投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年10月 2日(日)12時17分8秒
一昨日の投稿で「そのあたりの事情は孫崎氏が一部を孫引きする鈴木武雄編『田中耕太郎 人と業績』の横田喜三郎の寄稿を見れば明らかで」と書きましたが、同書を確認してみたら、横田の寄稿ではなく、座談会記録「田中耕太郎先生を偲ぶⅡ 人と生活」(参加者:鈴木竹雄・松田二郎・横田喜三郎・田中二郎・相良惟一・豊崎光衛)の中での横田の発言の方でした。(p622以下)
ただ、田中耕太郎が国際司法裁判所裁判官の候補となった事情、選挙戦の状況等は鶴岡千仭氏の寄稿に詳しいので、参考までにそちらを紹介しておきます(p434以下)
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ヘーグの田中先生
一
昭和三十四年の夏、わたくしが国連局長になって程ないときであった。田村町四丁目の日産館に間借り住いをしていた外務省の国連局長室に、山田三良先生が前ぶれなしでお見えになった。右手をつきそいの女性の肩におき、左手をステッキでささえて。もうずいぶんおみ脚が不自由だった。
「来年は国際司法裁判所の選挙の年だが、政府はどんな方針でのぞむつもりなのか。」先生から口を切られた。
かねがね政府は国際法委員会にも国際司法裁判所にも日本から適材をおくりこみたいと念っていること、国際法委員の方は三年前に日本が国連に加盟したときの総会で横田喜三郎先生が選出されたこと、しかし裁判官の方は、栗山茂大使(元ベルギー大使、元最高裁裁判官)をたてて戦ったけれども、そのときの相手方はヘーグの前裁判官で再選を狙う顧維鈞だったし、第一彼は安保理常任理事国である中国の出身で、裁判官の選挙では安保常任国出身の候補者は必ず当選させるという不文律にささえられていたこと、国連に加盟したばかりの日本と安保常任国の中国との取組みは新入幕力士と大関の相撲みたいにてんから位負けの恰好であったこと、それやこれやの原因でけっきょくは敗けてしまったこと、などをお話した上で、わたくしは、「今では日本の発言力もずっと向上しているので、適当な候補者を立てれば成功の見込みがありそうです。こんどこそは、ぜひとも日本人裁判官をヘーグにおくりこみたいと存じます」とお答えした。
「政府がそういう考えであれば、わたしも安心しました。ところで誰を候補者に指名するつもりですか。」
「まだどなたとも決っておりません。横田(喜三郎)先生は御家庭の事情があるとおっしゃって、ヘーグに行く気持ちは全然ないと言い切っていらっしゃいます。」「ほんのわたくし限りの思いつきですが、」とおことわりして申し上げた。「この際何とか田中耕太郎先生に御出馬いただけないでしょうか。最高裁長官の方は間もなく退官されるときが来ているので、任期いっぱい在任なさって、退官後ひきつづきヘーグにお出かけになれるわけです。好都合なタイムテーブルだと思います。」
「それはいいところに目をつけてくれた。田中君なら国際法専門ではないけれど、立派な候補だ。一日も早く田中君を候補にするように政府の肚をかためたまえ。たしかにこの際田中君は最高の人選だ。田中君とは、田中君がわたしの膝の上でおむつを濡らした時分からの長いおつきあいだ。田中君にはわたしから候補指名を引き受けるように説得する。もっとも、それより前に政府が田中君に御苦労を頼むことに決心してもらわなければならない。君たち、事務当局の方ではもう田中君を推すことにしているのだから、わたしはこの足で岸君(当時の総理)を訪れることにしよう。」矢つぎ早やの勢いこんだお話である。古武士を思わせるあのお顔にいくぶん上気した紅潮のさすのをお見うけしたと思う。
国際司法裁判所は条約局長の主管事項なので、さっそくその場に高橋通敏条約局長に御足労ねがって協議した。高橋局長にも異論のあろう筈がなく、われわれは田中候補指名の方向で選挙準備を進めることになった。
山田先生には、外務省の仕事でたびたび御指導にあずかる機会にめぐまれた。がそれよりも、先生の娘婿の福井勇二郎君と小学校以来ずっと悪友の間柄であったことや、一高時代から江川英文先生とお親しくしていただいていた関係もあって、山田先生にはかなり頻繁にお目にかからせていただいたのだが、後にも先にもこの時ほど山田先生の気負い立った御様子を目にした例しはなかったと思う。俗っぽい言い方で恐縮だが、山田先生がどれだけ高く田中先生を買っておられたかを目のあたり拝見したような気がした。
当の田中耕太郎先生からはなかなか色よい御返事がなかったが、とどのつまりは「引きうける」ことに踏みきっていただくことができた。
