歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

太田道潅とシンデレラ伝説

2006年11月20日 | 東京の風景
先日、「太田道潅」縁の地を歩いて来ました。
道潅と云ってもねェ・・・・・・・・今は知らないんだろうなァ。

江戸城を造った人ですね。落語の「道潅」の話しでも知られています。


「道潅」のあらすじです。

猟の途中で雨が降ってきたので、近くのみすぼらしい民家で 雨具を借りようとしたら、出てきた女性が、黙って山吹のひと枝を差し出したのです。

道潅も、その場で何のことやら判らず怒って帰りました。山吹を差し出したのは『お貸しする雨具がありません』との、断りの意味でした。

山吹の一枝を差し出すことで、山吹を詠んだ有名な

『七重八重 花は咲けども山吹の 実の一つだに なきぞ悲しき』

という和歌を思い出しなさいと言うサインでした。

雨具を借りにきたのだから、詠われている『実の』と、雨具の『簑』を掛詞にして、『実の一つだに なきぞ悲しき』なのだから『お貸しする簑はありません』と云っていたのです。山吹には実がならないそうなんです。

『七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに なきぞ悲しき』

道潅と云えば、この歌ですね。本歌では「なきぞあやしき」だそうです。この歌は平安時代、今から千年ぐらい前の、兼明親王(かねあきらしんのう)という人の歌だそうです。


【都電の面影橋のそばにある「山吹の里」の碑です。この辺で娘と出会ったとか】



このみすぼらしい「民家の娘」が「紅皿欠け皿」民話で知られる「紅皿」であったとした説があり、その「紅皿の墓」と云われているのが新宿区の大聖院にあります。上の写真です。それが、寺の境内というよりも、「元境内」であった「駐車場」の片隅にあるので判りにくく探し回ってしまった。 

「悲劇のヒロイン?」の話しと、「悲劇のヒーロー?」がいつの間にか結びついたのです。

「紅皿欠け皿」は、世界中に伝わる「シンデレラ伝説」の日本版で、所謂、「継母もの」です。「紅皿」がいじめられる姉の名前で、「欠け皿」妹の名前です。姉の紅皿が歌を詠んだことから、二つの話しが合体したようです。それにしても変な名前です。


それでですね。「七重八重・・・・・・」の歌の話しですが、民家の娘が、山吹のひと枝を差し出して、雨具の断りとして使ったのは、娘の解釈であり、歌の本来の意味は別にあると思っていたのです。

それに、落語ではそのように解釈できる演じ方をしています。
ところが、驚いたことに(そんなに驚かない?)最初から雨具を断る為に詠んだ歌だったのです。それが、12時間に及ぶ「今回の大調査?」で判明しました。

そのことは、兼明さん自身が歌の説明をした『詞書(ことばがき)』に書いていたのです。

雨の降った日、兼明さんの家に来客があり、帰りに蓑を貸してほしいと言われて、黙って山吹の枝を折って渡したのです。

受け取った人は何のことか分からずに帰り、後日、あれはどういうことだったのかと使いの者を寄越したので、あの歌を詠んで渡したそうです。

今ならば、『実の』と『簑』を掛けた『おやじギャグ』だと思います。
兼明さんは、醍醐天皇の皇子という偉い方だそうです。

そんな偉い方なのに、貸してあげる簑のが無いというのは、なんか不自然ですけどね。歌本来の隠された謎がある筈です。絶対に、そんな気がするのです。

そこで、私が「大胆」に推理してみました。

七重八重・・・とくれば、七、八、ですから、次は九で「九重」ですよね、九重は音読みで「きゅうちゅう」になり「宮中」に繋がるのです。

「花は咲けども 山吹の」、この「山吹」は「山吹色」すなわち「黄金」意味しているのです。

「花は咲けども」は、それなりに「処遇」されたが、
「実のひとつだに なきぞ悲しき」結果として、たいした財産も残せなかった。

結論。
宮中に上がり、それなりに処遇はされたが、結果として、たいした財産も残せず、雨具のひとつも客に貸せない、貧しい状況に今はある。
「何とかしてくれよ!」

こんな愚痴を歌ったのではないでしょうか?もの凄い画期的な解釈です。



それで、話しを戻します。
兼明さんは914年生まれで、987年に、73歳で亡くなっています。
山吹の歌が載った、「後拾遺和歌集(ごしゅういわかしゅう)」は、兼明さんが亡くなってから、99年後の1086年に編纂さられています。

太田道潅は、後拾遺和歌集が出来てから、346年後の室町時代の1432年に生まれ、1486年に54歳で亡くなりました。

亡くなった理由は、主君の上杉定正が、道潅を自らの城に招き、風呂をすすめ、その入浴中に殺してしまったのです。

優秀な部下である道潅に、自分の地位を奪われると思ったようです。悲劇のヒーローですね。

落語のネタ本になったのは、湯浅常山の書いた『常山紀談』です。この本は、有名な武将のエピソードを集めたものです。道潅が亡くなった後、253年後の江戸時代の1739年に書かれました。
 
最初に演じた落語家が、いつ頃の誰であるかは判りません。多分、江戸の後期か明治時代の初期でしょう。歌舞伎の演目にもあったそうです。

歌が詠まれてから、平安、室町、江戸、明治、大正、昭和、平成の現在まで約千百年の時が流れています。
 
歩きまわり、いろいろ調べて、少し考える。いいよねェ~こういうのって。

       お・や・す・み・・・・・・・  


  
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芭蕉と利休と「錆びた看板」

2006年11月19日 | 東京の風景
「錆びた看板」に惹かれています。これまで撮った写真を眺め、お湯割りを飲みつつ、いろいろ思いを巡らす、秋の夜更け・・・・・・。



