蒸し殺したい
(大化の改新)(左大臣・阿倍内麻呂(あべのうちのまろ)・右大臣・蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ))(国博士(くにのはかせ)・僧旻(そうみん)・高向玄理(たかむこのげんり))
[ポイント]
1.大化の改新では左大臣に阿倍内麻呂、右大臣に蘇我倉山田石川麻呂、国博士に僧旻と高向玄理が就任した。
[解説]
1.7世紀半ばに唐が高句麗に侵攻をはじめると、緊張のなかで倭は中央集権の確立と国内統一の必要にせまられた。
2.倭では、蘇我入鹿が厩戸王(聖徳太子)の子の山背大兄王を滅ぼして権力集中をはかったが、中大兄皇子は、蘇我倉山田石川麻呂や中臣鎌足の協力を得て、王族中心の中央集権をめざし、645(大化元)年に蘇我蝦夷・入鹿を滅ぼした(乙巳の変)。
3.そして王族の軽皇子が即位して孝徳天皇となり、中大兄皇子を皇太子、また阿倍内麻呂・蘇我倉山田石川麻呂を左・右大臣、中臣鎌足を内臣(うちつおみ)、旻と高向玄理を国博士とする新政権が成立し、飛鳥から難波にうつって政治改革を進めた。
4.阿倍内麻呂の娘は孝徳天皇の妃で有間皇子(ありまのみこ)の母。
5.『日本書紀』は大化の改新を律令国家体制への起点として描いている。しかし1960年代半ばから、改新は藤原不比等が父鎌足の業績を粉飾するために、律令国家体制の起点を改新に求めたものとする「大化の改新否定論」が出てきた。
6.藤原京出土の木簡により「郡」制以前に「評」制が行われたことが証明され、『詔』にある「郡」字は、改新当時は「評」でなければならないことが判明。これより改新の根拠である『日本書紀』の記述を全面的に信じることが出来なくなっている。少なくとも、『日本書紀』の語るようにまず「改新の詔」という周到な新政治のプランがあり、かつその直後改新のクーデタが行われた、とは信じがたい。
7.新政府にはゴロ句の4人の外に2人の主要人物がいる。すなわち皇太子の中大兄皇子、内臣(うちつおみ)の中臣鎌足(なかとみのかまたり)である。内臣は大化の改新の際に新設された左右大臣に並ぶ官職。令制にはなく職掌は不明。
8.またこの2人に改新のヒントを与えた人物として南淵請安(みなみぶちしょうあん)もはずせない。南淵請安(生没年不詳)は608年の遣隋使で隋にわたった学問僧。640年帰国後、中大兄皇子・中臣鎌足に中国の新知識を教え、大化の改新に影響を与えた。留学仲間の高向玄理・僧旻が政府に参加したのに請安が参加していないのは、その直前に死んだという説と、かれが蘇我氏配下の渡来人の出だったためという説とがある。
〈2016関西学院大学・全学部
[Ⅱ] 次の文章A・Bを読んで設問に答えなさい。答えを一つマークしなさい。
A.1乙巳の変の後、「改新の詔」が出され、基本的な政治方針が示されたといわれている。そこでは、2従来的な土地および人民支配のあり方が否定され、公地公民制が提起されるとともに、3行政区画の確定によって人民を地域的に支配すること、4戸籍・計帳による班田制を施行すること、5統一的税制を施行することがうちだされた。
問1 下線部1に関して、誤っている文を下記より選びなさい。
ア.中大兄皇子は、蘇我倉山田石川麻呂らと協力し、蘇我瑕夷・入鹿を滅ぼした。
イ.乙巳の変後、皇極天皇の譲位を受けて、孝徳天皇が即位し、飛鳥から難波に遷都した。
ウ.乙巳の変後、蘇我倉山田石川麻呂と中臣鎌足が左・右大臣の地位についた。
エ.旻と高向玄理は国博士として唐の諸制度の導人と制度化をはかることになった。
問2.下線部2に関して、正しい文を下記より選びなさい。すべて誤っている場合は、「エ」をマークしなさい。
ア.かつての天皇が置いた屯倉や、子代の民は存続を認められた。
イ.改新前の有力豪族は品部とよばれる私有民をもち、田荘とともに経済基盤としていた。
ウ.防人や衛士といった兵役制度は、改新前から整備されていた。
問3.下線部3に関して、誤っている文を下記より選びなさい。すべて正しい場合は、「エ」をマークしなさい。
ア.7世紀後半、地方行政組織として、各地に評が設けられた。
イ.「改新の詔」でいわれる「関塞」とは、唐・新羅の軍事的脅威に備えた施設である。
ウ.「改新の詔」では「山河を定めよ」として、地方の境界を定めることを命じている。
問4.下線部4に関して、正しい文を下記より選びなさい。すべて誤っている場合は、「エ」をマークしなさい。
ア.計帳とは兵役に就くものを選ぶための台帳であり、国ごとに作成された。
イ.最初の全国的な戸籍は、天智天皇の時代に作られた庚午年籍である。
ウ.庚午年籍に次いで、天武天皇の時代にも庚寅年籍と呼ばれる戸籍が作られた。
問5.下線部5に関して、正しい文を下記より選びなさい。すべて誤っている場合は、「エ」をマークしなさい。
ア.旧来の税制も廃されることはなく、並行して用いられた。
イ.田地に賦課する租と、各戸に課される庸・調の併用で、いわゆる人頭税はなかった。
ウ.後の大宝令では、田に対して収穫の約15%の税が課せられた。」
(答:問1ウ×右大臣→内臣(中≒内)、問2エ※ア×認められた→否定された、イ×品部→部曲、ウ×整備されていた→整備されていない、問3イ×※関塞は関所のこと、問4×庚午年籍→庚寅年籍、問5エ※ア×旧来の税制は廃止、イ×庸調は人頭税、ウ×約15%→約3%)〉
〈2014明大・国際日本(国際日本):「6.遣隋留学生として608年から640年に隋に渡り、帰国して国博士となり、下線部(イ)八省の政務分担の立案に関わった後、654年に遣唐使として入唐し、そこで死去したとされる人物を下記の1~4の中から選びなさい。
1.阿倍仲麻呂 2.阿倍内麻呂 3.玄 4.高向玄理」
(答:4)〉
〈2014立大・現代心理(心理)・コミュ福祉(コミュ政策・観光(交流文化)・経営(経営・国際経営):「
1.乙巳の変で蘇我氏が滅ぼされ、( イ )天皇が即位すると、中大兄皇子が中心となって、大化改新と呼ばれる1)政治の刷新が進められた。そのなかでも646年に出されたとされる改新の詔では、皇族や豪族がそれぞれに土地や人民を支配する制度を改め、公地公民制を実施する大原則が示された。こうして民衆には耕作地として口分田が国家から支給されることとなった。もちろん改新の詔で発せられた内容がすべてこのとき実現できたわけではなく、口分田の支給については、飛鳥浄御原令が施行された翌年に( ロ )という戸籍がつくられ、これを基礎としてようやく確立した。」
問1.文中の空所(イ・ロ)それぞれにあてはまる適当な語句をしるせ。
問2.下線部1政治刷新に関する記述として正しくないのはどれか。次のa~dから1つ選べ。
a.左大臣と右大臣の職が廃止となった
b.蘇我倉山田石川麻呂が自殺に追い込まれた
c.高向玄理と旻が国博士となった
d.難波長柄豊碕宮に遷都した」
(答:問1イ孝徳、ロ:庚寅年籍、問2a)〉