1は3文字であとは1文字。
51-60へいぜさじゅにも せよこうだ平城→嵯峨→淳和→仁明→文徳→清和→陽成→光孝→宇多
[解説]
1.光仁天皇(位770~781)は天智天皇の孫。62歳で即位。道鏡をしりぞけた藤原百川らがはかって、壬申の乱以後続いてきた天武天皇の血統による皇位継承を廃し、ふたたび天智天皇の皇統へ。
光仁天皇は、行財政の簡素化や公民の負担軽減などの政治再建政策につとめた。やがて光仁天皇と渡来系氏族の血を引く高野新笠(たかのにいがさ)とのあいだに生まれた桓武天皇が即位した。
光仁天皇の780(宝亀11)年には帰順した蝦夷の豪族伊治呰麻呂(いじのあざまろ)が乱をおこし、一時は多賀城をおとしいれる大規模な反乱に発展した。この後、東北地方では三十数年にわたって戦争があいついだ。
2.桓武(位781~806)・平城(位806~809)・嵯峨(位809~823)の各天皇は別項で詳述予定。
3.淳和天皇(位823~833)は、桓武天皇と藤原百川の娘の子。嵯峨天皇の弟。名は大伴(大伴氏は即位の翌日、天皇の名を避け伴氏と改めた)。漢詩文集『経国集』(827)、養老令の官撰注釈書『令義解』(833)をつくるなど文化政策に努めた。
4.仁明天皇(位833~850)は、嵯峨天皇の子。治世中、淳和天皇の皇子恒貞親王を皇太子としたが、承和の変(842)により、藤原冬嗣の娘順子との間に生まれた道康親王(文徳天皇)が皇太子とされた。
5.文徳天皇(位850~858)は藤原良房の画策により皇太子になったため、その治世は良房の政治介入を避けられなかった。第一皇子をさしおいて、良房の娘明子の生んだ第4皇子惟仁親王(のちの清和天皇)を生後8ヵ月で皇太子に立てられている。
6.清和天皇(位858~876)は、9歳で即位。後見役の藤原良房が事実上の摂政となる。しかし天皇自身も『貞観格式』の編纂にや学問の振興には積極的に関与している。27歳で譲位。
7.陽成天皇(位877~884)はわずか2歳で立太子、10歳で即位。乱行が絶えず、関白藤原基経により病気を理由に廃された。しかし長命で譲位後も65年生きた。『後撰和歌集』に収められた「筑波嶺(ね)の峰より落つるみなの川恋ぞつもりて淵となりぬる」は百人一首にも採録されている。
〈2014早大・人間科学
歴史書の編纂は平安京に遷都した後も継続され,『続日本紀』からf『日本三代実録』まで5つの勅撰の正史が残された。」
問6 下線部f『日本三代実録』に事跡の描かれた3天皇の組合せとして,正しいものはどれか,1つ選べ。
ア 淳仁・称徳・光仁
イ 清和・陽成・光孝
ウ 桓武・平城・嵯峨
エ 淳和・仁明・文徳
オ 宇多・醍醐・朱雀」
(答:イ〉
〈2013早大・文:「
平安時代に入ると、藤原良房が承和の変により、伴健岑・橘逸勢を排除した。また、応天門の変によって伴善男を排斥し、[ C ]天皇の摂政となった。ついで良房の養子の基経が関白となり、摂関政治の基礎を築いた。」
問4 空欄Cにあてはまる人物は誰か。1つ選び、マーク解答用紙の該当する記号をマークしなさい。
ア醍醐 イ文徳
ウ仁明 エ陽成
オ清和
(答:オ)〉