赤く錆びた鉄板に残る消えてしまいそうな文字、人の世の哀れ、空しさ、寂しさ、悲しさ、儚さ・・・・・・。また、何だか「演歌」ですね。

どうも、晩秋の夜はそんな気分になります。人生も晩秋に差し掛かり、自然の摂理を感じる歳になりました。

都会の裏通りで見かける「錆びた看板」のある風景に、我が身をなぞらえ、時の流れを、しみじみと感じる今日この頃・・・・・・。




「錆びた看板」は都会の「わび・さび」ですね。「錆び」は「寂び」に繋がる言葉です。年月を経て変化していく有様に、寂しさと伴に「美しさ」を感じる。日本人の美意識ですね。

高価なものにではなく、粗末なもの中に美しさを感じ取る・・・・・・歳ですかね。
「錆びた看板」は、まさに「わび、さび」であり、風景の「山葵(シャレ)」です。

権力者の豪華絢爛、金ピカの成金趣味と対立する処に、「わび、さび」があると思います、反権力の匂いがします。利休、芭蕉、などの文人達が創りだした世界ですね。



戦後の高度成長期、バブルに踊った時期を過ぎて、これからは「経済中心」の「金儲け主義」から、質素で落ち着いて暮らす「わび・さび」の時代ですね。そんな事を最近、考えています。




豪華絢爛、金ピカの成金ビル「六本木ヒルズ」よりも、質素な谷中の「長屋」で落ち着いて暮らす事に、価値を見いだす時代でしょうね。



金を沢山儲けた人が「勝ち組」で、所得の少ない人は「負け組」と云われ、人格評価と所得額が、正比例するものと信じる風潮とは、オサラバしましょう。

以前、テレビを観ていて驚く場面に2回遭遇しました。時代を象徴する人の、時代象徴する発言でした。

ひとつは「あのホリエモン」です。
インタビューを受けていて、質問者にこんな事を云ったのです。

「東大出身者で、今、一番収入の多いいのは、誰か、知ってます?」

と「真顔」で聞いてきたのです。当然「それは俺だ」と云っているのですが。
やっぱり彼は「貧乏人の成り上がり者」だと思いました。そんなことを真顔で聞く「愚か者」いません。本当に可哀想だと思いました。


もう一人は、あの村上ファンドの「村上さん」です。彼が記者会見で、

「お金を儲けて、いけないのですか?」と記者に逆質問をしたのです。

彼ら二人は、何か勘違いをして育ってきたのでしょう。
「金儲け」は「いけない事」ではありません。

「金儲け」をした「人間」は社会的にも「尊敬されるべき」と、二人は思い込んでいます。自分達を「尊敬」しない「世の中」は「間違っている」と思い込んでいます。

世の中の人間すべてが、「金儲け」為に生きていると思い込んでいるのです。
金を儲けた人間を「尊敬」する社会は、人類史上、過去、一度も存在しませんでした。これからもないでしょうね。

結局、彼ら二人は「逮捕」されました。
しかし、「あの程度の粉飾決算」と「あの程度のインサイダー取引」で逮捕されるのであれば、他にも数百人の逮捕者がいてもおかしくありません。

当人達は、スピード違反で捕まった程度の意識でしかないでしょう。
「何故俺だけが!」そう思っている筈です。

政権与党は、彼らを新しい時代の「寵児」のように持ち上げ、検察は「犯罪者」として逮捕しました。

この国は、誰れの意志で動いているのでしょうかね・・・・・・・。


錆びた看板の話しがだいぶ逸れてきました。

兎に角です。これからは「わび・さび」の時代です。

「わび・さび」が地球を救う!?   
        
         それでは。おやすみ 

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演歌・港・居酒屋・・・そして風吹ジュン。

2006年11月18日 | 映画の話し
演歌は、寂しくて、懐かしくて、優しくて、悲しくて、そして、暖かくなりますね。

寒い夜は「焼酎のお湯割り」を飲みながら演歌を聴く。ひとり、遠~い過去の「しょっぱい思い出」を辿りながら・・・・・・・。

一度。やってみたいと思うのです。東北の寂しい港の小さな「居酒屋」で、ひとり淋しく酒を飲む。当然そこには「わけありげ」な「艶っぽい」女将いるわけです。

女将は誰がいいかなぁ。やっぱっり「八代亜紀」とか・・・・・・・ちょっとイメージではないなぁ。

そう! 思い出しました。居ましたこの人が。間違いなく、絶対に、誰が、何と云おうとも「風吹ジュン」です。風吹ジュン以外は考えられません。

誰かいた、誰かを忘れている・・・・・・と、思い出そうと半日が過ぎて、トイレの中で、ハットして思い出したのです「風吹ジュン」の顔を、忘れぽっくなりました 

風吹ジュンと「再会」したのは、最近借りたビデオです。それは「男はつらいよシリーズ」44作目、1992年制作の「寅次郎の青春」のなかです。

風吹ジュンは私の「青春時代」のアイドルでした。彼女はきっと「良い経験」をしてきたのでしょう。「いい歳の取り方」をしていました。私の中では「ナンバーワン女優」です。

