投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月13日(月)10時36分52秒
以前、『足利尊氏』を通読したときは「丹波国金剛院所蔵の元弘三年六月日某定恒禁制木札」云々の記述の奇妙さに気づかなかったのですが、今回、なんじゃこりゃ、と思って『鎌倉遺文』を見たところ、問題の文書は、
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〇三二三〇八 某禁制<〇丹後金剛院蔵>
(木札)
禁制
丹後国志楽庄内鹿原山
(花押)
金剛院美福門院御願所
右、到于当庄内地頭下司以下人々等
任自由、彼寺山木切取輩、背
勅制歟、然者、可処重科之状如件、
元弘三年六月 日
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というものでした。
金剛院は丹波ではなく、丹後の寺院ですね。
金剛院 (舞鶴市)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%89%9B%E9%99%A2_(%E8%88%9E%E9%B6%B4%E5%B8%82)
さて、この制札を見ても、何故にこの制札から「護良は当時信濃国の知行国主の地位にあったのではないかと推測」できるのか分かりませんが、たぶんこの花押が護良右筆の「某定恒」のもので、森茂暁氏は「護良は当時【丹後】国の知行国主の地位にあったのではないかと推測」されたのだろうと推測できます。
そこで『皇子たちの南北朝』(中公新書、1988)を見たところ、次の記述がありました。(p50以下)
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定恒については、いま一つ注目すべき史料がある。丹後国志楽〔しらく〕荘内鹿原〔かはら〕山(現在京都府舞鶴市字鹿原)の真言宗寺院金剛院に所蔵される、元弘三年六月日禁制木札である。
この木札は本書で初めて紹介するものではなく、たとえば昭和六十一年に京都国立博物館で、「丹後・金剛院の仏像」と銘打った特別陳列が開催された際に作成された図録には、写真と読み本および簡単な説明が付されている。しかしそこにはこの禁制を発した者に関する言及はない。ちなみに、縦長の将棋の駒のような形をしたこの木札の寸法は、底辺二五・五センチ、頂点までの高さ四六・二センチ、左右の側辺三九・五センチである。
この禁制は美福門院(鳥羽院の皇后藤原得子)の祈願所である金剛院のために、同院の所在する志楽荘内に地頭・下司以下がはいりこみ、勝手に寺の山木を切り取ることを「勅制に背く」として禁止、犯過人を重科に処すことを布告したものである。注目すべきは、七行にわたって墨書された文面の真上中央にすえられた一つの大きな花押が、まごうことなく護良親王側近の一人、定恒のそれであることである。禁制木札の花押の主〔ぬし〕定恒の立場を、いかに考えるかはいくとおりかあろうが、さきの隆貞の例を参考にすれば、あるいは定恒は丹後国の国司(あるいは守護)の立場にいたのではあるまいか。もしそうであれば、同国の知行国主も、護良であった可能性が高いといわねばならない。
この禁制木札がかかげられた元弘三年六月は、護良が意気揚々と入京した月で、いわば護良勢力の絶頂期にあたっていた。その木札のかしらにすえられた堂々とした定恒の花押は、主君護良をうしろ楯にした定恒の威勢をうかがわせている。
以上のように、丹後を護良の知行国と考えるなら、護良は和泉・紀伊に丹後を加えて、三ヵ国の国主権を保持したことになる。京都に近いこれらの国々の知行を完全委任された護良が、都の動静に重大な影響力をもったことは明らかであろう。
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うーむ。
この記述を読むと、確かに森氏が「定恒は丹後国の国司(あるいは守護)の立場にいたのではあるまいか。もしそうであれば、同国の知行国主も、護良であった可能性が高いといわねばならない」、「丹後を護良の知行国と考えるなら、護良は和泉・紀伊に丹後を加えて、三ヵ国の国主権を保持したことになる」と推測されることは理解できます。
しかし、森氏はこの禁制木札の例から、「右のように考えると、尊氏もまた同時期信濃国に対して何らかの公的な権限をもっていたのかもしれない」とされる訳で、ここには若干の論理の飛躍がありそうです。
