The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
“大阪都構想”の是非・その後
先週の日曜の晩はハラハラしながら“大阪都構想”に関するNHKの開票速報を見守っていた。当初は賛成票多数でガッカリしていたが、結果は反対票がわずかに上回って“都構想”は否決されホッとした。大阪市民ではないので他人事のはずだが、人生の初めの一時期市民であったので冷静には思えなかったのだ。
その上 大阪の問題は、ある意味で日本人誰しものホーム・タウンの問題でもあり、単なる一地域の都市自治体の問題ではない。メガロポリスの連なりで日本列島が出来上がっていると考えれば、それは日本の国家のありようそのものの問題でもある。従い都市政策を誤れば、それは即ち日本全体の国家政策をあやまるのと同じことなのだ。日本の国家百年を考察するとき、このような視点は欠かせないはずだ。
その上、都市自治は民主主義の基礎であるからには、日本の民主主義そのものが問われていることになるのだ。そういう重要な問題であることに気付いていない政治学者や社会学者がほとんどのような気がするがどうだろうか。
そう思って、大阪の住民投票前に記事を投稿したつもりだったが、大阪以外の地域の人々の関心を集める力にはならなかったようだ。しかし、それでもマスコミには多少は そんなセンスというか嗅覚が未だ多少残っていたようで、先週の日曜の晩のテレビ番組は少しは揺れたように感じた。それとも在阪各テレビ局のローカル番組を見ていた関西人だけのことだったのだろうか。
前々回言ったことで繰り返すが、都市にはそれぞれその存立の歴史的背景がある。そしてその歴史的背景の中に、その都市の存在理由と意義・価値が見てとれるものである。取り分け、大阪市は日本の歴史において東京よりはるかに重厚な歴史的背景を有していて、日本社会に重要な役割を果たして来た。そして地政学的に見ても、その存在価値は現在も失われているとは見えない。むしろ、これを衰退させることは日本全体を衰退させることと同じようなことではないかと思えるのだ。何故ならば、それは東京一極集中政策の結果だからだ。中央政府が膨大な権限を手にしたまま、小手先で“地方創生”を免罪符のように言い募るのは止めた方が良い。リスク論から言っても、東京一極集中は国家的に好ましい政策とは言えないはずだが、一向に改まらない。
そういう“自治都市”に対し、大阪府のような都道府県庁は 強固な自治機構を構成できない人口のまばらな地域の政治的空白を埋めるための補完的な仮の機構である。つまり、中央集権のための人為的・政治的な補完機構と考えられる。或いは歴史的に見れば、通信・移動手段の未発達のために生じた封建制をそのまま近代的に衣替えした機構と考えても良い。明治期に実施された廃藩置県はそれを端的に示している。そして、そこには自然な形での自治は存在しない。国会議員の選挙と同じような感覚での、都道府県会議員の選出でしかないが政治的影響は小さいので選挙民の意識は低い。市町村議員のような身近さは感じられないのであり、それは“自治”からは程遠い存在なのだ。
このように“自治”という観点から見た場合、大阪市の方が大阪府よりはるかに存在意義或いは価値は大きい。それにもかかわらず、“大阪都構想”は大阪市を解体し府を強化するための政策であった。これは都市の歴史的意義を無視し、自治を破壊して中央集権を強化するための政策に他ならない。
都市自治の破壊は、民主主義の抑圧につながりかねない。むしろ維新派の本命はこちらだったのだろうか。
何せ橋下氏は地方自治体の長でありながら、国旗・国歌を重要視するような国家主義者だ。府立高校の教諭が卒業式に起立し国歌斉唱しなかったことを服務規律違反として処分した。国旗・国歌法成立時は時の官房長官は“この法律で罰せられることはない。”と明言していたにもかかわらず、処分され、司法は何故かこうした処分を正当化する判決を出している。国民の個人的良心や内面さえも侵害する行為だ。日本のリベラリズムはこの時を期して衰亡が始まったと言ってもよいのではないかと思っている。
閑話休題。“大阪都構想”に話を戻そう。
“構想”に僅かであっても反対が多かったということで一先ずホッとしているが、投票時の出口調査の結果、高齢者の反対が多かったということが、少々残念である。そこには、“今まで育った大阪市が無くなるのは悲しい。”という過去への郷愁や、“無料パスが無くなる。”という目先の利害という感情に左右されたのではないかという懸念が漂うからだ。 もっと論理的で理性的な判断での否決であって欲しかったのだが、実態はどうであろうか。