これを書く為に調べていたら、この映画が公開された年に彼女は、離婚をしていたのです。いろいろあったんだね・・・・・・。彼女はわたしより3歳年下です。

それで「寅次郎の青春」なのですが、舞台は宮崎県の油津です。港のそばで理容店を営み、ひとり暮らす「婚期」を逃した女性の役です。

昼休み、食堂で寅と知り合い、その後、散髪して貰う寅次郎。そのシーンが印象的なのです。

洗髪、マッサージ、ひげ剃り、寅の気持ち良さそう顔。明るい日差し、柔らかい風に窓のカーテンがそよぎ、耳に入るのは小鳥のさえずり、のどかで平和な秋の昼下がり・・・・・・。
忘れられないシーンです。

そのシーンで、「男」であれば「誰しも憧れる」カットがあります。こんな床屋さんがあれば、一週間に一度は行ってみたくなります。

それはですね。髭を剃るカットで、風吹ジュンが「立ち位置」の反対側の頬をそるときに、彼女の「胸」が寅の頬に、一時軽く触れるのです。

寅は身動き一つしませんが、きっと頬に「全神経を集中」して、その感触を確認している筈です。寅はそれを「サイン」として受け取り、暫くの間「髪結いの亭主」気分に浸るのです。最後は、いつものお約束通り振られます。

結婚そして離婚。この時、この映画を期に「女優風吹ジュン」は「いい女」になって戻ってきました。

山田洋次監督、「あんたはエライ!」。風吹ジュンの復活はあなたの力が大きく貢献しています。

もう一人います。監督が貢献した役者が、この前年の1991年に制作した「息子」に、下町の工員役で出演した「いかりや長介」です。

これからですね、彼が「シリアスな役」もこなすようになったのは、しかし、役者としてこれからという時に、亡くなりました。本当に残念でした。

「踊る大捜査線」の刑事、テレビの連ドラで演じた貧乏弁護士役「いい味」出していました。

この「息子」の主役が「永瀬正敏」でした。今回の「寅次郎の青春」で、風吹ジュンの弟役で出演していました。永瀬を知ったのは「息子」を観た時です。

この時の和久井映見が良かった。永瀬よりも良かった。可憐な乙女でした。


永瀬はいい役者と思いますが「歳を重ねた姿」が想像できません。これから役者として「難しい年齢」になる気がします。いつまでも「若者」はできませんからね。

今年、出演した黒木和雄監督の遺作 「紙屋悦子の青春」 が「若者」を演じる最後でしょう。

彼も今年は40歳のおじさんの筈ですから。
原田知世も来年は40歳。「おじさんとおばさん」の青春映画?


演歌の話しが、いつの間にか映画の話しになってしまった。
まぁ。いいでしょう。

東北の、寂しい港町の居酒屋の話はいつかまた・・・・・・。

      今晩は、これでお終いです。   

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下山事件は「謀略」!?1ヶ月の命

2006年11月17日 | 下山事件
前に、帝銀事件(1948年・昭和23年1月)の現場周辺を歩いた時のことを書きましたが、今回は下山事件の現場周辺を歩いた話しです。

帝銀、下山とくると、三鷹、松川と繋がって頭に浮かびます。すべて、私が生まれる前、1年から2年前に起きた事件です。

帝銀以外は「下山、三鷹、松川」は国鉄を舞台とした事件です。4件は間違いなく「謀略事件」ですね。

下山事件は1949年7月5日に発生。三鷹事件も同年7月15日に発生。松川事件も同年8月17日発生しています。この時期、この連続性が「臭い」ですね、何か「怪しい匂い」が漂ってますね。

※各事件の内容はネットに多くの情報があります。詳細そちらで調べて下さい。調べると、多分「はまって」しまい、睡眠不足になる可能性大です。

それでは、全く知らない方の為に、下山事件の一応概略の説明です。
昭和24年7月6日午前零時19分に貨物列車により轢断された国鉄総裁「下山定則」の死体が発見されました。

現場は常磐線綾瀬駅の手前で、東武伊勢崎線と交差する、線路が緩やかにカーブし、前方が見にくい地点です。

これが下山さんです、47歳で亡くなりました。この歳で「国鉄総裁」ですからね。鉄道省から公社に変わったのが6月ですから、就任後1か月で亡くなった訳です。

それで、この事件は当初より「自殺説」と「他殺説」の論争があったのですが、捜査本部は正式な結論もなく12月に解散。

そして、現在まで「論争」は続いているのです。

私としては、「謀略事件説」ですから、当然「他殺説」です。

当時の世界は、第二次大戦が終わり、「自由主義」対「軍国主義・ファシズム」の闘いから「資本主義」対「共産主義」の闘いに変化した時期であり、日本に置いてもアメリカの占領政策が「民主化政策」から、「反共政策」へ転換した時期です。

「民主化政策」として「育成」してきた労働組合を、「反共政策」に転換したことにより「弾圧」し始めたのです。「下山、三鷹、松川」事件を契機として「労働組合の勢力は低下していきます。

組合の勢力低下は「共産党」の勢力低下に繋がりました。翌年の1950年に朝鮮戦争が勃発し、そして、今現在まで「休戦状態」が続いています。

状況証拠としての世界情勢、そして、事件により誰が「利益」を得たのかは明らかだと思います。

そして、事件の詳細においても、死後に線路に置かれた「死後轢断」の東大鑑定に合理性があること、「生体轢断」の慶応鑑定は書類による鑑定で、鑑定とは言えないこと。

又、、自殺説の大きな根拠となった「末広旅館」の女将の証言が、下山の特長を、詳し過ぎるほど覚えており「不自然」であること。

【下山総裁を見かけた証言のあった東武線五反野駅】

そして旅館の経営者が「元特高警察官」であったことから、証言の信憑性に疑問。(下山事件後、旅館の「羽振り」がよくなった事。証言に対する「報酬」の可能性あり)

