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ベック式!難単語暗記法ブログ

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朝鮮の日本記述史料

2018-03-09 | Weblog

 

乾パンご飯 ギチこちょ送信。

 

書(かんじょ)地理志 班固 後漢書(ごかんじょ)東夷伝 范曄でん)・志倭人伝(わじん陳寿(太王碑 長寿王・宋書(そうじょ)倭国伝 沈約

書(かんじょ)地理志 班固 後漢書(ごかんじょ)東夷伝(とういでん)・志倭人伝(わじんでん))(太王碑文・宋書(そうじょ)倭国伝(わこくでん))


[ポイント]
1.日本古代史に関する中国・朝鮮重要史料は時代順に、漢書地理志後漢書東夷伝魏志倭人伝好太王碑文宋書倭国伝の5つである。

[解説]
1.漢書地理志:「夫(そ)れ楽浪(らくろう)海中(かいちゅう)に倭人(わじん)有(あ)り、分れて百余国と為(な)る。歳事(さいじ)を以(も)って来(きた)り献見(けんけん)(定期的に朝貢)すと云(い)ふ」

2.後漢書東夷伝
 (1) 57年に奴国(なこく)王が後漢の光武帝から印綬(金印と組紐(くみひも)のセット)を授かる。
 (2) 107年に倭の国王帥升(すいしょう)が生口160人を献上した。
 (3) 桓霊の間(=2世紀後半)、倭国大乱が起こった。

3.1784年、福岡県の志賀島(しかのしま)で「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」の5字が刻まれた金印が出土している(「委」の字が「倭」でないことに注意)。

4.魏志倭人伝
 (1) 「倭人は帯方(たいほう)の東南大海の中に在(あ)り、……旧(もと)百余国、漢の時朝見する者有り今使役通ずる所三十国。郡より倭に至るには……邪馬台国(やまたいこく)に至る。
 (2) 「大人(たいじん)-下戸(げこ)-」という身分差があり、「一大率(いちだいそつ)」という役所が伊都国など諸国の検察にあたり、「大倭(だいわ)」が国々の市を取り締まった。
 (3) (景初二年は三年の誤りで)239年に邪馬台国女王卑弥呼が魏に大夫(たいふ)・難升米(なしめ)らを遣使し、『親魏倭王』の称号と銅鏡を受ける。
 (4) 卑弥呼の死後、男王では治まらず、卑弥呼の宗女壱与(いよ)年十三なるを立てる。壱与は266年に西晋へ遣使。」 

5.邪馬台国について畿内説をとれば3世紀半ばには統一政権成立、九州説をとるとまだ一地方政権ということになり、統一政権成立に半世紀のずれが生じる。

6.広開土王碑文:391年から404年まで、倭が断続的に高句麗と戦った。

7.宋書倭国伝:478年の倭王をはじめ倭の五王南朝に朝貢していた。

[正誤問題]


1.魏志倭人伝では、倭人は楽浪(郡)の東南大海の中にあると記述している。(×帯方(郡)の誤り)

〈2015早大・人間科学

問4 下線部d中国の皇帝へ朝貢を行い、それを日本列島のなかでの自らの権威強化に利用しようとする者も出てきたに関連する記述として、誤っているものはどれか、1つ選べ。
 ア『漢書』地理志には、倭人が定期的に楽浪郡に朝貢していたことが記されてる。
 イ『後漢書』東夷伝には、倭の奴国王が金印を授かったことが記されている。
 ウ『後漢書』東夷伝には、倭の国王帥升が奴隷を献上したことが記されている。
 エ『魏志』倭人伝には、邪馬台国の女王卑弥呼が親魏倭王の称号を授かったことが記されている。
 オ『魏志』倭人伝には、邪馬台国が、伊都国との戦争に際し魏の皇帝の権威を利用したことが記されている。(×※伊都国は邪馬台国(連合)内の一国で敵ではない)」〉

〈2013青山学院・文教育経済法経営など

5世紀になると、日本列島の王は、中国大陸の王朝にしばしば使者を派遣するようになった。たとえば[ ア ]によると、倭王珍は中国の南朝に使者を送り、次のように特別な官名を求めたことが知られる。」
問1.空欄[ ア ]に入る語句として正しいものを、次の1~4の中から一つ選んでマークしなさい。
 1『後漢書』東夷伝 2『魏志』倭人伝 3『漢書』地理志 4『宋書』倭国伝」(答:4)〉

〈2013早大・国際教養

問2.卑弥呼の死後、再び倭国は大いに乱れたが、[ A ]があとを継ぐと、乱はおさまった。空欄[ A ]に該当する人名を漢字2字で記述解答用紙に記せ。(答:壱与)

問3.下線部b好太王碑文が所在するのは現在の中国のどこか。1つ選んで、マーク解答用紙の該当記号をマークせよ。
 ア遼寧省 イ山東省 ウ吉林省 エ黒竜江省 オ河北省)」(答:ウ)〉

