昨日の続きです。
今朝、新聞を開くと、載っていました。タイトルが2本“山田洋次「東京家族」を語る”“まねることで「通秦低音」を探った”
「通秦低音」ですか、まったく、もって、始めて聞く“四文字熟語”です。これって、そのまま解釈すれば「全体を通して、奏でる、低い、音」となりますが、これって、その筋の、業界用語?
ちょこっと調べてみました。
“ Wikipedia”で、
『通奏低音(つうそうていおん)とは、主にバロック音楽において行われる伴奏の形態。一般に楽譜上では低音部の旋律のみが示され、奏者はそれに適切な和音を付けて演奏する。イタリア語のバッソ・コンティヌオ (Basso continuo) の訳語で、伴奏楽器が間断なく演奏し続けるということからこの名がある。略してコンティヌオと呼ぶことも多い。ドイツ語でゲネラルバス (Generalbass) とも呼ばれる』
と、云う、事でした。音楽業界の言葉のようです。
それで、監督が“小津さんの戦後の作品には「通秦低音」がある。ずしんと響くような低音が、どの作品からも必ず聞こえてくる”との発言。
まあ、当然、映像のバックに実際に演奏が流される訳ではなく、聞こえてくるような、映像とかストーリーになっている、と、まあ、そういう事ですけど。
まあ、私のレベルでは、残念ながら、「東京物語」からも、それを“まねた”「東京家族」からも、通秦低音は聞こえてきませんでした。
最後のところで“小津さんは、やっぱりすこし冷たいんです。人生を突き放してみているところがある。虚無的ですよね。僕は希望というのを捨てたくない。見つけにくいものですけどね”で、記事は終わっています。
虚無的な小津安二郎、確かに、「東京物語」を“家族の崩壊”を描いた作品と自ら語っています。
ラストシーンは、妻を亡くした、父親の号泣するシーンとの構想でしたが、父親役の笠智衆に反対され、リンゴを剝くシーンに変更されたそうです。本来、家族が崩壊し、父親が誰も居ない部屋で、ひとり泣き叫びエンドマークだったのです。
希望を捨てない山田洋次、確かに、「東京家族」は、誰も居なくなった部屋で、ひとり背中を丸めて足の爪を切っているところに、隣の娘、中学生の“ユキちゃん”が現れるのです。
そして、洗濯カゴを置いて、“ここに洗濯物を入れて”と告げて、ポチ?を散歩に連れていくのです。瀬戸内の美しい海を背景に、ユキちゃんとポチが走るシーンで、映画は終わります。
美しい海、若くて、優しくて、可愛くて、元気な“ユキちゃん”とポチの疾走シーンは、確かに、希望です。明るい未来を予感させるラストになっています。
そして、“終わり”の文字はスクリーンに映し出されないのです。橋爪功と吉行和子の文字が現れ、キャスト、スタッフが映し出されるのです。
「東京家族」は終わらない、希望も捨てない、家族は崩壊しない、変遷していく、とのメッセージなのでしょう。
確かに、観客は「東京物語」と「東京家族」では、見終わった印象は異なると思います。「東京家族」は見終わって気持ち良く映画館を後にできます。
崩壊か変遷かと云えば、これは、間違い無く、家族は変遷するのです。「東京物語」でも、子供達は独立し、親から巣立ち、自分を中心とした家族を形成し始めたのです。親からみれば、寂しく、切なく、やりきれないのですが、そういう、ことなのです。
戦後は、親子二代、三代が同居するかたちは少なくなり、別居がフツウになりました。「東京物語」の時代は、その先駆けであったと思います。
時代背景として、敗戦による戦後民主主義、価値観の大転換、経済成長、都市化、東京一極集中が、“旧来の日本的な家族”の崩壊であった、と、云えるかも知れません。時代背景とともに家族は変わる・・・。
小津が「東京物語」を描いた時代背景を考えると、日本の古き伝統、日本的なるもの、良いところも、悪いところも、兎に角、古いという事だけで否定する、そんな世相に、懐疑的、否定的、挑戦的であったのだ、と、思います。
そんな思いから、家族の“崩壊”を描いた、と、冷たく突き放すように、戦後の小津は虚無的な姿勢になった、と、思うのです。でも、しかし、「東京物語」で描かれているのは、小津が何と云おうと、何と考えようと、家族の変遷です。
居住形態が変化しても、その親が子を産み育て、その子がまた親になる・・・、そんなくり返しであり、“変遷”なのだ、と、思うのです。
それで、実は、この“崩壊と変遷”については、以前より、いろいろと考えて居た事で、 去年の6月16日・・・・“原節子を何となく” その⑧ 東京物語は崩壊ではなく変遷・・・云う記事を載せているのです。
そんな事で、何処かの局の「東京家族」の宣伝番組?の中で、山田洋次監督が“この作品は家族の変遷を描いた”との発言を聞いて、そうだ!そうだ!と、ひとり画面に向かって呟き、頷いたのでした。
「東京家族」は「東京物語」の“リメイク”ですから、山田洋次監督も、やっぱり、「東京物語」の描いたものは、家族の“崩壊”ではなく、家族の“変遷”との解釈なのでした。そう、なりますよね?