【下山総裁が休憩した末広旅館があった場所】


【下山総裁「追憶」碑・・・・・・常磐線のガード脇にあります】



【ガード脇の公園・・・・・・この先あたりが現場です】


それと、もし自殺としても国鉄総裁が「鉄道自殺」するのは「不自然」です。下山の性格から、自らの組織、部下に対して迷惑のかかる死に方しなかったと思う。もし、自殺するならば首を吊るか、服毒等の他の手段をとる筈です。

現在の論争も、「自殺説」対「他殺説」ではなく、他殺を前提とした「犯人」探しです。

就任後、1ヶ月で殺された下山総裁。はじめから殺される事を前提として「選ばれていた」そんな可能性も感じるのです。

初代から、民営化されるまでの10代の総裁がいましたが、10人の内、1人が死亡、7人が引責辞任です。国鉄は誕生から不幸な組織だったのですね。

 
初代:下山定則(S24.6~S24.9・同年7月に下山事件で死亡)
第2代:加賀山之雄(S24.9~S26.8・桜木町事故で引責辞任)
第3代:長崎惣之助(S26.8~S30.5・紫雲丸事故で引責辞任)
第4代:十河信二(S30.5~S38.5・東海道新幹線建設費問題で辞任)
第5代:石田禮助(S38.5~S44.5・高齢により引退)
第6代:磯崎叡(S44.5~S48.4・上尾事件で引責辞任)
第7代:藤井松太郎(S48.4~S51.3・違法ストに対する引責辞任)
第8代:高木文雄(S51.3~S58.12・国鉄再建に関して政府の圧力を受け辞任)
第9代:仁杉巌(S58.12~S60.6・国鉄分割民営化で政府と対立し辞任)
第10代:杉浦喬也(S60.6~S62.3・最後の国鉄総裁)
(Wikipedia調べ)

現場周辺を歩き回り、「下山、三鷹、松川、轢断、五反野、末広旅館」言葉の響きから、暗いモノトーンの世界を連想しました。

翌年に朝鮮戦争が始まり、日本の経済が復興し「高度経済成長」の時代に入る訳です。日本の「影の時代」の出来事であった「下山事件」。

調べれば、調べるほど「謎」が深まり、事件発生時よりも、事件発生後の経過の中に、より「謀略」の匂いを強く感じる、複雑怪奇な謀略事件です。

しかし、最近は、全く別の事を感じたりもするのです。それは「複雑に見えるものこそ単純である」という事です。

それは、下山総裁の死は「個人的」な理由によるもので、死後「情報機関」により、「謀略的」情報を流し、政治的に利用したのではないかという疑問です。

まぁ。兎に角、真実は永久に闇のなかでしょう。
「真実」と認定する、機関、組織、個人など無いのですからね・・・・・・。

国家がこれが「真実」だと云ったところで、信用できませんからね、それは歴史が示す「真実」ですから・・・・・・・。

              

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秋色の街に風が吹く?  

2006年11月16日 | 季節の風景
今日はこれまで撮った写真から、お気に入りの「秋色写真」を選んでみました。
昨日は、文字が多くて長かったので、本日は写真をメインにしてお届けします。

紅葉した蔦のある、街の風景です。


★これは少し見にくいのですが、枯れ木に絡まる蔦の紅葉です。


          


★レンガ造りの倉庫? 屋根に絡まる蔦。レンガと蔦と青い空、この日は快晴で気持ちが良かった。




★触手を不気味に広げ覆い尽くす、「謎の生命体?」遠い宇宙から「侵略者?」






☆これは「最高傑作」です。黒塀とのコントラストはまさに「芸術」の域に達した力作ですね。
よくぞここまで創ってくれました。
「蔦」さん。あんたは「エライ!」   



☆最後は、風が強く吹き、「富士山」が良く見えた日の夕焼けです。写真よりも何倍も美しかったのです。
「富士山と秋の夕焼け」ベストマッチです。





           以上。
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小津の「東京物語」と東武伊勢崎線堀切駅の真実は!京成押上線の八広駅でした!

2006年11月15日 | 映画の話し

1953年製作。小津安二郎監督作品「東京物語」の重大な謎を発見し、スルドイ推理により、小津監督の深層心理に迫り、驚くべき製作意図を完璧? に解明した大長編 (それほど長くないです) の力作です。 

小説仕立てで、書いてみました。

それでは、はじまり、はじまり・・・・・・・・・・・。


       ☆☆☆ 「東京物語」の真実 ☆☆☆

夕食後、真吾は一階の居間で信子と一緒に、小津安二郎の「東京物語」のビデオを観ていた……。

始まって少し経ったところで、尾道から東京へ場面が転換する。
お化け煙突のカットから、駅のホームのカットになった所で、真吾は一時停止のボタンを押した。それは「駅名案内板」を前にしてもんぺ姿の二人の女性が立っているカットのところだ。


「エッ。どうしたの?」

「案内板の駅名が気になって」真吾は画面に近づき

「上の部分が画面から切れているけど、この左側に『…がふち』右側に『…しだ』て書いてあるだろ、これは鐘ヶ淵と牛田なんだ。

この駅名があるのは『東武伊勢崎線』。そうするとこの間の駅は、堀切駅ということになる」

「そんな些細なこと、ストーリーと関係あるの?」

「前に一度見た時から気になっていたんだ」と言って、再生ボタンを押した。

「土手の上を車が走っているだろ、ホームの先を見ると踏切もあるし」

「それがどうかしたの?」

「うん。この画面だと線路と土手は同じ高さで、土手に交差して線路がある。そうすると、この先に川を渡る鉄橋があるということになる、しかし、堀切駅は土手の下にあり、土手と平行に線路があるんだ。それに、ホームの前後に踏切はない」