それに高齢者に未来を制せられるというのも問題が多いような気もする。賛成票を投じた若者から、そのような声が上がっているということも聞いている。だが、もしそれほど賛成し実現させたいと思うなら、もっと賛成する若者を結集させる努力が必要だったではないか。
しかし、何故 賛成する若者が居るのか私には分からない。現状のままでは良くならない、というのは当然のこととしても、選択肢によっては“悪くなる”こともあり得るので、そういうことへの警戒心があまりにも希薄ではないかという気がするのだ。どうでも良いから現状を変えて欲しい、というのはあまりにも刹那的である。ある見方をすれば、戦前はそういう意識に押されて戦争に突き進み、日本は破滅したからだ。当時の“現状を変える”という革新官僚の台頭と軍部の連携が、人々を戦争へ駆り立てる“空気”を醸成したのは事実だ。そういう歴史的事実をしっかりと認識して対処して欲しいのだ。
“悪くなる”可能性、それは提唱者が信頼できるリーダーかどうかで見極めることが一つの方法だろう。信頼できる人物かどうかを見定める基準の一つ、それは“integrity”だと私は考えている。経営学者ドラッカーも経営者に必要な資質として挙げている。ISO9001でもシステムには必要なことと要求していて、それは“完整性”と呼んでいる。一般的な英和辞書では1. 高潔,誠実,清廉.、2. 完全な状態,無傷.、という訳語が付いているが、これではその真意はさっぱり伝わらない。
この真意は、“芯がしっかりしていて、ブレないこと”であると私は考えている。“芯がしっかりしていて、ブレない”結果として“高潔,誠実,清廉.”であり、“完全な状態,無傷”なのであり“完整性”が保証されるのである。
この“integrity”基準で、“大阪都構想”の提唱者・橋下氏を見た場合、どうだろうか。
まずは、“都構想”の出発点だったはずの“府市二重行政”はどうであったろうか。住民投票時点では下表のものが“二重行政”だとの指弾を受けるものとなっていたが、この程度のものか、と思わせるものに変化している。だから、維新側はバブル時に踊った府市両者の大規模投資をあげつらっていたようだが、これは問題のスリ替えである。府市統合の結果、もっと大きな大規模投資をする無駄の可能性があるからだ。この問題の根本は何故バブルに踊らされたのか、にあるのであって“二重行政”が本質問題ではない。主張が変化するところに“integrity”はあるのだろうか。
また前々回も指摘したが、“維新”派は当初年間4000億円節約可能と言っていたが、府市で調査検証したところ155億円となり、直近の議会答弁では1億円にまで減額してしまったことは良く言われていたことだ。主張や認識事実が変化するのは、“integrity”基準では最悪である。
中には、どうしても当初の目論見は外れることもあるかも知れない。ならば“維新”派は何故そうなったのか真摯に反省し説明する必要があったが、そのようなことはせず、不都合なことは隠したままであった。不都合な真実は説明せず隠すのは、消極的にウソをついているのと同じで誠実性には欠ける。もしこの点を認め反省すれば、“大阪市解体”の必要性がなくなるという本質に直面してしまうことになっただろう。しかし敢えて、それを率直に認めて撤回するべきではなかったか。それが“integrity”に順じる行為ではないか。その後の無用な混乱を長引かせただけではなかったか。
しかも、大阪府の累積債務は2008年橋下知事誕生以降も、どういう訳か単調増加している。ところが大阪市の累積債務は関市長の2005年以降平松市長時代も含めて、逆に順調に削減されて来ている。この不都合の真実についてもあまり語られず隠蔽された。これからは橋下氏の主張“大阪市はけしからん”という台詞は理解できない。
橋下氏は弁護士としての知識・経験を活かしての政界進出だったはずだが、その政治的判断に時として法曹家としての常識を疑うものが多々あった。国家斉唱に従わない教諭に対する処分もそうだが、従軍慰安婦問題に絡む舌禍もあった。大阪市職員の労組活動への容喙に対し中労委が不可との裁定を下し、橋下氏自身も甘受することもあった。このようなことは市井の人々を法禍から守るべき真摯な弁護士としては考えられないことのように思う。
