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ひろさちや・著“ひろさちやの「最澄」を読む” を読んで

内閣府が15日に発表した2023年の名目GDPはおよそ591兆4820億円となり、ドルベースで換算すると日本はドイツに抜かれ、世界3位から4位へと転落した、という。
一方16日には、日経平均株価は大幅続伸で過去最高値に迫ったと騒いだ。
さらに、国会では派閥の政治資金パーティーをめぐる問題を受けて、国会では政治倫理審査会の開催に向けた検討がなされているという。いつまで経っても小学校の児童会のような動きで、“○○○君のやっていることは良くないとおもいます。”の議論ばかり。国家の政策、国家戦略が問われている時期にこのような“審議”に貴重な時間を空費している。何か別の機関を設けて、そこでやるべきことのような気がするが、いかがだろうか。



さて、今回は“ひろさちや氏”に戻って最澄に関する本を読んだので紹介したい。これも書店(正直言ってBook Dff)の宗教セクションで見つけて、空海のライバル最澄を知るべく読むことにして、買った次第だ。申し訳ないが、空海を知るために読もうとした訳だ。読んでみてやっぱり、ただものではない偉人であると理解できた。

【出版社内容情報】
すべての人を「仏の子」と見る理想主義者・最澄がめざしたのは、わが国最初の在家中心の仏教だった――。その生涯を辿りながら、幽谷の比叡山で確立された『法華経』に基づく教えを新たな視点で読み解く、最澄入門の決定版。

【内容説明】
「われ衆生と共に歩まん」安心への道案内“最澄入門”。「忘己利他」に学ぶ菩薩の心。

【目次】
第1章 われ衆生と共に歩まん
第2章 天台開宗へ
第3章 一乗仏教
第4章 最澄と空海
第5章 徳一との論争
第6章 一隅を照らす人は国の宝

【著者等紹介】ひろさちや[ヒロサチヤ]
宗教評論家。1936年、大阪府生まれ。東京大学文学部印度哲学科卒業、同大学院印度哲学専攻博士課程修了。1965年から85年まで、気象大学校教授。現在、大正大学客員教授をつとめるかたわら、宗派を超えた仏教徒の会「まんだらの会」を主宰する。著書に『仏教の歴史(全10巻)』(春秋社)、『釈迦とイエス』(新潮社)、『わたしの「南無妙法蓮華経」』『わたしの「南無阿弥陀仏」』『ひろさちやの「親鸞」を読む』(以上、小社刊)ほか多数ある。


著者は“まえがき”で次のように言う。
人名はたんなる符牒のように見えるがそうではない。“人名という記号が、あんがいにその人の存在を意味づけてしまうのかも”しれない。―最澄―“これは「最も澄める人」と読める。”そして“最澄はその名の通り最も澄める人”であった。“彼は仏教の大道を、何の邪念もなく、虚心坦懐に、淡々と歩み続け”た。“そして死後に贈られた―伝教大師―の諡は、彼の生涯の事績をよく表して”いる。“彼は日本人に真実の教えを伝えてくれた”。“彼の伝えてくれた教えの灯は、いまも彼が開いた比叡の山に赫々と燃え続けて”いる。“彼の教えは、千二百年ものあいだ、日本人の心を照らし続けてくれた”。
と、最澄の名前からその人となりを紹介している。そう結構、名前はその人となりを表していると私も納得できる。
そして、同時代の偉人たる空海に言及するが、最澄は密教の道をあきらめ、大乗仏教の道を究めたと評している。そして“それがよかった”という。“最澄が、(修行の道・方法論を残してくれて)一歩一歩仏に近づいていく大乗仏教の大道をしっかり整備してくれたおかげで、その大乗仏教の大道をしっかりと学べる修行の場を比叡山に設立してくれたおかげで、後世、比叡山から多くの仏教者・仏教思想家が輩出した”、と指摘する。
“最澄は日本仏教の最大の恩人”だと賛辞をおしまない。

