投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 3月27日(木)10時49分59秒
桜井英治氏の「中世史への招待」、面白いと思ったのは前回引用したところまでで、そこから先は妙な文章が続きますね。(p7)
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そもそも理論というものはどのような環境から生まれてくるのか。狭義の歴史家ではないけれども、イマニュエル・ウォーラーステインやベネディクト・アンダーソンがそれぞれアフリカ研究やインドネシア研究からスタートしたことはその点で示唆的である。茫漠とした荒野にも似た貧しい資源と、そこから来る一定の開き直り(もしくは一発逆転を狙う射幸心)が理論の形成にとって不可欠な条件をなしているとすれば、日本中世史がそこからもっとも遠い環境にあることは一目瞭然ではないか。たぶんそこには理論を生むのに必要な渇きが足りないのである。
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「茫漠とした荒野」が具体的に何を意味するのかはわかりませんが、アフリカ研究やインドネシア研究の例に即して考えると、文書史料の乏しい研究領域ということでしょうか。
とすると、「腕のよい職人たちのそろった下請け町工場」から任意の職人を選んで、そのような文書史料の乏しい「茫漠とした荒野」に放り込めば、そこで「理論」が生まれるのですかね。
また、「一発逆転を狙う射幸心」が「理論の形成にとって不可欠な条件をなしているとすれば」とありますが、例えば誰しも理論家と認めるところのマックス・ウェーバーには「一発逆転を狙う射幸心」など欠片もないですね。
「不可欠な条件」とあるので、反証をひとつあげれば桜井英治氏の「一発逆転を狙う射幸心」が「理論の形成にとって不可欠な条件をなしている」という莫迦莫迦しい命題は粉砕することが可能ですね。
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あらためて近年の中世史研究の動向を見るとき、あいかわらず勢力を誇っている「理論」とは黒田俊雄の権門体制論である。あまりに常識的で予定調和的としかいいようのないこの「理論」が、かくも強靭な生命力を保っている理由がどこにあるかといえば、それはまさにすべてを包みこんでしまう包容力にあろう。理論を生産する力量に欠ける時代─もっと正確にいえば、理論を心底からは渇望していないのかもしれない時代─には、このようにかぎりなく透明に近い「理論」が時を得るのは見やすい道理である。
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「理論を生産する力量に欠ける時代」は明確ですが、「理論を心底からは渇望していないのかもしれない時代」は極めて不明確で、何故に「もっと正確にいえば」でつながるのか、全く理解できません。
「あまりに常識的で予定調和的としかいいようのないこの「理論」が、かくも強靭な生命力を保っている理由がどこにあるかといえば」、それは後続の研究者が黒田俊雄氏より知性において劣るからではないですかね。
ごくごく素直に考えれば、「理論」の不在の理由は「理論を生むのに必要な渇きが足りない」からではなくて、理論を生むのに必要な「知性」が足りないからだと思います。
現在の大多数の中世史研究者の知的水準が、それなりの理論を生んだ石母田正・永原慶二・黒田俊雄氏らの先行する世代の研究者に比べて劣化していることは「一目瞭然」ではないですかね。
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