投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年10月 6日(土)10時54分44秒
前回投稿で『幕末の世直し 万人の戦争状態』の些細な誤りを指摘しましたが、辛科神社については、p159に、
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西上州を席巻した世直し騒動
慶応四年二月二二日、西上州の多胡郡神保村(現 高崎市)辛科神社の境内に一〇人ほどの百姓たちが集まった。彼らは、岩鼻陣屋関東取締出役渋谷鷲郎に協力して農兵取り立て計画に参与した村役人たちを弾劾し、さらに開港以降、小前百姓たちが物価上昇に苦しんでいる中、富を拡大した質屋・米穀商人を襲撃し、質地証文・借金証文を破棄することを目的として結集した。上州世直し騒動が始まった。
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とあるのに、次のページの写真のキャプションに「図11 辛科神社境内(高崎市高松町所在)」とあるのはどういう事情なのか。
辛科神社が所在する旧多野郡吉井町は2009年に高崎市に合併されたばかりの地域で、同神社と高崎市役所のある高崎市の中心部・高松町とは直線距離で10㎞ほど離れています。
高崎市出身だという須田努氏が辛科神社を高松町所在と誤解するとは考えにくいので、あるいはキャプションは担当編集者が別途付けたということなのか。
それと、p166には、
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鬼定・鬼金という頭取
上州世直し騒動では、さすが上州、博徒の本場、と納得できるようなおもしろい人物が登場している。自称鬼定・鬼金という二人の頭取である。群馬県で高校教員を勤め、上州地域の社会経済史・百姓一揆、幕末の政治動向、そして世直し騒動を研究し続けた故中島明さんは、彼ら二人を、脇差を帯び、博奕を渡世とする無宿であり、無頼の悪徒であったと紹介した(中島明『幕藩制解体期の民衆運動』校倉書房、一九九三年)。鬼定・鬼金は、参加強制の廻状を村々に出し、鉄砲を持参して集まるようにとアピールしていたのである。
先述したように、上州世直し勢は、小栗上野介が隠遁した群馬郡権田村の東善寺を攻撃した。東上州では、「悪もの」として殺害された頭取は、鑓・脇差を身に帯びていた。上州の世直し勢は鉄砲などの武器を携帯使用し、家屋にも放火していたのである。
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とありますが、『幕藩制解体期の民衆運動』を確認してみたところ、「自称鬼定・鬼金という二人の頭取」は非常に広範囲にわたった「上州世直し騒動」全体を統轄していた訳ではなく、また、辛科神社で決起して東西に分かれた西上州勢の本隊を指揮していた訳でもなく、少し北に離れた碓氷郡・群馬郡に廻状を廻した別働隊の「頭取」ですね。(p212)
まあ、「博徒の本場」という土地柄から、素性の良くない人も相当参加していたようですが、中島明氏も明確には書いていないものの、「頭取」はかなりの人数がいて、数からいえば博徒ではない普通の農民が多いように思えます。
須田氏の書き方だと「上州世直し騒動」全体の指導者が博徒であったように誤解する読者も多そうですね。
ふーむ。
※追記
高崎市の公式サイトに、
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辛科神社
奈良時代この神保の地を辛科郷(からしなごう)といった。大宝年間(701~703)に大陸から渡来した人々によって創建されたと伝えられている神社である。
上野国神名帳に従二位とあり、安居院(あごいん)の『神道集』の多胡郡二十五社中の筆頭に出てくる。寛文元年(1661)に流れ造りの本殿と拝殿が修復されており、随神門は寛政9年(1791)の修復、神楽殿は慶応2年(1866)の建立で、春秋の祭日には京都で伝習された太太神楽が氏子により舞われた。
神主による神事でその年の豊作物の豊凶を占う筒粥(つつがい)神事は1月14日。茅の輪(ちのわ)神事のみそぎ流しは7月31日の夜に行われる。社宝として鎌倉時代の懸仏(銅板製)や、室町時代の大黒面(出目上満(でめじょうまん)作)などがある。
http://www.city.takasaki.gunma.jp/docs/2013121701150/
とありますが、安居院は「あごいん」ではなく「あぐい」と読みます。
確かに『神道集』には「安居院作」と書いてあるのですが、作者の実態は不明です。
最近では福田晃氏が『安居院作「神道集」の成立』(三弥井書店、2017)という本を出されていて、私もパラパラ眺めて見たのですが、作者論の骨格は従来の福田説のままですね。
神道集
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%81%93%E9%9B%86
