第269回配信です。
一、前回配信の補足
資料:佐伯智広氏「二条親政の成立」(その1)〔2025-02-21〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bfbb33d914c9ce7337a84490d035e83d
資料:佐伯智広氏「二条親政の成立」(その1)〔2025-02-21〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bfbb33d914c9ce7337a84490d035e83d
佐伯説の特徴は閑院流(徳大寺家)の重視。
この点は第256回配信で批判的に検討したことがある。
0256 桃崎説を超えて。(その21)─「二代后」についての佐伯智広氏の解釈〔2025-01-30〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/159b4c8a6e837817f375cd8c757a3724
また、佐伯氏は「後白河の王権」「後白河の親権」を重視。
「鳥羽院が後白河の王権を強化する必要に迫られていた」
「鳥羽院の意図は、単なる守仁と美福門院との関係強化だけではなく、姝子を介して守仁の後宮を後白河に掌握させることにあった」
「後白河の親権強化策の一環」
「守仁への皇位継承を前提とする限り、その正統性や父としての守仁に対する優位は、鳥羽院によって保障されていた」
しかし、鳥羽院が後白河を今様狂いの政治的には無能な人、帝王の器でないと考えていたことは動かしがたいのではないか。
「後白河の王権を強化」云々も、二条天皇が(佐伯説によれば二十歳くらいになるまでの)「中継ぎ」として、それなりにしっかりやってくれればよい、といった淡い期待程度ではないか。
「姝子を介して守仁の後宮を後白河に掌握」はあまりに大袈裟であろう。
二、佐伯智広説の問題点(その2)
資料:佐伯智広氏「二条親政の成立」(その2)〔2025-02-22〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7ccff8868af1121075d2063cea3ea493
「美福門院が反対していれば多子の再入内は実現しなかったはずであり、実際には美福門院もこれを容認していたと考えられる」とあるが、この時期の美福門院の動向は不明。
桃崎有一郎編・著『山槐記・三長記人名索引』によれば、美福門院に関する記録は平治元年(1159)三月三日以降、永暦元年(1160)十一月三日まで、一年八カ月間空白。(p310)
『山槐記・三長記人名索引』(日本史史料研究会、2014)
https://cir.nii.ac.jp/crid/1130282272989069056
従って、美福門院が容認した云々は史料解釈の問題ではなく、むしろ佐伯氏の人間観の反映であろう。
私は「二代后」問題で美福門院・姝子内親王と二条天皇の関係は決裂していたと考える。
0257 桃崎説を超えて。(その22)─「二代后」についての桃崎有一郎氏の解釈〔2025-01-31〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/29e5cd6a6a174745db31aa1d6d931efd
0258 桃崎説を超えて。(その23)─「二代后」についての河内祥輔氏の解釈〔2025-02-01〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/50bf14efda18d12f2a7095bf4d89c1e1
姝子内親王(高松院)の院号宣下について
⑥保元4年(1159)2月21日
姝子内親王(十九歳)中宮
→藤原忻子(二十六歳)皇后
藤原呈子(二十九歳)皇太后
藤原多子(二十歳) 太皇太后
⑦応保2年(1162)2月19日
※姝子内親王(二十二歳)、院号宣下(高松院)→中宮ではなくなる。
藤原育子(十七歳)中宮
藤原忻子(二十九歳)皇后
藤原呈子(三十二歳)皇太后
藤原多子(二十三歳)太皇太后
⑧仁安3年(1168)3月14日
※藤原呈子(三十八歳)、院号宣下(九条院)→皇太后ではなくなる。
藤原育子(二十三歳)中宮
藤原忻子(三十五歳)皇后
藤原多子(二十九歳)太皇太后
⑨承安2年(1172)2月10日
※平徳子(十八歳) 中宮
藤原育子(二十七歳)皇后
藤原忻子(三十九歳)皇太后
藤原多子(三十三歳)太皇太后
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