与える」行為を、多くの人々が心に深く甘美に受けとめていたことを先日になって
知りました・・・とあります。Oさんは闘病を続けていましたが、元日に亡くなり筆者
も彼が70歳だったことを初めて知るほど、彼は自分を語る欲望も持たない人だったの
です。故人の遺志は葬式は身内だけでというものでしたが、遺志に反して焼香希望者が
殺到し通常の通夜・告別式となりました。後日『感謝の会』が開かれ40人ほどが駆け
つけ互いに、自分はどう与えられたのか、どう贈られたのかを披露しあう集まりになっ
たそうだ。資産家でもなく生涯独身で月10万あれば暮らせると言っていた残りを、
詩集や詩人の生活支援に秘かに自腹を切っていたらしいこと、筆者は「侠気」と書いて
います。遺族によれば彼の「侠気」は少年時代からのものだったといいます。
筆者が最後に・・・現代に欠けているものを思います。それは「与える」こと、そし
て「譲る」こと。大災害をへてもなお、時代は「奪い合って」います。自分が得をした
い。自分が優位に立ちたい。そのための自己主張であり、自己誇示であり、強者へのお
もねりでしょう。彼の生は、その意味で全く反時代的なものでした。不思議な存在感を
残して彼は去り、去ったあとに何とも温かいものが残りました・・・
読みながら、政府の中にバレンタインのチョコも女性記者から受け取らない・・と
いう議員さんが以前話題になったけど、それで記者と親密になるとか下心があるんじゃ
ないかと疑われたくないし、そんなチョコの一つで便宜をはからう・・なんてこと誰も
思わないんだけど、義理チョコも頂きたくないのねと、なんと器の小さい男!と思った
事があった。Oさんとは違う種類の人物でしょうね・・・。
そう現代は、誰もが自分を主張しすぎる。静かに人の話を聞く。まさに『感情トレー
二ング』だと思う。早朝のラジオ番組に『あなたにモーニングコール』というのがあ
る。半分夢うつつに聞くのだけど、そこの女性DJはみな静かに語る。早朝からガンガ
ンと滝つぼの中みたいな騒音を奏でることもなく リクエストされた昭和時代の歌を
流している。その話すテンポがとても穏やかで、聞き惚れたまま二度寝することも。
そう、学生時代に聞いていたラジオだって今のようなうるさい番組はなかった。
耳が衰えてきているのもあるかもしれないけど、穏やかな放送が戻ってくることを
編集委員さんも私も望んでいるのだ。昨年の春から、私達は考える機会を与えられて
いるんじゃないかな・・・と思ったのでした。(相変わらず支離滅裂なまとめね)