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中国・朝鮮の日本記述史料の編著者

2018-03-09 | 入試問題+ゴロ合わせ


乾パンご飯 ギチこちょ送信。

 

書(かんじょ)地理志 班固 後漢書(ごかんじょ)東夷伝 范曄でん)・志倭人伝(わじん陳寿(太王碑 長寿王・宋書(そうじょ)倭国伝 沈約



[ポイント]
1.漢書の著者は班固後漢書の著者は范曄魏志の著者は陳寿宋書の撰者は沈約である。

[解説]
1.『漢書地理志は、
 (1) 前漢(前202~後8)の正史。1世紀に(前漢ではなく)後漢班固によって著された。
 (2) 『漢書』の記述により、弥生時代中期には、
  1)倭とよばれていた地域(現日本)が小国に分立しており、
  2)その一部の国が朝鮮半島の楽浪郡と定期的に通交していたことの2点がわかる。日本に関する記述は120巻中たった1行「夫れ楽浪海中に倭人有り、分れて百余国と為る。歳事を以って来り献見すと云ふ」とあるのみ。
 (3) しかし前1世紀前後の日本を記す文献は世界中でこれだけなので、きわめて貴重な史料。中国がたった1行分でも日本列島に関心を持ってくれたことに感謝しよう。足りない部分は考古学的出土史料と科学的?想像力で補完するしかない。

2.『後漢書』は
 (1) 後漢(25~220)の正史。5世紀に南朝((東晋→))の范曄が著した。東夷伝はこの『後漢書』の一部で、1~2世紀の日本列島について記している。
 (2) 
  1) 57年に奴国(なこく)が後漢の光武帝から印綬(印鑑と組みひものセット)を授かったこと、
  2) 107年にの国王帥升(すいしょう)が生口(奴隷か?)160人を献上したこと、
  3) この後の2世紀後半倭国に大乱が起こったことの3つの記事が重要。
 (3) なお1784年に福岡県志賀島(しかのしま)で、この印とほぼ断定できる金印が発見された。その印面には「漢委奴国王」の5字が刻まれており、その「委」の字に「人偏(にんべん)」がないことに注意。

3.『魏志』は
 (1) 三国時代(220~265)に関する歴史書『魏書』の通称。3世紀末、西晋の陳寿(ちんじゅ)の撰。『蜀書』『呉書』とセットで『三国志』と称される。倭人伝はその『魏志』の一部である「東夷伝倭人の条のこと。現存する最古の『三国志』は12世紀のものであるため、写本の過程で地名や年代に誤写の可能性があると指摘されている。
 (2) 邪馬台国についての記述が詳細を究めている。
 (3) その位置の記述はあいまいで、畿内説(大和説)、北九州説の論争を生んだ。
  1)畿内説をとれば、邪馬台国=大和王権となり、すでに3世紀半ばには西日本を領域とする統一政権が成立していたことになる。
  2)北九州説をとると、邪馬台国は九州北部を支配する一地方政権ということに限られる。すなわち、日本の統一が約半世紀ずれることになるので重大だ。
 (4) 「大いに冡(つか)をつくる」とある卑弥呼の墓が、前期古墳のなかで最大規模の前方後円墳である箸墓(はしはか)古墳(奈良県)ではないかと有力視されている。考古学的新発見による解決が望まれる。

4.『高句麗好太王碑文』は
 (1) 中国の史書に日本関係の記述が、266年(邪馬台国宗女壹与(いよ)(壱与)が西晋へ遣使)~413年(倭の五王遣使)までの約150年間ない。このいわゆる「謎の4世紀」を埋める史料。
 (2) 王の子長寿王が父の勲功を記念して鴨緑江中流北岸の丸都城(がんとじょう)(現在の中華人民共和国吉林省)に建てた石碑の銘文。高さ約6.4mの石柱の四面に約1800の文字が刻まれている。
 (3) 碑文には391年から404年まで、倭が断続的に高句麗と戦ったことが記されている。400年前後の東アジアの国際関係を知る上で、不可欠の史料。

5.『宋書』は
 (1) 魏晋南北朝の南朝・の正史。南朝の沈約(しんやく)の撰。その一部が「倭国伝(夷蛮伝倭国条)」である。この中に478年の「倭王武の上表文」がある。そこには大和王権による国土統一の過程が記述され、倭の五王が南朝に朝貢していたことが書かれている。
 (2) 当時朝鮮半島では百済高句麗の圧迫に苦しみ、その同盟国も有効な反撃が出来ないでいた。そのため上表文には軍事的劣勢を対宋外交により挽回するねらいが託されている。しかしより高句麗の方を重視しており、高句麗と対等の地位に立つことも容認せず、百済地域についての倭の軍事支配権も認めず、成果は空しかった。

〈2014明大・情報コミュ(情報コミュ(A))

