第257回配信です。
一、前回配信の補足
資料:佐伯智広氏「二条天皇─夭折した正統の皇位継承者」〔2025-01-30〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8d7f2e48b69e586a13acc22cd6697c68
資料:佐伯智広氏「二条天皇─夭折した正統の皇位継承者」〔2025-01-30〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8d7f2e48b69e586a13acc22cd6697c68
「平治の乱の直後、二条は政治的自立の道を歩み始めていた。その第一歩が、乱翌月の永暦元年(一一六〇)正月に行われた、藤原多子〔まさるこ〕の再入内」
「『平家物語』は多子が天下第一の美人であったためとするが、政治的に重要な点は、多子が閑院流の出身であったこと」
「当時の権大納言・右大将の要職にあった公能は、再入内を渋る多子を、公能は「皇子が誕生すれば私も外祖父になる」と説得したと『平家物語』は伝える。それが事実か定かではないが、再入内後の同年八月に公能が右大臣へと昇進したように、公能にとって多子の再入内が政治的にプラスに働いたことは間違いなく、二条の意図は、後白河の外戚である閑院流を自派に取り込むことにあったと考えられる」
「『平家物語』は、後白河の再入内反対を、二条が「天子に父母なし」と押し切ったとする。これも真偽は定かではないが、院と天皇が婚姻をめぐって対立したことについては先例が存在」
「成人した天皇が親権者たる院からの政治的自立を目指したとき、皇位継承問題と密接にかかわる天皇の配偶者の選択は、一つの着火点たり得た」
→「政治的自立」を二度繰り返す。
また、『平家物語』については「それが事実か定かではないが」を二度繰り返す。
資料:『平家物語』巻第一「二代后」〔2024-12-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6998d04985f1ea7a2034bdf9faf3947a
資料:『源平盛衰記』巻第二(ろ巻)「二代后の事 附 則天皇后の事」〔2025-01-16〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/eff0f461d9bea75d10cfa4ef78002876
二、「二代后」についての桃崎有一郎氏の解釈
資料:『平治の乱の謎を解く 頼朝が暴いた「完全犯罪」』〔2024-12-23〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/408464aec3f98dbdc0af039b0ea92acd
p185以下
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二条はこの頃、強い自我によって強引な政治を始めていた。その証拠が藤原多子の入内である〔『今鏡』六─ふじなみの下─宮木野〕。多子は徳大寺公能の娘で、教養高く筆跡・絵・音楽に優れ、下々の者にまで気配りを尽くす「なさけ多くおはします」性格に二条が惚れたらしい。多子はかつて近衛天皇の皇后となり、その後は統子内親王・姝子内親王・徳大寺忻子(多子の義理の姉妹)の相次ぐ入内によって玉突きで昇進し、平治の乱の日には皇太后【ママ】となっていた。
別の天皇の配偶者だった過去を持ち、すでに皇太后【ママ】の地位にある女性を、二条が改めて配偶者にするのはおかしい。しかし、『今鏡』に「二条御門の御時あながちに御消息ありければ」とあるように、二条は強引な御消息〔ラブレター〕で彼女を口説いた。この非常識な行動を朝廷の世論は懸念し、入内の栄誉を喜ぶべき実父の公能さえ、何度も二条に翻意を迫った。しかし、二条は聞かず、「しのびたるさま(人目を忍ぶ形)」で多子を内裏に呼び入れ、配偶者にしてしまった。二度目の入内の時、多子はまだ二一歳の若さだったが、一人の女性が二人の天皇に嫁ぐのは前代未聞で、『平家物語』は「二代の后」と呼んで珍しがった。
この多子の入内は、永暦元年(一一六〇)正月二六日に果たされた。それは京都合戦の一ヵ月ほど後、つまり、平治の乱における戦闘の直後であり、戦後処理が完了する前である。平治の乱の段階で、すでに二条は、世論の反発を顧みずに我意を強引に押し通す君主となっていたのだ。その二条の親政で、彼が傀儡だった可能性はない。経宗・惟方は、二条の意思決定や、決定事項の執行を近臣筆頭として全面的に支えることで「世をなびかせ」る権勢を誇ったが、二条親政は文字通り、主導権を握る二条の親政だったと推断してよい。
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「政治的自立」を始めたばかりとする佐伯智広氏に対し、桃崎有一郎氏は、「すでに二条は、世論の反発を顧みずに我意を強引に押し通す君主となっていた」、「彼が傀儡だった可能性はない」とする。
なお、基礎的な事実の点で、桃崎氏には勘違いがある。
「多子はかつて近衛天皇の皇后となり、その後は統子内親王・姝子内親王・徳大寺欣子(多子の義理の姉妹)の相次ぐ入内によって玉突きで昇進し、平治の乱の日には皇太后となっていた」とあるが、「皇太后」ではなく「太皇太后」。