「七十歳にもなってから、外国で新しい仕事にとりかかることだ。それも九年間、七十九歳の高齢に達するまでヘーグに踏みとどまる必要がある。君たちのせっかくの申し出とは知りながら、おいそれと引きうけられなかったのはわかってもらえるだろう。といって、山田先生からはわたしの出馬が日本として世界の国際法秩序の確立強化に貢献する所以であると大上段に攻めたてられるし、大磯のおじいさん(吉田茂元総理)からは、大事な仕事だから引きうけたらいいだろうといった風におさえつけられる。そんなこんなで渋々ながら覚悟をきめたわけです。最高裁をやめたら研究と著述の生活にかえりたいと思っていた。どっしりと腰の据わった民主主義や平和主義を日本に植えつけるために、世論におもねらず、老後の余力を尽くしたいとも念っていた。そうした念願を捨て去れねばならないのが心残りであった。」その頃のお気持を田中先生はそんな風に述懐しておられた。
【後略】
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山田三良(国際私法学者。東京帝大教授、京城帝大総長、日本学士院院長)は1869年生まれ、田中耕太郎より21歳上で、昭和34年(1959)の時点では90歳ですね。
ウィキペディアあたりで見るとひたすら華麗な経歴の持ち主ですが、実際に『回顧録』(山田三良先生米寿祝賀会、1957年)を読んでみると、若い頃は学歴面で理不尽な差別に苦しんだ人であり、普通の功なり名を遂げた学者の回想とは一味異なる興味深い記述が多いですね。
そして山田夫人は西洋砲術の江川太郎左衛門の子孫で、山田夫人の弟が江川英文(東大教授、国際私法、1898-1966)です。
江川家は日蓮宗の世界では大変な名家で、中山法華経寺にある聖教殿の建立には夫人の影響を受けて日蓮宗に帰依した山田三良がずいぶん貢献したそうです。
山田三良(1869-1965)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E4%B8%89%E8%89%AF
「法華経に支えられた人々 山田三良」
http://www.nichiren.or.jp/people/20090222-69/
さて、私は孫崎享氏の著書を読んだことがなかったので、『戦後史の正体 1945-2012』(創元社、2012)、『アメリカに潰された政治家たち』(小学館、2012)と、鳩山由紀夫・植草一秀氏との共著『「対米従属」という宿痾』(飛鳥新社、2013年)の三冊をパラパラと眺めてみましたが、あまり感心しませんでした。
こういう人が外務省国際情報局長という要職にいたとは信じられないのですが、総合的な知性の面では田中耕太郎とは差が大きいので、孫崎氏が田中耕太郎を評するのには元々無理がありそうですね。
一昨日の投稿で「そのあたりの事情は孫崎氏が一部を孫引きする鈴木武雄編『田中耕太郎 人と業績』の横田喜三郎の寄稿を見れば明らかで」と書きましたが、同書を確認してみたら、横田の寄稿ではなく、座談会記録「田中耕太郎先生を偲ぶⅡ 人と生活」(参加者:鈴木竹雄・松田二郎・横田喜三郎・田中二郎・相良惟一・豊崎光衛)の中での横田の発言の方でした。(p622以下)
ただ、田中耕太郎が国際司法裁判所裁判官の候補となった事情、選挙戦の状況等は鶴岡千仭氏の寄稿に詳しいので、参考までにそちらを紹介しておきます(p434以下)
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ヘーグの田中先生
一
昭和三十四年の夏、わたくしが国連局長になって程ないときであった。田村町四丁目の日産館に間借り住いをしていた外務省の国連局長室に、山田三良先生が前ぶれなしでお見えになった。右手をつきそいの女性の肩におき、左手をステッキでささえて。もうずいぶんおみ脚が不自由だった。
「来年は国際司法裁判所の選挙の年だが、政府はどんな方針でのぞむつもりなのか。」先生から口を切られた。
かねがね政府は国際法委員会にも国際司法裁判所にも日本から適材をおくりこみたいと念っていること、国際法委員の方は三年前に日本が国連に加盟したときの総会で横田喜三郎先生が選出されたこと、しかし裁判官の方は、栗山茂大使(元ベルギー大使、元最高裁裁判官)をたてて戦ったけれども、そのときの相手方はヘーグの前裁判官で再選を狙う顧維鈞だったし、第一彼は安保理常任理事国である中国の出身で、裁判官の選挙では安保常任国出身の候補者は必ず当選させるという不文律にささえられていたこと、国連に加盟したばかりの日本と安保常任国の中国との取組みは新入幕力士と大関の相撲みたいにてんから位負けの恰好であったこと、それやこれやの原因でけっきょくは敗けてしまったこと、などをお話した上で、わたくしは、「今では日本の発言力もずっと向上しているので、適当な候補者を立てれば成功の見込みがありそうです。こんどこそは、ぜひとも日本人裁判官をヘーグにおくりこみたいと存じます」とお答えした。
「政府がそういう考えであれば、わたしも安心しました。ところで誰を候補者に指名するつもりですか。」
