何だか知らない間にブログに「ジャンル」何て言う新カテゴリーが登場していますね。選択が必須らしいんですけど、試しに見てみると 「社会」「文化」とか、「映画」「アニメ」「ドラマ」とか、30くらいの細目がずらりと並んで、その中から選ぶようになっています。なるほど、これまでカテゴリーでそう言うの作らないといけないかな? と考えておりましたが、これからはまずこちらで選んで、ないものをカテゴリーに登録すればいいみたいです。早速使ってみようと思います。
さて、耐震構造計算を偽造し、日本中に多くの地震にもろい高層建築を建てまくった一級建築士の資格剥奪が、決まったそうです。先月中旬に事件が発覚してから20日あまり。当然と言えば当然の処置なのでしょうが、一連の報道を見てますと、釈然としないものも残ります。例えば、例によって性善説で組み上げられたソフトウェアや制度の欠陥。これなどは政治や行政側の大罪と私には思えます。また、例えば建築士の序列関係。本来もっとも重要な構造計算を主たる業務にする者が、経済的にもっとも冷遇されているという業界の組織的構造欠陥は、専門家をそうでない人より身分的に下とした、平安朝以来の官僚機構にも通じる、組織的硬直性のように思えます。その中で、もっとも優遇されているのがデザイン設計を担当する人と言うのが、いかにも我が国らしいお粗末さを覚えさせます。確かに外観は商品としては重要な物で、顧客の側もそこを重視していると業者側が認識しているからこそ、優遇もされるのでしょう。一方で本質的に最重要な物は、取りあえず問題が表面化しなければそれで良し、とおざなりにされる。テレビドラマの書き割りと同じく、見えないところはベニア板露出して用が見えなければそれでいい、と言う感覚が日本人全体に蔓延した結果、その一部が露出したのが今回の事件なんじゃないでしょうか?
私が思うに、かつて日本人は、見えないところにおしゃれするような美的感覚があったんじゃないでしょうか。話を建築に絞れば、昔の大工さんは天井裏など見えなくなるところにも、随分気を使った細工を施したと言うようなことを聞いたことがあります。それが事実であると宣言するだけのデータを今持ってないので強く主張はいたしませんが、その一種自己陶酔型のストイックな美学が、かつて、日本の製造業には横溢していたように思えるのです。そんな感覚が利益追求の前にかき消されてしまったのは何故なのでしょう? それも、明るみに出れば稼ぎ上げてきた利益を一度に失うような危ない追求方法の前に。短期的には利益を上げられても、長期的には大損するのが端から見てるとはっきり判るようなその思考形式は、歴代中国王朝の末期に跋扈した佞臣連中と同じ様な気がします。あるいは大東亜戦争時の軍指導部とか。手にした利益や権力、メンツなどのために大局を見失い、結局最後に全てを失う様がそっくりに見えるのです。とするとこれは、東洋的な宿痾なのでしょうか? あるいはかつて大和の国が大陸から輸入してしまった精神的伝染病の一種なのでしょうか? 一方では職人的こだわりを見せるのに、一方ではそれをぶち壊すようなことをする。私は本質的に日本人は職人気質で、いい加減さは大陸由来だ、と何の根拠もなく主張したくなるのですが、「羊頭狗肉」に当たるような説話やことわざが万葉集や風土記や古事記日本書紀などに出てきたりするのかどうか、調べられた例でもあれば、是非知りたいものです。
さて、耐震構造計算を偽造し、日本中に多くの地震にもろい高層建築を建てまくった一級建築士の資格剥奪が、決まったそうです。先月中旬に事件が発覚してから20日あまり。当然と言えば当然の処置なのでしょうが、一連の報道を見てますと、釈然としないものも残ります。例えば、例によって性善説で組み上げられたソフトウェアや制度の欠陥。これなどは政治や行政側の大罪と私には思えます。また、例えば建築士の序列関係。本来もっとも重要な構造計算を主たる業務にする者が、経済的にもっとも冷遇されているという業界の組織的構造欠陥は、専門家をそうでない人より身分的に下とした、平安朝以来の官僚機構にも通じる、組織的硬直性のように思えます。その中で、もっとも優遇されているのがデザイン設計を担当する人と言うのが、いかにも我が国らしいお粗末さを覚えさせます。確かに外観は商品としては重要な物で、顧客の側もそこを重視していると業者側が認識しているからこそ、優遇もされるのでしょう。一方で本質的に最重要な物は、取りあえず問題が表面化しなければそれで良し、とおざなりにされる。テレビドラマの書き割りと同じく、見えないところはベニア板露出して用が見えなければそれでいい、と言う感覚が日本人全体に蔓延した結果、その一部が露出したのが今回の事件なんじゃないでしょうか?
私が思うに、かつて日本人は、見えないところにおしゃれするような美的感覚があったんじゃないでしょうか。話を建築に絞れば、昔の大工さんは天井裏など見えなくなるところにも、随分気を使った細工を施したと言うようなことを聞いたことがあります。それが事実であると宣言するだけのデータを今持ってないので強く主張はいたしませんが、その一種自己陶酔型のストイックな美学が、かつて、日本の製造業には横溢していたように思えるのです。そんな感覚が利益追求の前にかき消されてしまったのは何故なのでしょう? それも、明るみに出れば稼ぎ上げてきた利益を一度に失うような危ない追求方法の前に。短期的には利益を上げられても、長期的には大損するのが端から見てるとはっきり判るようなその思考形式は、歴代中国王朝の末期に跋扈した佞臣連中と同じ様な気がします。あるいは大東亜戦争時の軍指導部とか。手にした利益や権力、メンツなどのために大局を見失い、結局最後に全てを失う様がそっくりに見えるのです。とするとこれは、東洋的な宿痾なのでしょうか? あるいはかつて大和の国が大陸から輸入してしまった精神的伝染病の一種なのでしょうか? 一方では職人的こだわりを見せるのに、一方ではそれをぶち壊すようなことをする。私は本質的に日本人は職人気質で、いい加減さは大陸由来だ、と何の根拠もなく主張したくなるのですが、「羊頭狗肉」に当たるような説話やことわざが万葉集や風土記や古事記日本書紀などに出てきたりするのかどうか、調べられた例でもあれば、是非知りたいものです。