原節子の“めし”を観ました。
驚きました。これまで観ていた、あの小津作品の『原節子』のイメージとかなり異なるのです。
大きな顔、大きな眼、笑みを浮かべて、カメラ目線で、その表情とはすこし違和感のあるセリフをしゃべる・・・、そんな原節子とは違っていました。
世帯やつれと云うか、糠味噌の匂いがちょっとだけ漂うと云うか、生活感のある役柄に“あの原節子”を使った成瀬巳喜男、とても新鮮で、とても驚きでした。
昭和26年(1951年)の作品で、原節子の成瀬作品への初出演、それ以降、1954年の『山の音』、1956年の『驟雨』、1960年の『娘・妻・母』と、3作品に出演しています。
監督が代ると、役者の使い方も代わり、役者のイメージも代わるのです。そして、そして、『めし』で、監督の成瀬巳喜男の世間的な評価も変わったようです。
小津作品を観ていると、時として、原節子は、“もしかして?やっぱり大根?”何て疑問を抱いたりしたのですが、『めし』での原節子はなかなかイイ芝居をしています。
それで、観ていて、少しずつ、そして、見終わって、“これって”もしかして、新しい!と思ったり、したのです。
“モノクロ”で、今から60数年前の風景が画面に映し出されるのですが、でも、しかし、今の、現代の、作品と、思えたのです。
男と女、恋愛、結婚、夫婦、女の幸せとは? 時代が変化し、関係も変化し、行ったり来たり、戻ったり、くり返したり、やはり、男と女の関係は普遍なのだと・・・・・・。
人間は動物です。肉体的な諸条件から、雄と雌の関係から、自由になれないと云うか、性差に縛られると云うか・・・・・・。性差を科学技術の発達と、社会制度で補ったところで、やはり、無理があり、窮屈で、不自然で、いつか、何処かで綻びが・・・・・・。
能書きはこれまで。
それで、“めし”です。何か?冒頭から“答え”を提示したようなタイトル。
「めし」を喰うことをくり返す、これぞフツウの暮らし、フツウの人は、変化のない退屈な日々をくり返し、その中で、小さな、小さな喜びを少しだけ見つけ、ささやかな幸福感を味わい、ささやかに生きていく?
冒頭、主人公の嘆き的?モノローグでドラマの設定が簡潔に判り易く説明されていきます。一般大衆向けの娯楽作品的と云うか、もしかして“原作の林芙美子”の小説の書き出しをなぞったのか?
『大阪府の南の外れ、地図の上では市内と云うことになっているけれど、まるで郊外のような寂しい小さな電車の停留所・・・』
敗戦から6年、未だ、英語表記の標識が街に目立っていた時代。こんなカットが歴史なのです。
『直ぐ側の天神様の森に曲がりくねった路地の奥に、朝の光が流れて・・・・・・』
何処にでも在るような、ありふれた風景は、ありふれて存在しないのです。これは、イメージどうりの、なかなかイイありふれた風景です。
『東京で“周囲の反対を押し切って結婚”してから5年目、大阪へ夫の勤め先が変わってから3年目、あの頃、私を支えていた希望や夢は何処へ行ったんだろう・・・』
このバストショット!思わずはち切れそうなバストに視線が釘付け!31歳の原節子、一番輝いていた時期かも?
『夫は食卓の前に座っている、私は味噌汁の鍋を運ぶ・・・』
髪の乱れ具合が、とてもイイです。
『昨日も今日も明日も、一年三百六十五日、同じ様な朝があり、同じ様な夜が来る、台所と茶の間と・・・女の命はやがてそこに空しく老い朽ちていくのだろうか・・・・・・』
甘い、甘い、夢の結婚生活は、日々、退屈な日常のくり返しに潰されてしまうのです。
“周囲の反対を押し切って結婚”です。周囲の反対が強ければ強いほど、二人の愛は燃え上がり、夢は大きく、絆は強く、現実とは遠ざかる。
そして、夢はやがて覚め、結ばれる時に費やされたエネルギーが大きければ、その反作用もそれに等しく大きいのです。
原節子には笑顔はありません。御飯を炊き、味噌汁を運び、亭主に朝飯をくわせる、何処にでも居るフツウの奥さん。こんな役の原節子もイイです。
そして、こんな役の“上原 謙”段々、卯建の上がらない、面白くも可笑しくも無い、フツウの亭主に見えてきます。
そして、そんな日常に、東京から亭主の姪が家出して来て、ドラマは動き始めます。
世間知らずで、甘ちゃんで、チャラチャラ娘で、男に対して脇が甘く、叔父にまでじゃれてみたり、
やりたい放題で、亭主も、亭主で、それを楽しんでいる素振りを見せたり、そして、原節子の堪忍袋の緒が切れます。
結婚生活に、亭主に、夢は破れ、疲れ果て、姪を送って行くことを口実にして、東京の実家に帰ってしまうのです。
亭主の元には返らないかも知れないと思いいつつ、そして、亭主も、もしかして、戻って来ないかも、と思いつつ・・・。
舞台は東京へ移ります。
この先は次回。