「ということは、駅は堀切駅じゃないの?」

「そういうこと」

「でも、映画だからそんなことよくあるんじゃない」

「まぁ、そうなんだけど。それに、この駅名案内板、普通はホームの壁の所に、取り付けられていたりするよね、しかし、画面に出てくる案内板は、ホームの上に、線路に対して直角に、不自然に立てられている。これでは、電車に乗っている客には駅名が確認できない」

真吾はビデオを巻き戻し、煙突のカットのところから再生した。

「そうねぇ」

「そう。撮影用に立てたものに間違いない。堀切駅でないのに、なぜ小津は撮影用に案内板まで立て、堀切駅に拘ったのか……。東京の人間でも、牛田と鐘淵の間にある駅名を知っている人は少数だし、まして、牛田と鐘淵の間は堀切だと知っている人でも、ホームとその背景の映像から、堀切駅でないと判るのは極々限られた人だしね……。それに、そんな事に拘って観ている人もいないしね」

「それならば、何の為にそんな事したの?」

「この撮影用の案内板は、映画を見る観客の為に立てたのではなく、あくまでも小津監督自身の、拘りの為だと思う」

「でも、そうだったら堀切駅で撮影すればいいのに、何故そうしなかったのかしら?」

信子は、真吾の謎ときに少し興味を示してきた。真吾は、焼酎のお湯割りを一口飲んで、

「映画の構想の段階から、長男の診療所は堀切駅のそば、長女の美容院は京成本線の『町屋』と設定していたと思うんだ」と言ってお湯割りを又、一口飲んだ。

「あまり飲み過ぎないようにね。食事の時にビールを二本飲んでいるんだから」
信子の言葉に、軽く頷いて話しを続けた。

「何故、堀切と町屋なのか……。小津の設定では、長男の診療所は 東京の外れで、川沿いの寂しい下町を考えたと思う。その条件に合うのは、荒川沿い、それと、全く人が住んでいなければ、患者が来ないしね。そこで、私鉄の寂しい小さな駅となる。その条件 〈下町、川沿い、小さな駅〉、それが堀切駅なんだ」

「まぁ、少し強引なところがあるけど……」

「それと、もう一つの理由があって堀切駅になったと思う」

「もう一つの理由って? 」

「信子はお化け煙突を知ってるかい?」

「知らないわ」

「尾道から東京への、場面転換の時に映っていた煙突。あれがお化け煙突」


  [これは模型です]

信子は、父の仕事の関係で、鳥取で生まれ、三年ほどで東京に転勤となり、その後は真吾と結婚するまで、川崎の溝の口で暮らしていた。

「この煙突は東京電力の火力発電所の煙突で、隅田川沿いの千住桜木町にあった。煙突が四本立っていて、その配置が、扁平の菱形で、見る角度により、四本の煙突が重なり合って、一本、二本、 三本と、異なって見えたので、お化け煙突と呼ばれたんだ。今で 言えば下町のランドマークだね。東京オリンピックの年に解体されてしまったけれど。中学一年の時かな……」

「なんか聞いた事がある……」

「ここが大事なんだけど、地方から見る東京は、華やかな大都会。当時だと、銀座、丸の内がイメージされたと思う、小津は、そんな成功者だけが暮らすような町ではなく、普通の庶民が暮らす、普通の町としての東京を描きたかった。その象徴として、お化け煙突を使ったと思うんだ」

真吾は、東京の亀有で生まれ育ったので、お化け煙突を実際に見ていて、記憶が残っている。 

「なるほど。それで?」

「うん。長男の診療所と長女の美容院は、煙突の見える範囲に設定した。そうしないと、煙突のカットが不自然だからね」

「そうすると〈お化け煙突、下町、川沿い、小さな駅〉ね。それで、美容院はなぜ町屋なの?」

「美容院のシーンで、最初にお化け煙突のカットがあり、煙突が四本見えている。次に店先のカットで、後方に都電が走っている。この条件を満たすのが町屋なんだ」

「今でも都電が走っていたわね……」

「うん。堀切駅からの交通の便がいいんだ町屋は。京成本線の町屋から、堀切駅に行くのには、町屋から二つ目の京成関屋駅で降りると、東武伊勢崎線の堀切駅はすぐなんだ、五百㍍位しか離れていない。

長女が長男の診療所を訪れたり、長男が美容院を訪れるシーンがあるけど、そんなに遠くから来ているように描いていない。それに、地方から出て来た兄妹としては、近くに住みたいと思うのが人情だろうし……。しかし、隣に住んでいたのでは、田舎から上京してきた両親が、子供達の家を泊まり歩くことで描こうとする、家族とか親子関係の問題が……」

信子は、真吾の長い解説に飽きてきた様子で、先ほどから、画面の方に視線を向けていた。ビデオは一時停止が長かった為に、テレビ放送に切り替わり、バラエティー番組をやっている。

真吾は、お湯割りを飲み干して、

「結論として、お化け煙突の見える『町屋』と、東京の外れにある、寂しい私鉄の駅『堀切』は、小津としては、どうしても変えたくなかったったのだと思う。

あの案内板のカットを入れなければ、いいのにと思うけど、そこが小津監督の映画えの拘りなんだろうね。

あくまでも、具体的な地名を設定した上での物語。堀切駅がドラマの起点であり。お化け煙突もテーマの象徴として必要であり、地理的関係にも、必然性を持たせたいから、長女の美容院は町屋。長男の診療所は堀切。