第一章“最澄の願い”で、最澄が“比叡山にこもってすぐに『願文』を書いている”と指摘し、“この願文が最澄の思想を読み取るときの一つの出発点になる”と言い、紹介している。この“願い”には、“自分の利益をねがう―自利の願い”と他人のための“利他の願い”の二つがあり、“自利の願いを立てて行う修業には「業」という字”を使い、“利他の願いを起こして行う修行には「行」という字”を使うのだ、という説明が入る。
仏教の基本的願いとして、“四弘誓願(しこうせいがん)”があると言いその内容を紹介している。
“衆生無辺誓願度・・・・数限りない衆生を悟りの彼岸に渡したいという誓願
煩悩無尽誓願断・・・・尽きることのない煩悩を滅しようという誓願
法門無量誓願学・・・・量り知れないほど深い仏教の教えを学びとろうという誓願
仏道無上誓願成・・・・無上の悟りを成就したいという誓願”
仏教の僧にはこの四弘誓願が基本にあり、普通、仏教徒はそれ以外に自分の特別な願いをもち、それを別願(べつがん)という。
ここで特に、法門無量誓願学では“八万四千の法門”つまり無尽の教えの入り口があると言い、その“ありとあらゆる入り口を勉強することが「法門無量誓願学」”であると言う。そこで最澄の言葉“一目の羅は鳥を得ることあたわず”(『天台法華宗年分縁起』)を紹介している。これは“網目(羅)が一つだけだったら鳥は捕れない”という意味。“実際に鳥を捕るのはたった一つの網目かもしれないが、網目が一つでは網の役を果たさない”ことを言っている由。一つのお経だけをお勉強しても駄目、ということ。
“四弘誓願”最後の仏道無上誓願成は、仏道修行にはこれで終わりはない、ということ。つまりは“ゴールに入ってはいけない”ことである、と。

そして最澄の比叡山に入る前の願文の説明に入る。五つの願いがあった。その内の一つに“わたしの六根が仏陀と同じく清浄にならないあいだ(仏陀と同じ境地に達しないあいだ)は、世間に出て活躍しない”というのがあった。“のちに最澄は世の中に出て活躍することになるので、「では、最澄は仏陀と同じ境地に達したのか?」という疑問が提出されることになった”。これに対し、著者の解釈は、“わたしたちが願いを立てるときには、同時に願いそのものに執着してもいけない”ということ。初心者の願いが正しいのかどうか、スタート時点ではわからない、“修行を始めてみて、少し歩むことでやっと分かる”ということだろう、と。願いに執着すれば強欲も生まれ、他人を犠牲にすることもいとわなくなる恐れを生むこともある。逆に、修行でつかむことができたことがあったら“「そのつかんだ分だけでもどうして人に教えないのか。人々に教えることによってはじめていっしょに歩める」と考えが変わっていく”。“そしてそこから三も四もと次々に進めていくことになる”。“自分が全部悟ってからではだめ”ということに気付くのが大事なのだという。“自分というものには何も執着しない”と言っているという。
“つまり、最澄は仏教の本質である―一番大事なものが誓願である―に気が付いた初めての仏教者”だという。ここにおいて、最澄は“逆に出家の世界からもう一度出家し、「在家」に戻ったのかもしれない”とも著者は言っている。“みんなとともに歩む仏教”に気付いた、“お釈迦様の本来の意味に戻った仏教者として最澄を位置付けてもいい”とも言うのだ。

桓武天皇は最澄に目を付け、一宗一派の宗祖から直々のマジカル・パワーを得るために、最澄に一宗を開けと命じる。これに対し、最澄は天台教学を学ぶために唐に行きたいと言って遣唐使となって入唐する。最澄は一乗仏教に基づく宗派設立を考えたという。
帰日した最澄は既に病にあった桓武帝を密教で祈祷したら、桓武帝は密教にすっかりほれ込んだという。ここで天台教学を持ち込んだつもりの最澄とのすれ違いが生じたが、天台開宗の勅許は得たのち、桓武帝が崩御される。

比叡山に天台宗の拠点を開いたが、目指したのはやはり法華経に基づく一乗仏教だった。“それまではお釈迦さまは小乗仏教で声聞と縁覚を導き、大乗仏教にいたって菩薩の道を示された”。声聞とはお釈迦さまの声を直接聞いた直弟子のことであり、縁覚とは、師なくして独りで悟りを開くがそれを人に説こうとはしない者をいう。それに対し“大乗仏教は自分一人の悟りではなく、みんなでいっしょに大きな船に乗って悟りの岸に渡ろうという宗教”である。“こういう精神にのっとって悟りを求める人を「菩薩」”という。“『法華経』では、・・・その両者を超えた「一乗仏教」の立場”である。“みんな一つの教え―一乗―なのだ”。最澄がめざしたみんなで一乗とは、出家をも在家をも超えた「在家仏教」だとの論理的帰結にいたると著者は言う。“一乗仏教とは在家のための仏教である”と。
在家には「戒」は不要となる。逆に在家で「戒」を受ければ生きていけなくなる。だから在家のための仏教である比叡山の大乗戒壇では出家主義の二百五十戒を受けることはなくなった。
“『法華経』に、「一仏乗のみ教える。・・・」とあるが、一仏乗と菩薩乗と同じと考えれば、「菩薩のみを教える」”となる。“それこそが最澄の実践してきたこと”であり、天台教学のありかたはそこにある。