また、多子は、
(1)保元元年(1156)10月27日、藤原欣子(多子の六歳上の同母姉)が後白河天皇の中宮となったことにより、皇太后となり、
(2)保元3年(1158)2月3日、統子内親王(後白河天皇の一歳上の同母姉)が後白河の「准母」として皇后となったことにより、太皇太后となった、
のであって、保元3年(1158)2月21日、姝子内親王が二条天皇の中宮になったことによる地位の変動はない。
統子内親王(上西門院、1126‐89、六十四歳、鳥羽院皇女、母:待賢門院、後白河准母)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B1%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B
藤原呈子(1131‐76、四十六歳、藤原伊通女、美福門院養女、藤原忠通養女、近衛后)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%91%88%E5%AD%90
藤原忻子(1134‐1209、七十六歳、徳大寺公能女、多子の六歳上の同母姉、後白河后)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BF%BB%E5%AD%90
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%91%88%E5%AD%90
藤原忻子(1134‐1209、七十六歳、徳大寺公能女、多子の六歳上の同母姉、後白河后)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BF%BB%E5%AD%90
藤原多子(1140‐1201、六十二歳、徳大寺公能女、藤原頼長養女、「二代后」)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%A4%9A%E5%AD%90
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%A4%9A%E5%AD%90
姝子内親王(高松院、1141‐76、三十七歳、鳥羽院皇女、母:美福門院、二条后)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%9D%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%9D%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B
※以下は⑤⑥が誤りです。
姝子内親王が中宮となったのは保元4年(平治元年、1159)2月21日ですが、これを保元3年(1158)2月21日と勘違いしたために、⑤⑥が逆転し、「⑤と⑥の間は皇后が二人」などと書いてしまいました。
ただ、このレジュメを修正すると配信内容との間にズレが生じてしまうので、次回配信のレジュメで修正することとし、こちらはそのままとしておきます。
なお、配信の途中で⑤が変であること(保元3年(1158)2月21日では二条天皇践祚前に姝子が中宮となってしまうこと)に気づき、次回修正する旨を話しています。
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①久安6年(1150)3月14日
藤原多子(十一歳)皇后
②同年6月22日
藤原呈子(二十歳)中宮
③保元元年(1156)10月27日
藤原忻子(二十三歳)中宮
→藤原呈子(二十六歳)皇后
→藤原多子(十七歳) 皇太后
④保元3年(1158)2月3日
統子内親王(三十二歳)皇后(後白河准母)
藤原忻子(二十五歳)中宮
→藤原呈子(二十八歳)皇太后
→藤原多子(十九歳) 太皇太后
⑤保元3年(1158)2月21日
姝子内親王(十八歳)中宮
統子内親王(三十二歳)皇后(後白河准母)
藤原忻子(二十五歳)皇后
藤原呈子(二十八歳)皇太后
藤原多子(十九歳) 太皇太后
⑥保元4年(1159)2月13日
※統子内親王(三十三歳)、院号宣下(上西門院)
姝子内親王(十九歳)中宮
藤原忻子(二十六歳)皇后
藤原呈子(二十九歳)皇太后
藤原多子(二十歳) 太皇太后
⑤と⑥の間は皇后が二人。
藤原呈子(二十歳)中宮
③保元元年(1156)10月27日
藤原忻子(二十三歳)中宮
→藤原呈子(二十六歳)皇后
→藤原多子(十七歳) 皇太后
④保元3年(1158)2月3日
統子内親王(三十二歳)皇后(後白河准母)
藤原忻子(二十五歳)中宮
→藤原呈子(二十八歳)皇太后
→藤原多子(十九歳) 太皇太后
⑤保元3年(1158)2月21日
姝子内親王(十八歳)中宮
統子内親王(三十二歳)皇后(後白河准母)
藤原忻子(二十五歳)皇后
藤原呈子(二十八歳)皇太后
藤原多子(十九歳) 太皇太后
⑥保元4年(1159)2月13日
※統子内親王(三十三歳)、院号宣下(上西門院)
姝子内親王(十九歳)中宮
藤原忻子(二十六歳)皇后
藤原呈子(二十九歳)皇太后
藤原多子(二十歳) 太皇太后
⑤と⑥の間は皇后が二人。
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