以前、『足利尊氏』を通読したときは「丹波国金剛院所蔵の元弘三年六月日某定恒禁制木札」云々の記述の奇妙さに気づかなかったのですが、今回、なんじゃこりゃ、と思って『鎌倉遺文』を見たところ、問題の文書は、
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〇三二三〇八 某禁制<〇丹後金剛院蔵>
(木札)
禁制
丹後国志楽庄内鹿原山
(花押)
金剛院美福門院御願所
右、到于当庄内地頭下司以下人々等
任自由、彼寺山木切取輩、背
勅制歟、然者、可処重科之状如件、
元弘三年六月 日
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というものでした。
金剛院は丹波ではなく、丹後の寺院ですね。
金剛院 (舞鶴市)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%89%9B%E9%99%A2_(%E8%88%9E%E9%B6%B4%E5%B8%82)
さて、この制札を見ても、何故にこの制札から「護良は当時信濃国の知行国主の地位にあったのではないかと推測」できるのか分かりませんが、たぶんこの花押が護良右筆の「某定恒」のもので、森茂暁氏は「護良は当時【丹後】国の知行国主の地位にあったのではないかと推測」されたのだろうと推測できます。
そこで『皇子たちの南北朝』(中公新書、1988)を見たところ、次の記述がありました。(p50以下)
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定恒については、いま一つ注目すべき史料がある。丹後国志楽〔しらく〕荘内鹿原〔かはら〕山(現在京都府舞鶴市字鹿原)の真言宗寺院金剛院に所蔵される、元弘三年六月日禁制木札である。
この木札は本書で初めて紹介するものではなく、たとえば昭和六十一年に京都国立博物館で、「丹後・金剛院の仏像」と銘打った特別陳列が開催された際に作成された図録には、写真と読み本および簡単な説明が付されている。しかしそこにはこの禁制を発した者に関する言及はない。ちなみに、縦長の将棋の駒のような形をしたこの木札の寸法は、底辺二五・五センチ、頂点までの高さ四六・二センチ、左右の側辺三九・五センチである。
この禁制は美福門院(鳥羽院の皇后藤原得子)の祈願所である金剛院のために、同院の所在する志楽荘内に地頭・下司以下がはいりこみ、勝手に寺の山木を切り取ることを「勅制に背く」として禁止、犯過人を重科に処すことを布告したものである。注目すべきは、七行にわたって墨書された文面の真上中央にすえられた一つの大きな花押が、まごうことなく護良親王側近の一人、定恒のそれであることである。禁制木札の花押の主〔ぬし〕定恒の立場を、いかに考えるかはいくとおりかあろうが、さきの隆貞の例を参考にすれば、あるいは定恒は丹後国の国司(あるいは守護)の立場にいたのではあるまいか。もしそうであれば、同国の知行国主も、護良であった可能性が高いといわねばならない。
この禁制木札がかかげられた元弘三年六月は、護良が意気揚々と入京した月で、いわば護良勢力の絶頂期にあたっていた。その木札のかしらにすえられた堂々とした定恒の花押は、主君護良をうしろ楯にした定恒の威勢をうかがわせている。
以上のように、丹後を護良の知行国と考えるなら、護良は和泉・紀伊に丹後を加えて、三ヵ国の国主権を保持したことになる。京都に近いこれらの国々の知行を完全委任された護良が、都の動静に重大な影響力をもったことは明らかであろう。
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うーむ。
この記述を読むと、確かに森氏が「定恒は丹後国の国司(あるいは守護)の立場にいたのではあるまいか。もしそうであれば、同国の知行国主も、護良であった可能性が高いといわねばならない」、「丹後を護良の知行国と考えるなら、護良は和泉・紀伊に丹後を加えて、三ヵ国の国主権を保持したことになる」と推測されることは理解できます。
しかし、森氏はこの禁制木札の例から、「右のように考えると、尊氏もまた同時期信濃国に対して何らかの公的な権限をもっていたのかもしれない」とされる訳で、ここには若干の論理の飛躍がありそうです。
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