投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 7月17日(土)09時56分8秒
「おおやにき」というブログで井原今朝男氏の『中世の借金事情』(歴史文化ライブラリー、吉川弘文館、2009)がずいぶん厳しく、というか「買ったり読んだりする価値のまったくない本」とまで酷評されているのを見つけ、まあ、井原氏の書いたものだからそんなはずはないだろうと思って購入し、パラパラ読んでみました。
うーむ。
中世に関しては「買ったり読んだりする価値」はあると思いますが、現代社会の認識はひじょーに微妙ですね。
一冊の本や論文の核心ではない部分の誤りを見つけて鬼の首を取ったように騒ぐ、というのは、まあ正直、私なんかもその傾向があるのかなと思いますが、ただ、残りを真面目に読む気をなくさせる間違いというのもありますからねー。
ちなみに「おおやにき」を書いている大屋雄裕氏は名古屋大学大学院法学研究科・准教授で、法哲学の方だそうです。
>筆綾丸さん
揖斐高氏の本、面白そうですね。
いくつか注文しました。
今日はこれから福井県に行ってきます。
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
柏木如亭 2010/07/15(木) 19:17:59
小太郎さん
http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/00/0/0023500.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%8F%E6%9C%A8%E5%A6%82%E4%BA%AD
以前、揖斐高氏の『遊人の抒情 柏木如亭』を読み、いたく感銘を受けたものですが、如亭の師匠である寛斎が登場します(24頁~)。
昌平啓事の名を抛擲して 抛擲昌平啓事名
煙波近き処 幽情を占む 煙波近処占幽情
江湖 社を結びて 詩はひとへに逸 江湖結社詩偏逸
木石 居を成して 趣もまた清し 木石成居趣亦清
白首 人間 席を争ひ罷め 白首人間争席罷
青雲 世外 衣を振ひて行く 青雲世外振衣行
扁舟 月に乗じて誰か相ひ訪はん 扁舟乗月誰相訪
門は静かに 寒潮 夜夜の声 門静寒潮夜夜声
(中略)
・・・命名の意図を寛斎は次のように説明している。
社名江湖、これを宋人の流派に取る。曰はく、吾輩は朝に坐せず、宴 に与らず。幸に大平の世に生まれ、含鼓の沢に沐浴す。即ち知道の庶 人為るを得ば、即ち足れりと。
中国宋代の末期、民間在野の詩人たちを中心にした江湖派と呼ばれる一派が南宋の詩壇を席捲したという文学史的事実を踏まえ、これからは自分たちも大平の世の庶人として詩壇で活躍するのだという志を込めた命名だったのである。こうして寛斎が主宰し、如亭も参加した江湖詩社の活動が始まることになったが、江湖詩社が結成されたこの天明という時代は、江戸詩壇にとっても大きな転換期に当たっていた。
(中略)
世間では江戸詩壇における詩風の変化は江湖詩社から始まったと云うが、それは自然の運というものがそうさせたのであって、自分の力によるものではないと、いかにも寛斎らしい謙抑な物言いをしている。しかし、江戸詩壇の現実主義的な詩風への転換は、寛斎の率いる江湖詩社が前衛となることによって推進されたと見るのは、衆目の一致するところであった。つまり、如亭はそうした革新的な江湖詩社の活動にもっとも早い時期から参加し、その前衛として革新運動に携わる過程で詩人として自己形成を行ってきたのであった。
詩社の命名にも顕著に現われ、また寛斎が「源温仲先生に与ふ」にいみじくも記したように、彼らの活動の根底には「江湖」「庶人」すなわち市民としての意識がはっきりと存在していた。もはや漢詩は政治を担当する士大夫や人の道を考究する儒者の専有物ではなく、江湖の詩すなわち市民の文学として革新されようとしていた。詩社結成後ほどなくして、天明八年(一七八八)頃には高松藩儒の息子で江戸に遊学中の菊池五山、寛政初年には江戸の開業医の息子で詩人になろうと志した大窪詩仏が、そしてまた同じころ、札差の息子小島梅外が江湖詩社に参加することになった。
如亭の詩は素晴らしいものですが、鴎外や漱石は、江湖詩社について、どう思っていたのでしょうね。
如亭が遊んだ新潟について、同書に、次のような記述があります(124頁)。
信濃川河口も砂嘴の上に発達した新潟は、米をはじめとする越後平野の豊かな産物の積出港として栄え、戸数は約一万戸、古町を中心にして俗に八百八後家と称された多くの娼妓をかかえる、日本海沿岸きっての歓楽都市であった。文政二年に出版された新潟の洒落本『新潟後の月見』の甘泉酔翁の序には、「越後新潟の湊には、其国第一繁栄の地にして、遠近の千船百舟繋船し、奥羽信州はもふすに及ばず、諸国交易の地にして甚盛也。されば当地の名物は八百八後家と世にいゝふらし、他の国までしらざるなし」と記されている。