また人は、その周囲に集まる人々によっても評価されるものだ。しかし、橋下氏の場合 その周囲に集まった人々には不祥事が絶えなかった。不祥事の百貨店のようだった。橋下氏が大の“お友達”として招請した大阪府の教育長は醜聞の塊だったが、御本人は害悪をまき散らしながらもその地位に連綿とした。公募した区長や公立学校の校長も不祥事が相次いだ。しかも、維新塾に応募した3千人から選んだはずの維新派のチルドレンも、選りすぐりのポンコツ揃いだった。あたかも“類は友を呼ぶ”を地で行った観がある。特異な主張で世間の耳目を集めた橋下氏の下に、これで一旗揚げようと目論む変な輩の総結集であったと言えるのではないか。
つまるところ、橋下氏は奇矯な発言で注目される いわゆるトリック・スターであり、怪しい点が多いのだ。欧米ならば信頼できない人物として、とっくに政治生命を失っていたはずの人物ではないか。そもそも彼は政界に打って出る時、その可能性は“2万%ない”と断言していた。だから、今回の“引退宣言”もウソと見て良いであろう。政界のプロは誰しもそう見ている。逆風の今、彼はこのままその地位にとどまっていれば評判は落とすばかりであり、弱みを見つけたマスコミもそれに乗じて叩いて来るのは必至と見ての、期を見るに敏な一時撤退であろう。ほとぼりが冷めれば、復活意志は十分にある。
しかしもし、このような人物が政治生命を復活させるようでは、非常に残念だが日本人の政治感覚は相当に酷いレベルであると言えよう。こういう人物にかき乱される日本は政治的に時間を浪費するだけであって、何の効用ももたらさない。
或いは、日本人は“人物”を見極める能力に欠けるのかも知れない。歴史を振り返ると、日露戦争以前はかなりの日本人に“人物”を見極める能力はあったように思えるが、それ以降は学歴しか見ない等、本筋とは異なる部分で人物評価する風潮に染まってしまって来たように思う。その結果、選挙で選ばれるべき政治家もつまらない基準で選んで来たのではないか。
特に大阪にはこうした東京的権威を折り紙にした人物評を嫌う余りか、政治家にトリック・スターを好む傾向にあり、幾度も混乱と停滞を招く失敗を経験しているが、一向に懲りない。俗に“「お笑い」百万票”とも言われる。これも大阪の衰退の一因となっているのかも知れない。
こういう日本の政治的風土が閉塞状況を生みだしている要因の一つなのかも知れない。しかし、こういう状況をどのようにして打開するべきか、つかみどころがない空気感のことなので、私には分からない。だが、日本復活に残された時間は短く、非常に残念なことである。
その上 大阪の問題は、ある意味で日本人誰しものホーム・タウンの問題でもあり、単なる一地域の都市自治体の問題ではない。メガロポリスの連なりで日本列島が出来上がっていると考えれば、それは日本の国家のありようそのものの問題でもある。従い都市政策を誤れば、それは即ち日本全体の国家政策をあやまるのと同じことなのだ。日本の国家百年を考察するとき、このような視点は欠かせないはずだ。
その上、都市自治は民主主義の基礎であるからには、日本の民主主義そのものが問われていることになるのだ。そういう重要な問題であることに気付いていない政治学者や社会学者がほとんどのような気がするがどうだろうか。
そう思って、大阪の住民投票前に記事を投稿したつもりだったが、大阪以外の地域の人々の関心を集める力にはならなかったようだ。しかし、それでもマスコミには多少は そんなセンスというか嗅覚が未だ多少残っていたようで、先週の日曜の晩のテレビ番組は少しは揺れたように感じた。それとも在阪各テレビ局のローカル番組を見ていた関西人だけのことだったのだろうか。
前々回言ったことで繰り返すが、都市にはそれぞれその存立の歴史的背景がある。そしてその歴史的背景の中に、その都市の存在理由と意義・価値が見てとれるものである。取り分け、大阪市は日本の歴史において東京よりはるかに重厚な歴史的背景を有していて、日本社会に重要な役割を果たして来た。そして地政学的に見ても、その存在価値は現在も失われているとは見えない。むしろ、これを衰退させることは日本全体を衰退させることと同じようなことではないかと思えるのだ。何故ならば、それは東京一極集中政策の結果だからだ。中央政府が膨大な権限を手にしたまま、小手先で“地方創生”を免罪符のように言い募るのは止めた方が良い。リスク論から言っても、東京一極集中は国家的に好ましい政策とは言えないはずだが、一向に改まらない。