だから、実際のロケ地が別の駅であっても、案内板に不自然さがあっても堀切駅でなければ、小津は納得できなかったのだと思う。別の駅で撮影したのは、堀切駅がイメージと合わなかったのだと思う。

堀切駅は、今でも何もない 寂しい駅だけど、当時は周りに全く何もなく、絵にならなかったので、駅のホームのシーンだけは場所を変えたのだと思う。東山千栄子が孫と遊んでいる土手のシーンは、後方に見える鉄橋の形状から、堀切付近に間違いないからね」

真吾は、ビデオの再生ボタンを押した。画面はビデオに切り替わった。信子は一瞬、真吾の方に視線を向けた。
 
――画面は長男の診療所の内部、両親を迎えるため、嫁が部屋の掃除をしているシーン――

「ところで、実際に撮影した駅は何処なの?」と信子が聞いてきた。

「実は、昼間、地図を見たりして調べてみたんだ」

「それで、判ったの?」

「うん。堀切の近くで、土手のそばにあり、踏切の先が鉄橋、という条件にあてはまる駅を見つけたよ。堀切から二キロほど下流にある、八広という京成押上線の駅なんだ。たぶん間違いないと思う。明日、天気が良さそうなので、堀切から八広の辺りを歩いて 確かめて来る」

「あそう……」


[高架になり踏切が無くなった現在の八広駅]

その後、二人で30分ほどビデオを観ていたが、信子の瞼が何度も閉じるのを見て

「眠そうだね、風呂に入って先に寝たら……」

「うん。そうする」信子はソファーから立ち上がり、二階に着替えをとりに上がっていった。

ひとりソファーにもたれ、焼酎を飲みなから、画面を見つめていた。

 ――お化け煙突、荒川土手、鉄橋、踏切、都電の走る町、次男の嫁が住むアパート、上野の山の風景――。白黒の画像が、幼い頃の想い出と重なりあう。
 
遠い昔の懐かしく、心地よい風景……。心引かれる思いを感じていた。


      おしまいです・・・・・・。    
 

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「行司」 は何をする人? そして白鵬 ・十文字

2006年11月14日 | 相撲の話し
九州場所が始まりました。

大関白鵬は怪我で休場。もしかして、これから先は下り坂を転げ落ちて行ったりして。 

先々場所が13勝2敗、先場所が8勝7敗、今場所は休場、来場所は角番です。

本人にとって先々場所の13勝で横綱見送りは、精神的なショックが相当大きなものであった思います。そして、先場所、後半戦が1勝5敗と大きく崩れて、8勝7敗とギリギリの勝ち越し。

そして、今場所は稽古中の怪我で休場。立ち直れたとしても、来年いっぱいはかかるでしょう。もしかして「モンゴルに帰ったりして」・・・それはない。 ナイ・ナイ  

前にも書いたのですが、間違いなく「嫌われてます」協会に、協会は「モンゴルの二人横綱」は絶対に認めたくないのでしょう。間違いなく本人もそのことを判っていますね。

でも、しかしです。日本人の力士で「横綱」を狙えそうな幕内力士はいませんからね。
 

一時、「稀勢の里」に期待したのですが・・・・・・。あの風貌、あの「太々しい土俵態度」が「北の湖理事長」の現役時代に似ていて期待したのですが、強ければ「風貌・態度」はプラスに作用しますが、あの程度の勝ち星では、単に、暗い印象の「華」の無い力士で終わりそうです。

来年が勝負の年でしょう。「おお勝ち」して、一気に波に乗れば「横綱」の芽が出るかも・・・・・・。しかし、このまま、そこそこ勝って、そこそこの負けて、目立たないまま消えていくのかも・・・・・・。

それで、兎に角、今場所は把瑠都に暴れてもらいたい。彼には意外性があり、性格も「明るく」面白そうです。上位を投げ飛ばして活躍してほしい。「おお化け」の予感あり。

兎に角。派手で、華やかで、明るく、楽しい・・・・・・チョット言い過ぎか  まぁ。「高見盛」はもういいです。

日本も、段々貧しくなる傾向にありますから、これからは「期待」できるでしょう。新弟子集めに「腹一杯食える」が売りになる時代はそう遠くない。 

それと、存在感の薄い「十文字」です。応援していたのに、とうとう今場所は十両です。年齢的にも「このまま消えそう」な・・・・・・予感。

   [結婚式の十文字]

何故、地味で目立たない「十文字」なのか?そうなんです。以前に「チャンコ霧島」(裏が陸奥部屋)で  食事 をしたときに、十文字の付け人が「支度部屋」から、わざわざ私たちの為に「サイン」を持ってきてくれたのです。

陸奥部屋は国技館から一番近い相撲部屋です。歩いて5分ほど、両国駅前にあります。


その時の付け人「天心」君は去年の5月場所で引退しました。残念!

      [天心君]

サインを貰うと身近に感じて応援したくなります。もう一度、戻れ幕内

       ガンバレ!!! 十文字    


あッ。それで「行司」なんですが。
あの方は「土俵」の上で何をしているのでしょうか?