今日は“崩壊と変遷”のお話でした。
まだ、まだ、東京家族の話は続きます。
それでは、また。
今朝、新聞を開くと、載っていました。タイトルが2本“山田洋次「東京家族」を語る”“まねることで「通秦低音」を探った”
「通秦低音」ですか、まったく、もって、始めて聞く“四文字熟語”です。これって、そのまま解釈すれば「全体を通して、奏でる、低い、音」となりますが、これって、その筋の、業界用語?
ちょこっと調べてみました。
“ Wikipedia”で、
『通奏低音(つうそうていおん)とは、主にバロック音楽において行われる伴奏の形態。一般に楽譜上では低音部の旋律のみが示され、奏者はそれに適切な和音を付けて演奏する。イタリア語のバッソ・コンティヌオ (Basso continuo) の訳語で、伴奏楽器が間断なく演奏し続けるということからこの名がある。略してコンティヌオと呼ぶことも多い。ドイツ語でゲネラルバス (Generalbass) とも呼ばれる』
と、云う、事でした。音楽業界の言葉のようです。
それで、監督が“小津さんの戦後の作品には「通秦低音」がある。ずしんと響くような低音が、どの作品からも必ず聞こえてくる”との発言。
まあ、当然、映像のバックに実際に演奏が流される訳ではなく、聞こえてくるような、映像とかストーリーになっている、と、まあ、そういう事ですけど。
まあ、私のレベルでは、残念ながら、「東京物語」からも、それを“まねた”「東京家族」からも、通秦低音は聞こえてきませんでした。
最後のところで“小津さんは、やっぱりすこし冷たいんです。人生を突き放してみているところがある。虚無的ですよね。僕は希望というのを捨てたくない。見つけにくいものですけどね”で、記事は終わっています。
虚無的な小津安二郎、確かに、「東京物語」を“家族の崩壊”を描いた作品と自ら語っています。
ラストシーンは、妻を亡くした、父親の号泣するシーンとの構想でしたが、父親役の笠智衆に反対され、リンゴを剝くシーンに変更されたそうです。本来、家族が崩壊し、父親が誰も居ない部屋で、ひとり泣き叫びエンドマークだったのです。
希望を捨てない山田洋次、確かに、「東京家族」は、誰も居なくなった部屋で、ひとり背中を丸めて足の爪を切っているところに、隣の娘、中学生の“ユキちゃん”が現れるのです。
そして、洗濯カゴを置いて、“ここに洗濯物を入れて”と告げて、ポチ?を散歩に連れていくのです。瀬戸内の美しい海を背景に、ユキちゃんとポチが走るシーンで、映画は終わります。
美しい海、若くて、優しくて、可愛くて、元気な“ユキちゃん”とポチの疾走シーンは、確かに、希望です。明るい未来を予感させるラストになっています。
そして、“終わり”の文字はスクリーンに映し出されないのです。橋爪功と吉行和子の文字が現れ、キャスト、スタッフが映し出されるのです。
「東京家族」は終わらない、希望も捨てない、家族は崩壊しない、変遷していく、とのメッセージなのでしょう。
確かに、観客は「東京物語」と「東京家族」では、見終わった印象は異なると思います。「東京家族」は見終わって気持ち良く映画館を後にできます。
崩壊か変遷かと云えば、これは、間違い無く、家族は変遷するのです。「東京物語」でも、子供達は独立し、親から巣立ち、自分を中心とした家族を形成し始めたのです。親からみれば、寂しく、切なく、やりきれないのですが、そういう、ことなのです。
戦後は、親子二代、三代が同居するかたちは少なくなり、別居がフツウになりました。「東京物語」の時代は、その先駆けであったと思います。
時代背景として、敗戦による戦後民主主義、価値観の大転換、経済成長、都市化、東京一極集中が、“旧来の日本的な家族”の崩壊であった、と、云えるかも知れません。時代背景とともに家族は変わる・・・。
小津が「東京物語」を描いた時代背景を考えると、日本の古き伝統、日本的なるもの、良いところも、悪いところも、兎に角、古いという事だけで否定する、そんな世相に、懐疑的、否定的、挑戦的であったのだ、と、思います。
そんな思いから、家族の“崩壊”を描いた、と、冷たく突き放すように、戦後の小津は虚無的な姿勢になった、と、思うのです。でも、しかし、「東京物語」で描かれているのは、小津が何と云おうと、何と考えようと、家族の変遷です。
居住形態が変化しても、その親が子を産み育て、その子がまた親になる・・・、そんなくり返しであり、“変遷”なのだ、と、思うのです。
それで、実は、この“崩壊と変遷”については、以前より、いろいろと考えて居た事で、 去年の6月16日・・・・“原節子を何となく” その⑧ 東京物語は崩壊ではなく変遷・・・云う記事を載せているのです。
そんな事で、何処かの局の「東京家族」の宣伝番組?の中で、山田洋次監督が“この作品は家族の変遷を描いた”との発言を聞いて、そうだ!そうだ!と、ひとり画面に向かって呟き、頷いたのでした。
「東京家族」は「東京物語」の“リメイク”ですから、山田洋次監督も、やっぱり、「東京物語」の描いたものは、家族の“崩壊”ではなく、家族の“変遷”との解釈なのでした。そう、なりますよね?
今日は“崩壊と変遷”のお話でした。
まだ、まだ、東京家族の話は続きます。
それでは、また。