「まだどなたとも決っておりません。横田(喜三郎)先生は御家庭の事情があるとおっしゃって、ヘーグに行く気持ちは全然ないと言い切っていらっしゃいます。」「ほんのわたくし限りの思いつきですが、」とおことわりして申し上げた。「この際何とか田中耕太郎先生に御出馬いただけないでしょうか。最高裁長官の方は間もなく退官されるときが来ているので、任期いっぱい在任なさって、退官後ひきつづきヘーグにお出かけになれるわけです。好都合なタイムテーブルだと思います。」
「それはいいところに目をつけてくれた。田中君なら国際法専門ではないけれど、立派な候補だ。一日も早く田中君を候補にするように政府の肚をかためたまえ。たしかにこの際田中君は最高の人選だ。田中君とは、田中君がわたしの膝の上でおむつを濡らした時分からの長いおつきあいだ。田中君にはわたしから候補指名を引き受けるように説得する。もっとも、それより前に政府が田中君に御苦労を頼むことに決心してもらわなければならない。君たち、事務当局の方ではもう田中君を推すことにしているのだから、わたしはこの足で岸君(当時の総理)を訪れることにしよう。」矢つぎ早やの勢いこんだお話である。古武士を思わせるあのお顔にいくぶん上気した紅潮のさすのをお見うけしたと思う。
国際司法裁判所は条約局長の主管事項なので、さっそくその場に高橋通敏条約局長に御足労ねがって協議した。高橋局長にも異論のあろう筈がなく、われわれは田中候補指名の方向で選挙準備を進めることになった。
山田先生には、外務省の仕事でたびたび御指導にあずかる機会にめぐまれた。がそれよりも、先生の娘婿の福井勇二郎君と小学校以来ずっと悪友の間柄であったことや、一高時代から江川英文先生とお親しくしていただいていた関係もあって、山田先生にはかなり頻繁にお目にかからせていただいたのだが、後にも先にもこの時ほど山田先生の気負い立った御様子を目にした例しはなかったと思う。俗っぽい言い方で恐縮だが、山田先生がどれだけ高く田中先生を買っておられたかを目のあたり拝見したような気がした。
当の田中耕太郎先生からはなかなか色よい御返事がなかったが、とどのつまりは「引きうける」ことに踏みきっていただくことができた。
「七十歳にもなってから、外国で新しい仕事にとりかかることだ。それも九年間、七十九歳の高齢に達するまでヘーグに踏みとどまる必要がある。君たちのせっかくの申し出とは知りながら、おいそれと引きうけられなかったのはわかってもらえるだろう。といって、山田先生からはわたしの出馬が日本として世界の国際法秩序の確立強化に貢献する所以であると大上段に攻めたてられるし、大磯のおじいさん(吉田茂元総理)からは、大事な仕事だから引きうけたらいいだろうといった風におさえつけられる。そんなこんなで渋々ながら覚悟をきめたわけです。最高裁をやめたら研究と著述の生活にかえりたいと思っていた。どっしりと腰の据わった民主主義や平和主義を日本に植えつけるために、世論におもねらず、老後の余力を尽くしたいとも念っていた。そうした念願を捨て去れねばならないのが心残りであった。」その頃のお気持を田中先生はそんな風に述懐しておられた。
【後略】
-------
山田三良(国際私法学者。東京帝大教授、京城帝大総長、日本学士院院長)は1869年生まれ、田中耕太郎より21歳上で、昭和34年(1959)の時点では90歳ですね。
ウィキペディアあたりで見るとひたすら華麗な経歴の持ち主ですが、実際に『回顧録』(山田三良先生米寿祝賀会、1957年)を読んでみると、若い頃は学歴面で理不尽な差別に苦しんだ人であり、普通の功なり名を遂げた学者の回想とは一味異なる興味深い記述が多いですね。
そして山田夫人は西洋砲術の江川太郎左衛門の子孫で、山田夫人の弟が江川英文(東大教授、国際私法、1898-1966)です。
江川家は日蓮宗の世界では大変な名家で、中山法華経寺にある聖教殿の建立には夫人の影響を受けて日蓮宗に帰依した山田三良がずいぶん貢献したそうです。
山田三良(1869-1965)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E4%B8%89%E8%89%AF
「法華経に支えられた人々 山田三良」
http://www.nichiren.or.jp/people/20090222-69/
さて、私は孫崎享氏の著書を読んだことがなかったので、『戦後史の正体 1945-2012』(創元社、2012)、『アメリカに潰された政治家たち』(小学館、2012)と、鳩山由紀夫・植草一秀氏との共著『「対米従属」という宿痾』(飛鳥新社、2013年)の三冊をパラパラと眺めてみましたが、あまり感心しませんでした。
こういう人が外務省国際情報局長という要職にいたとは信じられないのですが、総合的な知性の面では田中耕太郎とは差が大きいので、孫崎氏が田中耕太郎を評するのには元々無理がありそうですね。
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