学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

信濃国伴野庄に関する二つの古文書(その1)

2021-09-13 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月13日(月)09時09分32秒

吉井著の紹介を始めたばかりですが、建武の新政が始まったばかりの時期、護良親王が信濃国の知行国主だったとすると、尊氏との関係でそれなりに興味深い文書があります。
ま、私のように当初は尊氏と護良は格別仲が悪かった訳でもないのでは、と考える立場からすれば別にどうということのない文書なのですが、護良の信貴山立て籠りを史実と考える通説、というか不動の定説に拠る研究者にとってはなかなかの難問を惹起する文書です。
そこで、そのような立場の代表格である森茂暁氏の苦悩を知るため、『足利尊氏』(角川選書、2017)から少し引用します。
まずは前提として、尊氏・護良の基本的関係についてです。(p95以下)

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護良親王との関係
 鎌倉幕府を倒壊に導いた元弘の乱の殊勲者は先に述べた尊氏ばかりではない。むしろ最有力クラスの鎌倉御家人であった尊氏が後醍醐側に転身した最大のきっかけをつくったのは、尊氏の転身以前から地道な討幕活動をリードしていた護良であったことはいうまでもない。その点では護良が同じ討幕の殊勲者としては尊氏の先輩格の立場にいた。その様子は前述したように、『保暦間記』(『群書類従二六』所収)が「(護良は)元弘ノ乱ヲモ宗ト御張本有シゾカシ」と描くとおりである。
 尊氏と護良との対立は、元弘三年六月五日に後醍醐天皇が二条富小路の内裏に還幸して天下が静謐に帰したのちも、護良は容易に入京しようとしなかったところからすでに表面化していた。『太平記一二』によると、護良は大和の信貴山に拠って尊氏の排除を要請したという。さらに同書によると、この護良の独走に困惑した後醍醐は、右大弁宰相坊門清忠を勅使として護良のもとに派遣し、「世已〔すで〕ニ静謐ノ上ハ急ギ剃髪・染衣ノスガタニ帰リテ、門跡相続ノ業ヲ事ト給ベシ」と再び仏門に戻ることをすすめたが護良は承伏せず、結局、同十三日に護良の将軍宣下を了承するかわりに尊氏誅伐の企てをすてるという条件をのませて、護良の平和裡での入京を実現させた。このように公家一統政府が成立した直後から、尊氏と護良との間は波瀾ぶくみで、早晩のっぴきならぬ険悪な状況が到来することは誰の目にも明らかであった。
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このように森茂暁氏は『太平記』十二巻の「二者択一パターンエピソード」を完全に史実と考える立場です。
そして、森氏は西源院本を用いておられるので(p26)、護良の帰洛は六月十三日とされていますが、西源院本によれば、もともと護良の帰洛は十三日と予定されていたものの、護良が尊氏討伐と征夷大将軍任官を後醍醐に要求し、尊氏討伐など絶対不可とする後醍醐との間で坊門清忠を介しての交渉が続いて、結局、護良は征夷大将軍任官だけで納得して帰洛したことになっています。
ただ、極めて奇妙なのは、後醍醐・護良間の交渉が本当に存在したのならば、護良の帰洛は当初予定の十三日より相当「延引」されるはずなのに、何故か西源院本では当初予定通りの十三日に帰洛しています。
この点、明らかに不合理なので佐藤進一氏は流布本の六月二十三日帰洛説を取っていますね。

四月初めの中間整理(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cddb89fb0fa62d933481f0cab6994b2c
吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/aeac37a77f5bef1dc46ab4fab0e07184

ま、それはともかく、肝心の文書は次に出てきます。(p96以下)

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 両人の関係を考える上で興味深い史料がある。まず関係史料をあげよう。

  ①信濃国伴野庄事、先御寄附寺家之由、被仰高氏朝臣候了、小宅三職事、去々年当知
   行之上者、不及被下 綸旨、所務不可有子細歟之由、被仰下候也、仍執達如件、
      七月三日    中納言(草名)
    宗峯上人御房
  ②信濃国伴野庄、任綸旨、管領不可有相違者、依 将軍家御仰、執達如件、
      元弘三年七月六日          左少将〔四条隆貞〕(花押)
    宗峯上人御房

 ①は、大徳寺の宗峯妙超にあてて信濃国伴野荘ならびに播磨小宅〔おやけ〕三職を安堵するという内容の後醍醐天皇綸旨(『大徳寺文書一』七三頁)、また②は、同荘を綸旨に任せて妙超に安堵した大塔宮護良親王令旨(『大徳寺文書別集 真珠庵文書七』一五九頁)である。文書の役割のうえでは、まず①が出て、これを施行したのが②であるという関係である。問題となるのは信濃国伴野荘に関わることであるが、①に「先御寄附寺家之由、被仰高氏朝臣候了」とあるところからみると、後醍醐は信濃国伴野荘を大徳寺に寄附したことをまず尊氏に申し伝えていることが知られる。ここに尊氏の名が登場するのは尊氏が信濃国に一定の影響力を及ぼしていたからであろう。しかも①の伴野荘の部分は②によって施行されているから護良もまた信濃国に公的権限を有していなくてはならない。筆者はかつて、丹波国金剛院所蔵の元弘三年六月日某定恒禁制木札(『鎌倉遺文四一』三二三〇八号)によって、護良は当時信濃国の知行国主の地位にあったのではないかと推測したことがあるが(中公文庫『皇子たちの南北朝』六六頁)、右のように考えると、尊氏もまた同時期信濃国に対して何らかの公的な権限をもっていたのかもしれない。
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いったん、ここで切ります。
この部分、一箇所、極めて不可解な記述があって、それは「筆者はかつて、丹波国金剛院所蔵の元弘三年六月日某定恒禁制木札(『鎌倉遺文四一』三二三〇八号)によって、護良は当時信濃国の知行国主の地位にあったのではないかと推測したことがあるが」ですね。
丹波国に護良親王右筆の「某定恒」が書いた禁制木札が存在することから、どうして「護良は当時信濃国の知行国主の地位にあった」と推測できるのか。
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