投稿日:2013年10月 3日(木)00時09分54秒
>筆綾丸さん
1201年の場合、改元決定の直前に城氏の乱が起きているのが気になりますが、まあ、辛酉の年の改元は公家社会のお約束で、一月は色々と忙しいから二月くらいになってしまうような感じもしますね。
金門鳥敏法で検索してみたら、「レファレンス共同データベース」に興味深い記述がありました。
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質問:
「鶴岡八幡宮寺修法」という史料が見たい。そこには、元亨元年に親玄という僧が鎌倉の永福寺の別当であったという記録があるらしい。
回答:(前略)
『鶴岡社務記録』は、建久二年(1191)から文和四年(1355)までの重要な社務(鶴岡八幡宮の別当=長官)の編年記録で、鶴岡八幡宮の行事などを中心に記述されている。元亨元年(1321)の部分を見てみると、「元亨元年辛酉 依辛酉、於當社御修法、正月、二階堂別當僧正親玄金門鳥敏法」という、修法の記述があった。永福寺は、源頼朝が中尊寺の二階大堂・大長寿院を模して創建した大寺院で、「二階堂」とも呼ばれていたので(『鎌倉廃寺事典』 貫達人ほか著 有隣堂 1980年 )、「二階堂別當僧正親玄」とは、永福寺別当親玄のことであるとして、この『鶴岡社務記録』の記述を紹介した。
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000028121
この親玄は醍醐寺の高僧ですが、久我通忠の息で、後深草院二条の従兄弟でもあります。
http://kotobank.jp/word/%E8%A6%AA%E7%8E%84
高橋慎一朗 「『親玄僧正日記』と得宗被官 」
http://web.archive.org/web/20150107053657/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/takahashi-shinichiro-shingen.htm
このあたりの人間関係、色々と面白いですね。
坂口太郎氏が描く後宇多院周辺の宗教関係者も、その出自を見ると西園寺・三条坊門・堀川・久我等、後深草院二条に関係する家が頻出しており、なかなか興味深い世界です。
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/6932
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