投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月15日(水)10時23分5秒
後醍醐は元弘三年(1333)六月四日に帰京、東寺に泊して、翌五日に二条富小路殿に戻ります。
大徳寺については、この僅か二日後の六月七日に次の綸旨が出ています。(『鎌倉遺文』32241号)
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〇三二二四一 後醍醐天皇綸旨<〇山城大徳寺文書>
大徳寺領事、管領不可有相違者、
天気如此、仍執達如件、 〔中御門宣明〕
元弘三年六月七日 左少弁(花押)
妙超上人御房
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そして、同月十五日には信濃国伴野荘を大徳寺に寄附する旨の綸旨が出ます。((『鎌倉遺文』32274号)
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〇三二二七四 後醍醐天皇綸旨<〇山城大徳寺文書>
信濃国伴野庄地頭職、所被寄附大徳禅寺也、殊可奉祈万年之
聖運者、
天気如此、仍執達如件、 〔岡崎範国〕
元弘三年六月十五日 式部少輔(花押)奉
妙超上人禅室
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更に七月一日には、「民部卿局」が下総国遠山方御厨を大徳寺に寄附したことを承認する後醍醐の綸旨が出ます。(『鎌倉遺文』32318号)
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〇三二三一八 後醍醐天皇綸旨<〇山城大徳寺文書>
〔北畠親子〕
下総国遠山方御厨、任民部卿局寄附之旨、大徳寺管領不可有
相違者、
天気如此、仍執達如件、 〔岡崎範国〕
元弘三年七月一日 式部少輔(花押)
宗峰上人御房
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「民部卿局」は護良親王の母である「民部卿三位」と同一人物だと思いますが、「民部卿三位」は従来、北畠師親の娘親子とされていて、『鎌倉遺文』もこの説を採ったようです。
ただ、北畠親子説が不動の定説であった「民部卿三位」の出自については、近年、森茂暁・岡野友彦氏による異論が出されています。
その論争の内容は亀田俊和氏『征夷大将軍・護良親王』(戎光祥出版、2017)に簡潔に整理されているので(p12以下)、詳しくはそちらに譲るとして、大徳寺に下総国遠山方御厨を寄附した「民部卿局」が護良親王母であることは間違いないはずです。
つまり大徳寺については後醍醐のみならず護良親王母の「民部卿局」も密接な関係を持っていた訳ですね。
さて、この後に既に紹介済みの七月三日付後醍醐綸旨、七月六日付の四条隆貞を奉者とする「将軍家」護良親王令旨が出ます。
参照の便宜のために再掲すると、
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①信濃国伴野庄事、先御寄附寺家之由、被仰高氏朝臣候了、小宅三職事、去々年当知
行之上者、不及被下 綸旨、所務不可有子細歟之由、被仰下候也、仍執達如件、
七月三日 中納言(草名)
宗峯上人御房
②信濃国伴野庄、任綸旨、管領不可有相違者、依 将軍家御仰、執達如件、
元弘三年七月六日 左少将〔四条隆貞〕(花押)
宗峯上人御房
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/64f8ab9b9e37565b6d2eaf1fa9a94051
というものです。
これら一連の文書を見ると、六月十五日から七月六日までの短期間に、大徳寺の新所領に関して後醍醐・「民部卿局」(護良親王母)・護良・尊氏が相互に密接な連絡を取っていたことが伺われる訳ですが、ここには後に起きる後醍醐・護良・尊氏間の紛争の気配など微塵も窺えません。
還京直後のこの時期、もちろん大徳寺以外の寺院にも後醍醐は寺領安堵の綸旨を出していますが、大徳寺が相当に優遇されていることは明らかです。
そして、こうした一連の流れの中で「現在約八〇〇点ほど収集することのできる後醍醐天皇綸旨のなかで、誅伐の対象となる以前の段階で尊氏の名前がみえる」「唯一」の文書である七月三日付綸旨を読むと、ここからは、自分が重視している大徳寺の新しい所領・伴野荘については、その管理が円滑に進むようにしっかり手配してくれよ、という後醍醐の尊氏に対する期待と信頼が窺われ、逆にそれ以外の何かを読み込むのは文書の素直な解釈とは言えないように思われます。
そして、後醍醐は「信濃国伴野庄事、先御寄附寺家之由、被仰高氏朝臣候了」という文言が明記された綸旨を護良が見ることを予想しており、それはつまり、護良がこれを見ても別に尊氏との間でトラブルなど起きるはずがないと思っていたことを意味しますから(トラブル発生の可能性のある刺激的な文言だと分かっていれば、入れるはずがない)、結局、大徳寺関係の複数の文書は、元弘三年六月・七月時点で後醍醐・護良・尊氏の関係が円滑であり、護良が尊氏討伐を後醍醐に要求して信貴山に立て籠もった、などという事実は全くないことを示しているものと私は考えます。