晋の( ア )が編纂した『三国志』に含まれる通称「魏志倭人伝」には女性首長(イ)卑弥呼の叙述がある。問1 空欄( ア )に入る人名として、もっとも正しいものを、次の1~4のうちから1つ選び、マーク解答欄に記入しなさい。
 1班固 2陳寿 3范曄 4沈約」(答:2)

〈2013早大・国際教養

問1.下線部a『魏志』について、この史書の編纂者は誰か。1つ選んで、マーク解答用紙の該当記号をマークせよ。
 ア沈約 イ陳寿 ウ班固 エ司馬遷 オ范曄」(答:イ陳寿)〉

 

 

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4世紀の朝鮮諸国(三韓)

2018-03-09 | Weblog

356年 南東部の辰韓を統一し、新羅建国。奈勿尼師今即位。

見頃辰韓 新羅成る。

356年 辰韓を統一 新羅 奈勿尼師今

 

 紳士等便から馬鹿百済。

韓 羅 弁韓 加羅 馬韓 百済
[ポイント]
1.4世紀の朝鮮半島では、辰韓新羅馬韓百済として独立、弁韓加羅(伽耶)諸国が分立。

[解説]
1.中国東北部からおこった高句麗は、魏、次いで晋が経営していた楽浪郡帯方郡を、313年に滅ぼした。

2.一方、朝鮮半島南部では馬韓辰韓・弁韓(弁辰)というそれぞれ小国の連合が形成されていたが、4世紀には馬韓から百済が、辰韓から新羅がおこり、国家を形成した。

3.さらに4世紀後半に高句麗が南下策を進めると、朝鮮半島南部の鉄資源を確保するために、はやくからかつての弁韓の地の伽耶諸国(加羅)と密接な関係を持っていた倭国(ヤマト政権)も、高句麗と争うことになった。

4.高句麗の好太王碑の碑文には、倭が高句麗と交戦したことがしるされている。高句麗の騎馬軍団との戦いは、乗馬の風習がなかった倭人たちに、いやおうなしに騎馬技術を学ばせ、5世紀になると日本列島の古墳にも馬具が副葬されるようになった。

5.またこの戦乱を逃れた多くの渡来人が海をわたって、さまざまな技術や文化を日本に伝えた。

6.『日本書紀』では加羅諸国を「任那(みまな)」とよんでいる。

〈2015早大・人間科学:「
問6 下線部fまた律令国家の建設に関連して、4~5世紀の日本列島と朝鮮半島の動向について述べた文として、正しいものはどれか、1つ選べ。
 ア 江田船山古墳出土鉄刀には、朝鮮半島への出兵が記されている。(×)
 イ 弁韓地域から百済が成立した。(×加羅が成立)
 ウ 馬韓地域から新羅が成立した。(×百済が成立)
 エ 日本列島に朝鮮半島から乗馬の技術が伝えられた。(〇)
 オ 日本列島に朝鮮半島から仏教が伝えられた。(×仏教公伝は6C)」〉

〈2014立大・法・経済(経済政策)・異文化コミュ:「
下線部(1)百済に関する次の出来事を年代順に並べたとき、3番目に古いのはどれか。次のa~dから1つ選べ。
 a.この国の名を「百残」としるした広開土王碑が建てられた(倭国侵入の391年など)
 b.唐・新羅連合軍に大敗したこの国を復興するため、ヤマトが軍隊をおくった(663年)
 c.馬韓諸国が統一された(4C中頃)
 d.任那四県の支配権を、大伴金村を介して認めさせた(512年)」
(答:d※c→a→d→b)〉

〈2013青山学院大・文

下線部d伽耶諸国に関連して、かつてこの地には三韓と呼ばれる韓族の小国家群のうちの一つが勢力を張っていたといわれるが、この地の東北部に勢力を張っていた韓族の小国家群である辰韓を統一し、10世紀に高麗によって滅ぼされた国は何というか。下から選んで、その番号をマークしなさい。
 (1)高句麗 (2)百済 (3)金官国 (4)新羅)」(答:4 ※356~935年〉

〈2012明大・文:「
朝鮮半島との関わりのなかでおこった出来事について述べた次の文1~3について、年代順に正しく配列したものを、下の(1)~(6)のうちから一つ選べ。 
 1.倭国の中央政権による朝鮮半島出兵の動きに対して、北九州の豪族が反乱をおこした。
 2.加耶(伽耶)地域の領有をめぐって新羅と対立していた倭国は、隋に使者を派遣した。
 3.百済と同盟関係を結んだ倭国は、海を渡って高句麗と戦った。」
 (1)1-2-3 (2)1-3-2 (3)2-1-3
 (4)2-3-1 (5)3-1-2 (6)3-2-1
(答:5 ※3好太王(位391~412)碑文-1磐井の乱は527年-2遣隋使607年など)〉

 

 

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