前回投稿で『幕末の世直し 万人の戦争状態』の些細な誤りを指摘しましたが、辛科神社については、p159に、
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西上州を席巻した世直し騒動
慶応四年二月二二日、西上州の多胡郡神保村(現 高崎市)辛科神社の境内に一〇人ほどの百姓たちが集まった。彼らは、岩鼻陣屋関東取締出役渋谷鷲郎に協力して農兵取り立て計画に参与した村役人たちを弾劾し、さらに開港以降、小前百姓たちが物価上昇に苦しんでいる中、富を拡大した質屋・米穀商人を襲撃し、質地証文・借金証文を破棄することを目的として結集した。上州世直し騒動が始まった。
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とあるのに、次のページの写真のキャプションに「図11 辛科神社境内(高崎市高松町所在)」とあるのはどういう事情なのか。
辛科神社が所在する旧多野郡吉井町は2009年に高崎市に合併されたばかりの地域で、同神社と高崎市役所のある高崎市の中心部・高松町とは直線距離で10㎞ほど離れています。
高崎市出身だという須田努氏が辛科神社を高松町所在と誤解するとは考えにくいので、あるいはキャプションは担当編集者が別途付けたということなのか。
それと、p166には、
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鬼定・鬼金という頭取
上州世直し騒動では、さすが上州、博徒の本場、と納得できるようなおもしろい人物が登場している。自称鬼定・鬼金という二人の頭取である。群馬県で高校教員を勤め、上州地域の社会経済史・百姓一揆、幕末の政治動向、そして世直し騒動を研究し続けた故中島明さんは、彼ら二人を、脇差を帯び、博奕を渡世とする無宿であり、無頼の悪徒であったと紹介した(中島明『幕藩制解体期の民衆運動』校倉書房、一九九三年)。鬼定・鬼金は、参加強制の廻状を村々に出し、鉄砲を持参して集まるようにとアピールしていたのである。
先述したように、上州世直し勢は、小栗上野介が隠遁した群馬郡権田村の東善寺を攻撃した。東上州では、「悪もの」として殺害された頭取は、鑓・脇差を身に帯びていた。上州の世直し勢は鉄砲などの武器を携帯使用し、家屋にも放火していたのである。
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とありますが、『幕藩制解体期の民衆運動』を確認してみたところ、「自称鬼定・鬼金という二人の頭取」は非常に広範囲にわたった「上州世直し騒動」全体を統轄していた訳ではなく、また、辛科神社で決起して東西に分かれた西上州勢の本隊を指揮していた訳でもなく、少し北に離れた碓氷郡・群馬郡に廻状を廻した別働隊の「頭取」ですね。(p212)
まあ、「博徒の本場」という土地柄から、素性の良くない人も相当参加していたようですが、中島明氏も明確には書いていないものの、「頭取」はかなりの人数がいて、数からいえば博徒ではない普通の農民が多いように思えます。
須田氏の書き方だと「上州世直し騒動」全体の指導者が博徒であったように誤解する読者も多そうですね。
ふーむ。
※追記
高崎市の公式サイトに、
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辛科神社
奈良時代この神保の地を辛科郷(からしなごう)といった。大宝年間(701~703)に大陸から渡来した人々によって創建されたと伝えられている神社である。
上野国神名帳に従二位とあり、安居院(あごいん)の『神道集』の多胡郡二十五社中の筆頭に出てくる。寛文元年(1661)に流れ造りの本殿と拝殿が修復されており、随神門は寛政9年(1791)の修復、神楽殿は慶応2年(1866)の建立で、春秋の祭日には京都で伝習された太太神楽が氏子により舞われた。
神主による神事でその年の豊作物の豊凶を占う筒粥(つつがい)神事は1月14日。茅の輪(ちのわ)神事のみそぎ流しは7月31日の夜に行われる。社宝として鎌倉時代の懸仏(銅板製)や、室町時代の大黒面(出目上満(でめじょうまん)作)などがある。
http://www.city.takasaki.gunma.jp/docs/2013121701150/
とありますが、安居院は「あごいん」ではなく「あぐい」と読みます。
確かに『神道集』には「安居院作」と書いてあるのですが、作者の実態は不明です。
最近では福田晃氏が『安居院作「神道集」の成立』(三弥井書店、2017)という本を出されていて、私もパラパラ眺めて見たのですが、作者論の骨格は従来の福田説のままですね。
神道集
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%81%93%E9%9B%86
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