学問空間

「『増鏡』を読む会」、第10回は3月1日(土)、テーマは「二条天皇とは何者か」です。

山家著(その2)「ふたりによる統治」

2021-04-25 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月25日(日)18時24分6秒

続きです。(p2以下)

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 この二つの場面に比べて、その間に挟まれた時期に、兄弟で政権を運営したようすは、あまり印象に残らない。この時期、畿内近国で南朝方との戦闘が続く一方で、京都市街は平穏であった。直義の死からのち、南朝方が一時的にせよ、しばしば京都に進攻するのとは好対照となっている。京都は意外なほど平穏が保たれる安定期となっていた。そのなか、尊氏・直義は共同して政権を運営し、政権の確立をめざした。尊氏・直義は、一定の権限分担をもちながら、実質的には、おもに直義が政権運営を担っていた。両者が対立するにいたったという結果から、両者の志向の相反をみいだすことも可能である。しかし、対立が表面化する以前は、尊氏と直義は、政権の確立という同じ目的のもと、結束して統治にあたったことも疑いない。
 尊氏・直義について、これまで多くの評伝が公にされ、研究も豊富に蓄積されている。本書では、改めて尊氏と直義を取り上げるにあたって、先行業績に多くをおいながら、よく知られた二つの場面は概観にとどめ、あいだに挟まれた安定期を中心に描きたい。そして、尊氏・直義兄弟の共同統治という視点を失わないようにしたい。そのうえで両者の共同統治がのちの室町幕府にどのように位置づけられたのか、についても考えてみたい。
 なお、尊氏の初名は高氏であるが、本書では改名後の尊氏で統一した。
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「共同統治」が山家説のキーワードですね。
さて、最初の章「生誕から政権樹立まで」は、

 出自と統治者への道のり
 政権樹立の過程

の二部構成ですが、「出自と統治者への道のり」は既に清水克行氏の『足利尊氏と関東』(吉川弘文館、2013)等で紹介済みの内容なので省略し、「政権樹立の過程」から少し引用します。(p10以下)

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 この過程で留意したい点を三点取り上げたい。一つは、建武政権内での尊氏・直義の位置である。まずは尊氏。正三位、ついで参議に任じられて公卿に列せられており、伝統的な官位大系のもとで一定の地位をあたえられている。一方で、その実権に即した官職・役職には就かず、伝統的な鎮守府将軍にとどまっている。尊氏は、京都において軍事を主導し、新政権の軍事面で重要な役割を果たした。また、所領などの訴訟を扱う機関として新設された雑訴決断所に、足利氏有力被官の高氏や上杉氏を送り込むなど、尊氏は実務面でも新政権を支えていた。尊氏にふさわしい役職を新設する選択肢もあったはずである。
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いったん、ここで切ります。
山家氏は「その実権に即した官職・役職には就かず、伝統的な鎮守府将軍にとどまっている」とされていますが、尊氏の直前の鎮守府将軍というと藤原範季(1130~1205)まで遡ることになり、鎌倉時代には誰も就任していません。

鎮守府将軍
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%AE%E5%AE%88%E5%BA%9C%E5%B0%86%E8%BB%8D
藤原範季
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%AF%84%E5%AD%A3

この百五十年以上の空白期間に「伝統的な鎮守府将軍」観念も空洞化は否めず、更に「伝統的な官位大系」を相当程度破壊した後醍醐は、鎮守府将軍についても「伝統的な鎮守府将軍」観念を排して、新しい意味を与えた可能性はありますね。
山家著の「参考文献」には載っていませんが、吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(『史学雑誌』第111編第7号、2002)は尊氏が後醍醐から「鎮守府将軍としての全国規模での軍事的権限」を与えられたという立場です。


四月初めの中間整理(その4)~(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cddb89fb0fa62d933481f0cab6994b2c
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/75504cc5649c34357c8b20a5387e69e8
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9f7b230dfc93365752e80eb88604bbfd

私も基本的には吉原説に賛成ですが、ただ、吉原氏は鎌倉時代を通して鎮守府将軍も相当の権威が維持されていたことを前提とされているようです。
しかし、後醍醐は鎮守府将軍を「本来鎮守府とは、北方鎮定のため陸奥国に設置された広域行政機関で鎮守府将軍はその長官である」といった古色蒼然たる由緒から切り離して、新たな意味を与えたと考える方が自然ではないかと思います。
後醍醐は「京都において軍事を主導し、新政権の軍事面で重要な役割を果たした」尊氏に対して、「その実権に即した官職・役職」として、形式的には「伝統的な鎮守府将軍」を与えたものの、それは実質的には「尊氏にふさわしい役職を新設」したものと捉えるべきではないか、と私は考えます。

吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その13)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b651bfd3c4c14c553d5a6c9684f0f8d0
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