そういう“自治都市”に対し、大阪府のような都道府県庁は 強固な自治機構を構成できない人口のまばらな地域の政治的空白を埋めるための補完的な仮の機構である。つまり、中央集権のための人為的・政治的な補完機構と考えられる。或いは歴史的に見れば、通信・移動手段の未発達のために生じた封建制をそのまま近代的に衣替えした機構と考えても良い。明治期に実施された廃藩置県はそれを端的に示している。そして、そこには自然な形での自治は存在しない。国会議員の選挙と同じような感覚での、都道府県会議員の選出でしかないが政治的影響は小さいので選挙民の意識は低い。市町村議員のような身近さは感じられないのであり、それは“自治”からは程遠い存在なのだ。
このように“自治”という観点から見た場合、大阪市の方が大阪府よりはるかに存在意義或いは価値は大きい。それにもかかわらず、“大阪都構想”は大阪市を解体し府を強化するための政策であった。これは都市の歴史的意義を無視し、自治を破壊して中央集権を強化するための政策に他ならない。
都市自治の破壊は、民主主義の抑圧につながりかねない。むしろ維新派の本命はこちらだったのだろうか。
何せ橋下氏は地方自治体の長でありながら、国旗・国歌を重要視するような国家主義者だ。府立高校の教諭が卒業式に起立し国歌斉唱しなかったことを服務規律違反として処分した。国旗・国歌法成立時は時の官房長官は“この法律で罰せられることはない。”と明言していたにもかかわらず、処分され、司法は何故かこうした処分を正当化する判決を出している。国民の個人的良心や内面さえも侵害する行為だ。日本のリベラリズムはこの時を期して衰亡が始まったと言ってもよいのではないかと思っている。
閑話休題。“大阪都構想”に話を戻そう。
“構想”に僅かであっても反対が多かったということで一先ずホッとしているが、投票時の出口調査の結果、高齢者の反対が多かったということが、少々残念である。そこには、“今まで育った大阪市が無くなるのは悲しい。”という過去への郷愁や、“無料パスが無くなる。”という目先の利害という感情に左右されたのではないかという懸念が漂うからだ。 もっと論理的で理性的な判断での否決であって欲しかったのだが、実態はどうであろうか。
それに高齢者に未来を制せられるというのも問題が多いような気もする。賛成票を投じた若者から、そのような声が上がっているということも聞いている。だが、もしそれほど賛成し実現させたいと思うなら、もっと賛成する若者を結集させる努力が必要だったではないか。
しかし、何故 賛成する若者が居るのか私には分からない。現状のままでは良くならない、というのは当然のこととしても、選択肢によっては“悪くなる”こともあり得るので、そういうことへの警戒心があまりにも希薄ではないかという気がするのだ。どうでも良いから現状を変えて欲しい、というのはあまりにも刹那的である。ある見方をすれば、戦前はそういう意識に押されて戦争に突き進み、日本は破滅したからだ。当時の“現状を変える”という革新官僚の台頭と軍部の連携が、人々を戦争へ駆り立てる“空気”を醸成したのは事実だ。そういう歴史的事実をしっかりと認識して対処して欲しいのだ。
“悪くなる”可能性、それは提唱者が信頼できるリーダーかどうかで見極めることが一つの方法だろう。信頼できる人物かどうかを見定める基準の一つ、それは“integrity”だと私は考えている。経営学者ドラッカーも経営者に必要な資質として挙げている。ISO9001でもシステムには必要なことと要求していて、それは“完整性”と呼んでいる。一般的な英和辞書では1. 高潔,誠実,清廉.、2. 完全な状態,無傷.、という訳語が付いているが、これではその真意はさっぱり伝わらない。
この真意は、“芯がしっかりしていて、ブレないこと”であると私は考えている。“芯がしっかりしていて、ブレない”結果として“高潔,誠実,清廉.”であり、“完全な状態,無傷”なのであり“完整性”が保証されるのである。
この“integrity”基準で、“大阪都構想”の提唱者・橋下氏を見た場合、どうだろうか。
まずは、“都構想”の出発点だったはずの“府市二重行政”はどうであったろうか。住民投票時点では下表のものが“二重行政”だとの指弾を受けるものとなっていたが、この程度のものか、と思わせるものに変化している。だから、維新側はバブル時に踊った府市両者の大規模投資をあげつらっていたようだが、これは問題のスリ替えである。府市統合の結果、もっと大きな大規模投資をする無駄の可能性があるからだ。この問題の根本は何故バブルに踊らされたのか、にあるのであって“二重行政”が本質問題ではない。主張が変化するところに“integrity”はあるのだろうか。