「待ったなしっ!」「手を付いて!」と行っても、目の前にいる力士はまったく無視して、「待った」はする「手は付かない」

行司は立ち会いの呼吸を合わせる「役割」があると、聞いたことがありますが、いまは「力士」がお互いに、自分有利の呼吸で立つことだけを考え、合わせることはしません。

その駆け引きの結果、待ったが行われている訳です。立ち会いが「巧い」という意味は、相手を自分の呼吸で立たせる意味になっている。

大横綱「双葉山」は「待った」をしないことで有名でした。相手の呼吸に合わせて立っても勝てるのです。これが真に強い力士の証です。

それで行司ですが、勝敗の最終決定権も、土俵下の「審判」が持っているのですから可哀想です。協会に直接所属している訳ではなく、各部屋に所属している現在の制度の限界というか・・・・・・。

これでは、名前の呼び上げ(呼び出しが先にやってた)、勝負途中で「まわし」が緩んだら「締めて」、「勝ち名乗り」を云うだけ・・・・・・。可哀想 

兎に角、相撲は「興行」であることが「前提」ですから、そう言うことなのでしょう。

『 どういうことなんだ  』 突っ込み禁止 

【興行】客を集め、入場料をとって演劇・音曲・相撲・映画・見世物などを催すこと。  [株式会社岩波書店 広辞苑第五版]

「見世物」時代の悪い「尻尾」を引きずっているのか、それとも伝統としての大相撲の一つの「文化」なのか・・・・・・・難しい。

【今日の結論】
兎に角・・・・・・。兎に角です。行司さんが土俵上にいると「華やかに」なります。
     
            以上で終わり。 





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牛丼屋で会った「おばあちゃん」の話し

2006年11月13日 | 東京の風景
以前に、牛丼屋で遭遇したときの話しなんです。

昼時を少し過ぎた時間に、両国駅の近くにある牛丼屋でカレー(変?)食べました。

その牛丼チェーンは、牛丼の他に、豚丼、生姜焼き、カレー、ハンバーグ、朝定食等、メニューが二十数種類あり『券売機で券を買う』システムになっています。

カレーを食べていると、自動ドァーが開き、お婆ちゃんが店に入って来ました。入って来たと言うよりも、店に迷い込んで来たように見えました。

店の雰囲気とはかなり場違いな、70代も後半と思える品の良いお婆ちゃんです。最近は、牛丼屋に一人で入る女性を見かけるようになったのですが、それでも、お婆ちゃんが一人で入る店ではありません。

見た瞬間に『マズイ』と思ったのです。
お婆ちゃんは店内に入った瞬間、立ち止まり『あれッ』とした表情をして、目だけを動かして、店内を見回していました。

カウンターの席だけでテーブル席はなく、調理場はカウンターの中、そんな店は始めてだったのでしょう。直ぐに壁のメニューを発見し、少し安心したのか、ゆっくりと眺め、そのままカウンターの席に着き『牛丼を一つ。お願いします』と云ったのです。

やっぱり思ったとおりでした。『あー。可愛そう』その瞬間に思いました。

それは、
『あそこの券売機で食券を買って』と店員が冷たく言い放ち、それを聞いて、お婆ちゃんはおろおろしてしまうと思ったからです。

店員の言葉は違っていました
『ハィ。牛丼ですね。少々お待ち下さい』

当然のように注文を受けたのです。カレーを食べながら、事の成り行きを横目で見ていたのですが、一瞬、手が止まり、店員に向かって『偉い』  と心の中で叫びました。

二十代の若者です。多分、田舎には「やさしいお婆ちゃん」が待っているのかなぁ……と想像したりして。

いい気分になりました。美味しいカレーでした。店を出る時、ゆっくりと美味しそうに牛丼を食べている、お婆ちゃんの後ろ姿に 『よかったね』小さい声で呟いていました。

いつもは撮る昼食の写真は忘れてしまいました。 

こんな場面に出会えるから歩くのが楽しいです。 

後で、もしかして接客マニュアルにあるのかも? そう思ったけど、そういうマニュアルはOKです。

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浅草橋立体駐車場の「桂文楽」

2006年11月12日 | 昔の思い出

以前、東京に行ったときのことです。

上野駅で降り、墨田川を目指し浅草橋に向かいました。
この辺りは、何回か歩いたことがあります。その時は黒塀に囲まれた料理屋、柳橋から望む両国橋の写真撮ってきました。



この時、浅草橋から川沿いに出る途中で、懐かしい建物を発見したのです。建物の裏は隅田川で住所は柳橋一丁目です。

入り口の『浅草橋産業会館』の文字を見て、三十七年前の記憶が蘇ったのです。

高校を卒業してすぐに入った会社での出来事です。その会社が作った立体駐車場がここにあるのです。

入社して間もなくの頃、先輩社員に連れられて、定期点検に来たときのことです。
駐車場入り口にある受付の部屋で、先輩が駐車場の操作盤を点検しているのを、傍らで見学していると、馴染み客と駐車場の係り員との世間話が耳に入ったのです。

その係り員の、切れのあるしゃべり方、言葉使い、声の響きが耳に心地よかったのです。
これが『江戸っ子の職人言葉』なのかと思いました。
名人の落語家が江戸っ子の職人を演じているように聞こえたのです。

その人は、五十代の後半で、頭は角刈り? だった気が? 雪駄履きだったのは間違いありません。つま先を浅く入れ、踵とが雪駄からはみ出ていたのを不思議に思った記憶があるのです。

駐車場の点検作業が終わったのが昼時だったので、雪駄履きの粋な係りの人に、近くに食事をする場所はないか聞いてみたのです。

その人が、

 『そこの路地を右に入った先に、小料理屋があるから、昼間は焼き魚とか刺身で、安く喰わしてくれるから、行ってみなよ、美人の女将さんがやっているから』

・・・・・・そんな内容でした。口調がとても「粋」でかっこよかったのです。
 
言われた店に行ってみました。店はカウンターとテーブル席が幾つかある小さな店で、和服姿の女将が一人でやっていました。
その時はかなりおばさんに見えたのですが、いま思うと四十代の前半位だったのでしょう。

