歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

綿密で特異な市街地の東光台

2010年06月21日 | つくば市の風景
先週の続きです。

東光台を目指しています。

研究学園駅前から、新庁舎の脇を通り東光台を目指すのですが、駅前の市街地と東光台とは、現在、かなり迂回した道路でつながっています。

そこで、この日、私は、かなりの危険を冒し、進入禁止の宅地造成地を抜け、道なき荒野を抜け、バリケードを自転車を抱え突破し、未舗装の田圃道を抜け、最短距離で東光台に侵攻したのです。


以前、東光台は一度だけ車で通過した事があるのです。その時の記憶では、南北に走る直線道路の両側にできた、とても細長い町だったと・・・・・・。ここら辺りは、たぶん、ほぼ中間地点ではと判断しまた。

運動公園のようです。テニスですかァ?、う~~ん、勤労青少年が、テニスですかァ?、君達! テニスは、お金持ちのスポーツです! バトミントンにしなさいねェ。


こちらは、真面目な“勤労青少年”の正しいスポーツ! 軟式野球です。日曜日に野球に汗を流す、とても健康で平和な風景です。


“勤労青少年”で思い出しました。昨年の暮れ、年越し派遣村騒動で、「派遣村」が設置されました。設置されたのが、勤労青少年スポーツセンターだったと?でも、しかし、いま調べてみたら、“国立オリンピック記念青少年総合センター”となっていました。

“青少年”の前に“勤労”の文字は付いていなかったのです。実は、わたし、40数年前に“東京オリンピックの選手村”だったこの施設に、2日間寝泊まりした経験があるのです。

それが、“勤労青少年”を対象とした“社会人教育”の合宿でした。その頃勤めていた会社から、新入社員教育として受けさせられたのです。何を教わったのか、今ではまったく覚えていません。時代は高度成長期、その末端を支える勤労青少年だった頃のお話です。

勤労青少年の頃だったので、“記念”が“勤労”に置き換わり、“勤労青少年スポーツセンター”と記憶したのだと思います。

華やかなオリンピックの選手村が、“国立オリンピック記念青少年総合センター”となり、そして、あれから半世紀 、21世紀に入って「年越し派遣村」として使われたのです。

高度成長期を経験した“元勤労青少年”としては、とても、とても、時の移ろいを感じるのでした。

話が、かなり、遠くに逸れてしまいました。

それで、公園の片隅にこんな石碑が立っていました。


昭和53年(1978年)に、“豊里町の町長と有志が相計り、住宅団地と研究団地を併せ持つ、特異な市街地として、綿密なる事業計画を樹立”し、1981年(昭和56年)に完成したようです。

つくば研究学園都市の構想は、オリンピック開催の前年1963年に閣議了解され、1987年に、谷田部町、大穂町、豊里町、桜村が合併し誕生したのです。合併前から、いろいろやっていたようです。


それにしても、肩に、相当に、力の入った碑文です。あの時代は、日本中で、みんなが、肩に力を入れて暮らしていた時代だったと・・・・・・・、でも、しかし、わたしは、あの頃より、ずっと、ずっと“脱力系”でした。

数十年の歳月を経過して、石の割れ目にこんな樹が生えてきたのです。このまま成長すると、根本の割れ目が拡大し一気に崩落するかも?


まぁ、それは、それとして、ほぼ南北に走る“特異な市街地”を先ずは北上します。



それでは、また明日。


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