学問空間

「『増鏡』を読む会」、第10回は3月1日(土)、テーマは「二条天皇とは何者か」です。

資料:佐伯智広氏「二条天皇─夭折した正統の皇位継承者」

2025-01-30 | 鈴木小太郎チャンネル2025
樋口健太郎・栗山圭子/編『平安時代天皇列伝』(戎光祥出版、2023)
https://www.ebisukosyo.co.jp/item/703/

p361以下
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院政期に「親政」を布いた天皇

 歴史教科書等で、保元の乱から鎌倉幕府成立に至る平安末期の政治史の叙述を一読すると、貴族の主導者として武士に対したのは、一貫して後白河天皇(院)であったかのような印象を受ける。
 だが、実際には応保元年(一一六一)~仁安元年(一一六六)にかけて、後白河院政は中断していた。応保元年に後白河院政を停止して親政を行ったのが、二条天皇である。それはなぜ可能となったのか、また、二条はいかなる政治を行おうとしたのか、解説していこう。
【中略】
 こうした状況から、現在の研究において、当時の政治体制は信西政権と評されるほどであるが〔五味二〇一一〕、形式としては後白河による院政という形を取っていた。だが、院政という政治形態は、幼少の天皇に代わって直系尊属(父・祖父・曽祖父)として院が政務を代行するという根拠で行われていたから、二条が成長して政務を執ることが可能となる年齢(およそ二十歳前後)が近づくにつれ、後白河の執政を継続しようとする後白河派と、二条への執政交代を望む二条派との間で、利害の対立が生じつつあった。後白河派は、外戚である藤原氏閑院流や、近臣である藤原信頼・成親、源師仲(村上源氏)・義朝らであった。これに対し、二条派は、養母である美福門院や、外戚である藤原経宗(懿子の弟)、乳母子である藤原惟方、乳母の父である源光保(美濃源氏、武士)らであった。
 信西は長男の俊憲を二条の蔵人頭として二条への権力移行に備えていたが、弁官や播磨守といった院近臣にとっての主要ポストを息子たちに占めさせたことが、後白河派・二条派双方の敵意を買った。その結果、平治元年(一一五九)、藤原信頼の主導の下、源義朝を主力とする軍勢が、信西の詰めていた後白河の院御所三条殿を襲撃した。これが平治の乱である。
 重要な点は、本来は後白河の近臣であった信頼・義朝らが、後白河の院御所を襲撃していることである。信西は自殺に追い込まれたが、その後の論功行賞も、二条の命令という形式で行われており、後白河は大内裏の一本御書所に押し込められていた。信頼・義朝らは、後白河を見限って、二条派に乗り換えを図ったのである。
 もっとも、旧来の二条派にとってみれば、信西という共通の敵を倒すために後白河派の近臣と手を結んだものの、一時的な呉越同舟であって、本来的な利害は対立する。かくして、二条派は、帰京した中立かつ最大の武力を有する平清盛と連携し、二条を清盛の六波羅第へと脱出させる。後白河にも仁和寺に脱出された旧後白河派は、清盛を中核とする官軍との合戦にも敗北し、平治の乱は終結したのである。
 乱の結果、旧後白河派のうち、信頼は死刑、義朝は東国に落ち延びる途中尾張国で家人長田忠宗(到)によって討たれ、師仲は下野国に流罪、成親は解官などの処分を受けた。ところが、最終的に官軍として勝利したはずの二条派も、経宗・惟方は乱の二ヶ月後に後白河院の命によって捕えられ流罪、光保は乱の半年後に薩摩国に流罪とされ、配流先で殺害されてしまった。直接的な罪状は、経宗・惟方は後白河院に無礼を働いたこと、光保は謀反の噂であったが、背景には、平治の乱を首謀したことに対する貴族社会の反感があったものと考えられている(以上、平治の乱については〔元木二〇一二〕)。
 こうした平治の乱の顛末は、一見すると後白河・二条双方にとって痛み分けに見える。だが、後白河にとって最大の支持基盤であった外戚の閑院流は、乱の原因に一切関与しておらず無傷であった。閑院流はすでに乱前に大臣への昇進を果たすなど摂関家に次ぐ勢力を有しており、信西一門や他の近臣たちは、直接の競争相手ではなかった。この点は摂関家傍流の出身である経宗も同様であり、乱に積極的に関わる必要性はなかったのだが、摂関の地位を狙ってはいたものの、現実には父も自身も大臣昇進すら果たしていなかった焦りが、経宗を乱へと駆り立てたのであろう。
 加えて、平治の乱からおよそ一年後の永暦元年(一一六〇)十一月、二条にとっての最大の庇護者であった美福門院が死去する。こうして二条が自派の有力者をことごとく失った状況下で、応保元年(一一六一)九月、後白河と寵姫平滋子(建春門院)との間に、新たに皇子(のちの高倉天皇)が誕生する。これは二条にとって最大の危機となりえる事態であったが、現実にはこれを機に後白河は政務から排除され、二条は親政を確立するに至った。それはいかにして成ったのか。

二条親政の成立

 平治の乱の直後、二条は政治的自立の道を歩み始めていた。その第一歩が、乱翌月の永暦元年(一一六〇)正月に行われた、藤原多子〔まさるこ〕の再入内である。多子は閑院流の藤原公能の娘で、久安六年(一一五〇)に摂関家の藤原頼長の養女として近衛の皇后となったが、近衛の死後は皇太后を経て太皇太后とされていた。本来、太皇太后は天皇の祖母に与えられる称号であるが、当時は新帝の后が立てられる際に以前の天皇の后がところてん式に押し出されて祭り上げられる地位となっており、多子はいまだ二十二歳【ママ】であった。
 とはいえ、日本において天皇の后が再入内した前例はなく、その後も現代にいたるまで行われていない。二条がそのような前代未聞の行動に出た理由を、『平家物語』は多子が天下第一の美人であったためとするが、政治的に重要な点は、多子が閑院流の出身であったことであり、当時の権大納言・右大将の要職にあった公能は、再入内を渋る多子を、公能は「皇子が誕生すれば私も外祖父になる」と説得したと『平家物語』は伝える。それが事実か定かではないが、再入内後の同年八月に公能が右大臣へと昇進したように、公能にとって多子の再入内が政治的にプラスに働いたことは間違いなく、二条の意図は、後白河の外戚である閑院流を自派に取り込むことにあったと考えられる。
 そしてもう一つ、『平家物語』は、後白河の再入内反対を、二条が「天子に父母なし」と押し切ったとする。これも真偽は定かではないが、院と天皇が婚姻をめぐって対立したことについては先例が存在する。それは、保安元年(一一二〇)、十八歳の鳥羽天皇が祖父白河院の意向に背いて関白藤原忠実の娘泰子(高陽院)を后に迎えようとした事件である。このときは激怒した白河によって忠実が謹慎させられ(翌年関白辞任)、保安四年に鳥羽は崇徳天皇へと譲位させられているが、成人した天皇が親権者たる院からの政治的自立を目指したとき、皇位継承問題と密接にかかわる天皇の配偶者の選択は、一つの着火点たり得たのだ。
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資料:『平家物語』巻第一「二代后」〔2024-12-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6998d04985f1ea7a2034bdf9faf3947a
資料:『源平盛衰記』巻第二(ろ巻)「二代后の事 附 則天皇后の事」〔2025-01-16〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/eff0f461d9bea75d10cfa4ef78002876
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