八百八後家(はっぴゃくやごけ)という含蓄のある言葉、はじめて知りました。この表現は、まだ残っているかのどうか・・・。
小太郎さん
http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/00/0/0023500.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%8F%E6%9C%A8%E5%A6%82%E4%BA%AD
以前、揖斐高氏の『遊人の抒情 柏木如亭』を読み、いたく感銘を受けたものですが、如亭の師匠である寛斎が登場します(24頁~)。
昌平啓事の名を抛擲して 抛擲昌平啓事名
煙波近き処 幽情を占む 煙波近処占幽情
江湖 社を結びて 詩はひとへに逸 江湖結社詩偏逸
木石 居を成して 趣もまた清し 木石成居趣亦清
白首 人間 席を争ひ罷め 白首人間争席罷
青雲 世外 衣を振ひて行く 青雲世外振衣行
扁舟 月に乗じて誰か相ひ訪はん 扁舟乗月誰相訪
門は静かに 寒潮 夜夜の声 門静寒潮夜夜声
(中略)
・・・命名の意図を寛斎は次のように説明している。
社名江湖、これを宋人の流派に取る。曰はく、吾輩は朝に坐せず、宴 に与らず。幸に大平の世に生まれ、含鼓の沢に沐浴す。即ち知道の庶 人為るを得ば、即ち足れりと。
中国宋代の末期、民間在野の詩人たちを中心にした江湖派と呼ばれる一派が南宋の詩壇を席捲したという文学史的事実を踏まえ、これからは自分たちも大平の世の庶人として詩壇で活躍するのだという志を込めた命名だったのである。こうして寛斎が主宰し、如亭も参加した江湖詩社の活動が始まることになったが、江湖詩社が結成されたこの天明という時代は、江戸詩壇にとっても大きな転換期に当たっていた。
(中略)
世間では江戸詩壇における詩風の変化は江湖詩社から始まったと云うが、それは自然の運というものがそうさせたのであって、自分の力によるものではないと、いかにも寛斎らしい謙抑な物言いをしている。しかし、江戸詩壇の現実主義的な詩風への転換は、寛斎の率いる江湖詩社が前衛となることによって推進されたと見るのは、衆目の一致するところであった。つまり、如亭はそうした革新的な江湖詩社の活動にもっとも早い時期から参加し、その前衛として革新運動に携わる過程で詩人として自己形成を行ってきたのであった。
詩社の命名にも顕著に現われ、また寛斎が「源温仲先生に与ふ」にいみじくも記したように、彼らの活動の根底には「江湖」「庶人」すなわち市民としての意識がはっきりと存在していた。もはや漢詩は政治を担当する士大夫や人の道を考究する儒者の専有物ではなく、江湖の詩すなわち市民の文学として革新されようとしていた。詩社結成後ほどなくして、天明八年(一七八八)頃には高松藩儒の息子で江戸に遊学中の菊池五山、寛政初年には江戸の開業医の息子で詩人になろうと志した大窪詩仏が、そしてまた同じころ、札差の息子小島梅外が江湖詩社に参加することになった。
如亭の詩は素晴らしいものですが、鴎外や漱石は、江湖詩社について、どう思っていたのでしょうね。
如亭が遊んだ新潟について、同書に、次のような記述があります(124頁)。
信濃川河口も砂嘴の上に発達した新潟は、米をはじめとする越後平野の豊かな産物の積出港として栄え、戸数は約一万戸、古町を中心にして俗に八百八後家と称された多くの娼妓をかかえる、日本海沿岸きっての歓楽都市であった。文政二年に出版された新潟の洒落本『新潟後の月見』の甘泉酔翁の序には、「越後新潟の湊には、其国第一繁栄の地にして、遠近の千船百舟繋船し、奥羽信州はもふすに及ばず、諸国交易の地にして甚盛也。されば当地の名物は八百八後家と世にいゝふらし、他の国までしらざるなし」と記されている。
八百八後家(はっぴゃくやごけ)という含蓄のある言葉、はじめて知りました。この表現は、まだ残っているかのどうか・・・。
intermezzo 2010/07/16(金) 19:34:39
http://www.corriere.it/esteri/10_luglio_15/tappo-golfo-messico_a2d8aeec-904a-11df-b54a-00144f02aabe.shtml
メキシコ湾の原油流出関連ですが、イタリア語で読むと、フェルマータだのフーガだのと、なんだか音楽のようですね。
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