後醍醐は元弘三年(1333)六月四日に帰京、東寺に泊して、翌五日に二条富小路殿に戻ります。
大徳寺については、この僅か二日後の六月七日に次の綸旨が出ています。(『鎌倉遺文』32241号)
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〇三二二四一 後醍醐天皇綸旨<〇山城大徳寺文書>
大徳寺領事、管領不可有相違者、
天気如此、仍執達如件、 〔中御門宣明〕
元弘三年六月七日 左少弁(花押)
妙超上人御房
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そして、同月十五日には信濃国伴野荘を大徳寺に寄附する旨の綸旨が出ます。((『鎌倉遺文』32274号)
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〇三二二七四 後醍醐天皇綸旨<〇山城大徳寺文書>
信濃国伴野庄地頭職、所被寄附大徳禅寺也、殊可奉祈万年之
聖運者、
天気如此、仍執達如件、 〔岡崎範国〕
元弘三年六月十五日 式部少輔(花押)奉
妙超上人禅室
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更に七月一日には、「民部卿局」が下総国遠山方御厨を大徳寺に寄附したことを承認する後醍醐の綸旨が出ます。(『鎌倉遺文』32318号)
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〇三二三一八 後醍醐天皇綸旨<〇山城大徳寺文書>
〔北畠親子〕
下総国遠山方御厨、任民部卿局寄附之旨、大徳寺管領不可有
相違者、
天気如此、仍執達如件、 〔岡崎範国〕
元弘三年七月一日 式部少輔(花押)
宗峰上人御房
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「民部卿局」は護良親王の母である「民部卿三位」と同一人物だと思いますが、「民部卿三位」は従来、北畠師親の娘親子とされていて、『鎌倉遺文』もこの説を採ったようです。
ただ、北畠親子説が不動の定説であった「民部卿三位」の出自については、近年、森茂暁・岡野友彦氏による異論が出されています。
その論争の内容は亀田俊和氏『征夷大将軍・護良親王』(戎光祥出版、2017)に簡潔に整理されているので(p12以下)、詳しくはそちらに譲るとして、大徳寺に下総国遠山方御厨を寄附した「民部卿局」が護良親王母であることは間違いないはずです。
つまり大徳寺については後醍醐のみならず護良親王母の「民部卿局」も密接な関係を持っていた訳ですね。
さて、この後に既に紹介済みの七月三日付後醍醐綸旨、七月六日付の四条隆貞を奉者とする「将軍家」護良親王令旨が出ます。
参照の便宜のために再掲すると、
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①信濃国伴野庄事、先御寄附寺家之由、被仰高氏朝臣候了、小宅三職事、去々年当知
行之上者、不及被下 綸旨、所務不可有子細歟之由、被仰下候也、仍執達如件、
七月三日 中納言(草名)
宗峯上人御房
②信濃国伴野庄、任綸旨、管領不可有相違者、依 将軍家御仰、執達如件、
元弘三年七月六日 左少将〔四条隆貞〕(花押)
宗峯上人御房
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/64f8ab9b9e37565b6d2eaf1fa9a94051
というものです。
これら一連の文書を見ると、六月十五日から七月六日までの短期間に、大徳寺の新所領に関して後醍醐・「民部卿局」(護良親王母)・護良・尊氏が相互に密接な連絡を取っていたことが伺われる訳ですが、ここには後に起きる後醍醐・護良・尊氏間の紛争の気配など微塵も窺えません。
還京直後のこの時期、もちろん大徳寺以外の寺院にも後醍醐は寺領安堵の綸旨を出していますが、大徳寺が相当に優遇されていることは明らかです。
そして、こうした一連の流れの中で「現在約八〇〇点ほど収集することのできる後醍醐天皇綸旨のなかで、誅伐の対象となる以前の段階で尊氏の名前がみえる」「唯一」の文書である七月三日付綸旨を読むと、ここからは、自分が重視している大徳寺の新しい所領・伴野荘については、その管理が円滑に進むようにしっかり手配してくれよ、という後醍醐の尊氏に対する期待と信頼が窺われ、逆にそれ以外の何かを読み込むのは文書の素直な解釈とは言えないように思われます。
そして、後醍醐は「信濃国伴野庄事、先御寄附寺家之由、被仰高氏朝臣候了」という文言が明記された綸旨を護良が見ることを予想しており、それはつまり、護良がこれを見ても別に尊氏との間でトラブルなど起きるはずがないと思っていたことを意味しますから(トラブル発生の可能性のある刺激的な文言だと分かっていれば、入れるはずがない)、結局、大徳寺関係の複数の文書は、元弘三年六月・七月時点で後醍醐・護良・尊氏の関係が円滑であり、護良が尊氏討伐を後醍醐に要求して信貴山に立て籠もった、などという事実は全くないことを示しているものと私は考えます。
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