また前々回も指摘したが、“維新”派は当初年間4000億円節約可能と言っていたが、府市で調査検証したところ155億円となり、直近の議会答弁では1億円にまで減額してしまったことは良く言われていたことだ。主張や認識事実が変化するのは、“integrity”基準では最悪である。
中には、どうしても当初の目論見は外れることもあるかも知れない。ならば“維新”派は何故そうなったのか真摯に反省し説明する必要があったが、そのようなことはせず、不都合なことは隠したままであった。不都合な真実は説明せず隠すのは、消極的にウソをついているのと同じで誠実性には欠ける。もしこの点を認め反省すれば、“大阪市解体”の必要性がなくなるという本質に直面してしまうことになっただろう。しかし敢えて、それを率直に認めて撤回するべきではなかったか。それが“integrity”に順じる行為ではないか。その後の無用な混乱を長引かせただけではなかったか。
しかも、大阪府の累積債務は2008年橋下知事誕生以降も、どういう訳か単調増加している。ところが大阪市の累積債務は関市長の2005年以降平松市長時代も含めて、逆に順調に削減されて来ている。この不都合の真実についてもあまり語られず隠蔽された。これからは橋下氏の主張“大阪市はけしからん”という台詞は理解できない。
橋下氏は弁護士としての知識・経験を活かしての政界進出だったはずだが、その政治的判断に時として法曹家としての常識を疑うものが多々あった。国家斉唱に従わない教諭に対する処分もそうだが、従軍慰安婦問題に絡む舌禍もあった。大阪市職員の労組活動への容喙に対し中労委が不可との裁定を下し、橋下氏自身も甘受することもあった。このようなことは市井の人々を法禍から守るべき真摯な弁護士としては考えられないことのように思う。
また人は、その周囲に集まる人々によっても評価されるものだ。しかし、橋下氏の場合 その周囲に集まった人々には不祥事が絶えなかった。不祥事の百貨店のようだった。橋下氏が大の“お友達”として招請した大阪府の教育長は醜聞の塊だったが、御本人は害悪をまき散らしながらもその地位に連綿とした。公募した区長や公立学校の校長も不祥事が相次いだ。しかも、維新塾に応募した3千人から選んだはずの維新派のチルドレンも、選りすぐりのポンコツ揃いだった。あたかも“類は友を呼ぶ”を地で行った観がある。特異な主張で世間の耳目を集めた橋下氏の下に、これで一旗揚げようと目論む変な輩の総結集であったと言えるのではないか。
つまるところ、橋下氏は奇矯な発言で注目される いわゆるトリック・スターであり、怪しい点が多いのだ。欧米ならば信頼できない人物として、とっくに政治生命を失っていたはずの人物ではないか。そもそも彼は政界に打って出る時、その可能性は“2万%ない”と断言していた。だから、今回の“引退宣言”もウソと見て良いであろう。政界のプロは誰しもそう見ている。逆風の今、彼はこのままその地位にとどまっていれば評判は落とすばかりであり、弱みを見つけたマスコミもそれに乗じて叩いて来るのは必至と見ての、期を見るに敏な一時撤退であろう。ほとぼりが冷めれば、復活意志は十分にある。
しかしもし、このような人物が政治生命を復活させるようでは、非常に残念だが日本人の政治感覚は相当に酷いレベルであると言えよう。こういう人物にかき乱される日本は政治的に時間を浪費するだけであって、何の効用ももたらさない。
或いは、日本人は“人物”を見極める能力に欠けるのかも知れない。歴史を振り返ると、日露戦争以前はかなりの日本人に“人物”を見極める能力はあったように思えるが、それ以降は学歴しか見ない等、本筋とは異なる部分で人物評価する風潮に染まってしまって来たように思う。その結果、選挙で選ばれるべき政治家もつまらない基準で選んで来たのではないか。
特に大阪にはこうした東京的権威を折り紙にした人物評を嫌う余りか、政治家にトリック・スターを好む傾向にあり、幾度も混乱と停滞を招く失敗を経験しているが、一向に懲りない。俗に“「お笑い」百万票”とも言われる。これも大阪の衰退の一因となっているのかも知れない。
こういう日本の政治的風土が閉塞状況を生みだしている要因の一つなのかも知れない。しかし、こういう状況をどのようにして打開するべきか、つかみどころがない空気感のことなので、私には分からない。だが、日本復活に残された時間は短く、非常に残念なことである。
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