それでは、また。
驚きました。これまで観ていた、あの小津作品の『原節子』のイメージとかなり異なるのです。
大きな顔、大きな眼、笑みを浮かべて、カメラ目線で、その表情とはすこし違和感のあるセリフをしゃべる・・・、そんな原節子とは違っていました。
世帯やつれと云うか、糠味噌の匂いがちょっとだけ漂うと云うか、生活感のある役柄に“あの原節子”を使った成瀬巳喜男、とても新鮮で、とても驚きでした。
昭和26年(1951年)の作品で、原節子の成瀬作品への初出演、それ以降、1954年の『山の音』、1956年の『驟雨』、1960年の『娘・妻・母』と、3作品に出演しています。
監督が代ると、役者の使い方も代わり、役者のイメージも代わるのです。そして、そして、『めし』で、監督の成瀬巳喜男の世間的な評価も変わったようです。
小津作品を観ていると、時として、原節子は、“もしかして?やっぱり大根?”何て疑問を抱いたりしたのですが、『めし』での原節子はなかなかイイ芝居をしています。
それで、観ていて、少しずつ、そして、見終わって、“これって”もしかして、新しい!と思ったり、したのです。
“モノクロ”で、今から60数年前の風景が画面に映し出されるのですが、でも、しかし、今の、現代の、作品と、思えたのです。
男と女、恋愛、結婚、夫婦、女の幸せとは? 時代が変化し、関係も変化し、行ったり来たり、戻ったり、くり返したり、やはり、男と女の関係は普遍なのだと・・・・・・。
人間は動物です。肉体的な諸条件から、雄と雌の関係から、自由になれないと云うか、性差に縛られると云うか・・・・・・。性差を科学技術の発達と、社会制度で補ったところで、やはり、無理があり、窮屈で、不自然で、いつか、何処かで綻びが・・・・・・。
能書きはこれまで。
それで、“めし”です。何か?冒頭から“答え”を提示したようなタイトル。
「めし」を喰うことをくり返す、これぞフツウの暮らし、フツウの人は、変化のない退屈な日々をくり返し、その中で、小さな、小さな喜びを少しだけ見つけ、ささやかな幸福感を味わい、ささやかに生きていく?
冒頭、主人公の嘆き的?モノローグでドラマの設定が簡潔に判り易く説明されていきます。一般大衆向けの娯楽作品的と云うか、もしかして“原作の林芙美子”の小説の書き出しをなぞったのか?
『大阪府の南の外れ、地図の上では市内と云うことになっているけれど、まるで郊外のような寂しい小さな電車の停留所・・・』
敗戦から6年、未だ、英語表記の標識が街に目立っていた時代。こんなカットが歴史なのです。
『直ぐ側の天神様の森に曲がりくねった路地の奥に、朝の光が流れて・・・・・・』
何処にでも在るような、ありふれた風景は、ありふれて存在しないのです。これは、イメージどうりの、なかなかイイありふれた風景です。
『東京で“周囲の反対を押し切って結婚”してから5年目、大阪へ夫の勤め先が変わってから3年目、あの頃、私を支えていた希望や夢は何処へ行ったんだろう・・・』
このバストショット!思わずはち切れそうなバストに視線が釘付け!31歳の原節子、一番輝いていた時期かも?
『夫は食卓の前に座っている、私は味噌汁の鍋を運ぶ・・・』
髪の乱れ具合が、とてもイイです。
『昨日も今日も明日も、一年三百六十五日、同じ様な朝があり、同じ様な夜が来る、台所と茶の間と・・・女の命はやがてそこに空しく老い朽ちていくのだろうか・・・・・・』
甘い、甘い、夢の結婚生活は、日々、退屈な日常のくり返しに潰されてしまうのです。
“周囲の反対を押し切って結婚”です。周囲の反対が強ければ強いほど、二人の愛は燃え上がり、夢は大きく、絆は強く、現実とは遠ざかる。
そして、夢はやがて覚め、結ばれる時に費やされたエネルギーが大きければ、その反作用もそれに等しく大きいのです。
原節子には笑顔はありません。御飯を炊き、味噌汁を運び、亭主に朝飯をくわせる、何処にでも居るフツウの奥さん。こんな役の原節子もイイです。
そして、こんな役の“上原 謙”段々、卯建の上がらない、面白くも可笑しくも無い、フツウの亭主に見えてきます。
そして、そんな日常に、東京から亭主の姪が家出して来て、ドラマは動き始めます。
世間知らずで、甘ちゃんで、チャラチャラ娘で、男に対して脇が甘く、叔父にまでじゃれてみたり、
やりたい放題で、亭主も、亭主で、それを楽しんでいる素振りを見せたり、そして、原節子の堪忍袋の緒が切れます。
結婚生活に、亭主に、夢は破れ、疲れ果て、姪を送って行くことを口実にして、東京の実家に帰ってしまうのです。
亭主の元には返らないかも知れないと思いいつつ、そして、亭主も、もしかして、戻って来ないかも、と思いつつ・・・。
舞台は東京へ移ります。
この先は次回。
それでは、また。