髪型、化粧、着こなし、立ち振る舞い、言葉使い、すべてがこれまで見てきた女性とは違っていました。
さすが柳橋と思いました。きっと芸者として、最近までお座敷に出ていた人だと、かってに思い込んだのです。

今まで経験したことのない『花柳界』という『おとなの世界』の妖しい匂いを、ほんの一時、少しだけ嗅いだ気がしたのです。

入り口には「盛り塩」があり、店内は、綺麗に片づけられ、掃除 も行き届き、『小粋』な落ち着いた色調だった気がします。

作業服姿の自分が場違いのようで、落ち着かなかった記憶があります。
何を食べたのか、味はどうだったのか、他に客は居たのか、そういうことは思い出せません。

いまにして思うと、その時が、花柳界に一番接近したときでした。それ以来、今日までまったく縁がありません……。
 
もしかして、当時の店が有るかもしれないと思い、辺りを歩いたのですが、それらしい店は見つかりませんでした。

あの時の、駐車場にいた「おじさん」が、八代目桂文楽のような人だった気がしてきました。記憶の中に、想像が入り込んでしまったかもしれませんが・・・・・・。

落語が聞きたくなりました・・・・・・・・「黒門町の師匠」の話が。
ここはやっぱり、「愛宕山」ですかね。

テープを探そう・・・・・・・・。

コメント (3)
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加賀百万石そして配水塔の弾痕 その4 「王子の狐 」

2006年11月11日 | 東京の風景
続きのはじまりです。

「野方配水塔」を後に、東武東上線「大山駅」の商店街を抜け、板橋の仲宿商店街に入ると、左足の甲が痛みだしたのです。

この日、厚い靴下を履いた為、敷き皮を取り、靴ひもの絞め具合いを変えたのが原因です。歩き始めて4時間、普段も疲れが出る頃です。

仲宿商店街を5分ほど歩いたところで、左折して「王子新道」に入りました。ここで今日の終点を京浜東北線「王子駅」に決定しました。

王子新道が「石神井川」に出る少し手前の公園の入り口で、「東京市」の文字を発見。東京にいる頃に、何度かこの公園の前を、自転車で通り過ぎていたのですが、今回、始めて気が付いたのです。



右から左に「東京市板谷公園」と刻まれています。昭和12年ですから西暦では1937年です。ということは69年前ですね。

手入れがよいせいか、まったく時代を感じさせない表示板。まァ、文字がハッキリしていたので気が付いたのですが・・・・・・・チョット残念。

そばに「開園の由来を書いた説明板」は、時代を感じさせるものでしたが、文字の判読が困難でした。
こんなことがかかれていました。

『 本園附近一帯ハ石神井流域三合野原ノ一部ニシテ寛文年中加賀前田候ノ邸地トナリシヨリ金澤ト呼バレ由來近郊ノ閑地タリシカ昭和十一年五月土地区画整理の際シ所有者板谷宮吉氏ハ此地千六百餘坪ヲ公園地トシテ寄付セラレ乃チ本園ノ完成ヲ見ルニ至レリ茲ニ開園ニ際し園地ノ來由ヲ記シ以テ寄贈者ノ芳志ヲ永ク後世ニ傳フ
昭和十二年四月  東京市 』

この辺りは、加賀藩の下屋敷があった場所で、「加賀」の地名や、金沢橋、金沢小学校など、関連する名前が残っています。しかし、この「板谷宮吉」さんて「誰?」 加賀藩との関係は?

帰宅後、ネットで調べると、北海道小樽の「海運王」で、銀行も傘下に持つ大財閥で、初代は1924年に他界、寄贈したのは2代目でした。地元の小樽では学校などいろいろと寄付をしていて有名人でした。

初代が日清・日露の戦争で財を成し、「二代目はクリスチャン(冗談)」ではありませんでしたが、二代目以降は下降線を辿ったようで・・・・・・。寄贈した時期が頂点だったようです。特に加賀藩との繋がりは見つかりませんでした。


それで、板谷公園を通りすぎ、足の痛みに耐えながらら、石神井川沿いの遊歩道をピッチを上げて歩きました。

早く王子駅に辿り着き、早く電車に乗って帰りたい。家に着いたら、風呂に入って早くビールを飲み干したい・・・・・・。

いつものパターンです。後半は周りの景色を見る余裕が無くなり、ひたすら歩くだけになってしまいます。

川沿いの遊歩道が終点に近づき、音無橋の下「音無親水公園」を通りすぎ、王子駅前にでました。

駅前にある。落語「王子の狐」の舞台になった「扇屋」で写真を一枚。

扇屋さんは、卵焼で有名な店で、一度は味わって見たいと思っているのです。こういう店は一人で入ると寂しくなるのです。

今度、桜の咲く頃に、配偶者を誘って食べに来たいと思いつつ、前を通り過ぎました。その時は、三ノ輪橋から都電です。

写真は一階の売店です。店はこのビルの三階にあります。

今回は歩きました。巣鴨で降りて王子まで、今回もいろいろ発見でき面白かったです。写真は300枚以上撮りました。これから調べたりする、楽しいネタもいろいろ発見できました。

   ここまでおつき合いしてくれた方 『ありがとう』 

     これからも、読んで下さいね!  
    

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