最澄と空海の“仏教観の違い”をこの本では次の図で端的に説明している。違いはほぼこの説明で尽きるのではなかろうか。



著者は“密教の特色を「法身仏説法」” と呼び、“肉体を持ったお釈迦さま(色身仏あるいは応身仏:生身の生きた仏)の説法を聞くのが顕教”であると説明している。『法華経』に―未曾暫廃(みぞざんぱい)―という言葉がある。“久遠実成の仏は少しも休むことなく法を説き続けているという意味”だ。“空海はここに目をつけている”が、しかし“最澄はあまりそこに着目”しなかったと解説している。
そして、密教のお勉強に3年かかると空海に言われた最澄は弟子の泰範に学ばせると言い出し空海の不興を買ってしまう。そして泰範の身柄の取り合いとなるが、泰範が比叡山に戻るのを嫌がり、泰範の最澄への返信を空海が代筆するに及んで絶縁となる。
だが、後世に比叡山から偉人を多数輩出している。良忍、法然、親鸞、栄西、道元、日蓮など。だが高野山からは誰一人後継者は出なかった。その上、例えば、“道元は明らかに「法身仏説法」を聞いた人間”だという。“禅では、―不立文字―”といい、“禅は言語を越えた教え”だという。“つまり、これは法身仏説法ということ”なのだと。
だが、最澄が空海の密教に飛び込め、との誘いに応じていれば、日本の仏教はどうなったのか、興味は尽きない。

次に第5章に“徳一*との論争”を解説している。

*平安初期の法相宗の僧。徳溢・得一とも書く。藤原仲麻呂(恵美押勝)の子といわれる。興福寺の修円に学び、東大寺に住したが、のち東国に流され、筑波山に中禅寺、会津に慧日寺を開創。三乗真実一乗方便の説を立てて最澄の法華一乗の説を厳しく批判したことは有名。著に「中辺義鏡残」「法相了義燈」など。生没年不詳。

これは、モノや人の「本性」を見るのか「(現在の)状態」を見るのかの論争であった、としている。大乗仏教では一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう:生きとし生けるものはみな仏性を有している)という考えに基づいていた。一方、法相宗(徳一)は無種性(「悟りをひらけないもの」もいる)という現実論であった。つまり、“いま現実にある善人・悪人の差をどう見るか。”の問いかけである。
これを著者はフランス憲法とドイツ憲法の差に比較して説明している。ドイツ憲法では“この憲法を壊そうとする勢力にまで憲法の権利を保障したら”意味がない、だからそういう人間には権利を保障しないと規定している。しかし、フランス憲法ではこの憲法を否定するものに対しても権利を保障すると言っている。徳一はドイツ憲法のように現実主義なのだ。
だが、大乗仏教では輪廻して別の存在に転生するので、仏になれる可能性が出てくる。徳一もそのことは分かってはいるが、現実にいま仏の道―菩薩の道―を歩もうとしないものをどのように歩ませるか、その手段が問題だと言っている。

だが最澄は空海と対立するとき、理想論を捨て徳一のような現実論に立場を変えるかのように見える。こうして話が混乱気味になっていく。
結局のところ、“仏子であれ”と言わなくても、初めから“仏の子”ではないのか、と。何だか空海を盾にはぐらかされているような気がする。

この本の最後の第6章には最澄の残した言葉を紹介しているが、ここでは特に、“「二百五十戒」はなぜ残ったか”という項を掲げて、戒の残った訳をお釈迦さまのエピソードで説明している。(但し、公式には最澄は大乗戒壇で放棄している。)
お釈迦さまが侍者である阿難(アーナンダ)に向かって次のように遺言された。「わたしが亡くなったあとは、小々戒―細々した戒律―はすべて廃止してよろしい」と。のちに経典編纂会議でお釈迦さまが制定された戒をまとめようとしたとき、阿難が言われたことを証言した。するとその時のリーダー・摩訶迦葉が驚いて阿難に「細々した戒とはどの戒なのか」と問いただした。ところが阿難は「聞いていない」と答えたので、どれを廃止すべきか議論したが決まらない。そこで「二百五十戒」は残すが、これ以上付け加えないこととした、という話だ。
ところで、お釈迦さまは亡くなる前に、“自灯明、法灯明(自分を灯明とし、法を灯明とせよ)”とも仰ったという。“要するに、二百五十ある戒律の中で、どの戒を守るのかは自分で決めれば良い”ということである。自分で判断して守れというのがお釈迦さまの基本的態度だ、ということである。
但し、教理は結構ややこしくて錯綜して理解が部分的に不十分なままではある。

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