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漢書(かんじょ)地理志 班固 後漢書(ごかんじょ)東夷伝 范曄でん)・魏志倭人伝(わじん陳寿(好太王碑 長寿王・宋書(そうじょ)倭国伝 沈約
漢書(かんじょ)地理志 班固 後漢書(ごかんじょ)東夷伝(とういでん)・魏志倭人伝(わじんでん))(好太王碑文・宋書(そうじょ)倭国伝(わこくでん))
[ポイント]
1.日本古代史に関する中国・朝鮮重要史料は時代順に、漢書地理志→後漢書東夷伝→魏志倭人伝→好太王碑文→宋書倭国伝の5つである。
[解説]
1.漢書地理志:「夫(そ)れ楽浪(らくろう)海中(かいちゅう)に倭人(わじん)有(あ)り、分れて百余国と為(な)る。歳事(さいじ)を以(も)って来(きた)り献見(けんけん)(定期的に朝貢)すと云(い)ふ」
2.後漢書東夷伝:
(1) 57年に奴国(なこく)王が後漢の光武帝から印綬(金印と組紐(くみひも)のセット)を授かる。
(2) 107年に倭の国王帥升(すいしょう)が生口160人を献上した。
(3) 桓霊の間(=2世紀後半)、倭国大乱が起こった。
3.1784年、福岡県の志賀島(しかのしま)で「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」の5字が刻まれた金印が出土している(「委」の字が「倭」でないことに注意)。
4.魏志倭人伝
(1) 「倭人は帯方(たいほう)の東南大海の中に在(あ)り、……旧(もと)百余国、漢の時朝見する者有り今使役通ずる所三十国。郡より倭に至るには……邪馬台国(やまたいこく)に至る。
(2) 「大人(たいじん)-下戸(げこ)-」という身分差があり、「一大率(いちだいそつ)」という役所が伊都国など諸国の検察にあたり、「大倭(だいわ)」が国々の市を取り締まった。
(3) (景初二年は三年の誤りで)239年に邪馬台国女王卑弥呼が魏に大夫(たいふ)・難升米(なしめ)らを遣使し、『親魏倭王』の称号と銅鏡を受ける。
(4) 卑弥呼の死後、男王では治まらず、卑弥呼の宗女壱与(いよ)年十三なるを立てる。壱与は266年に西晋へ遣使。」
5.邪馬台国について畿内説をとれば3世紀半ばには統一政権成立、九州説をとるとまだ一地方政権ということになり、統一政権成立に半世紀のずれが生じる。
6.広開土王碑文:391年から404年まで、倭が断続的に高句麗と戦った。
7.宋書倭国伝:478年の倭王武をはじめ倭の五王が南朝に朝貢していた。
[正誤問題]
1.魏志倭人伝では、倭人は楽浪(郡)の東南大海の中にあると記述している。(×帯方(郡)の誤り)
〈2015早大・人間科学
問4 下線部d中国の皇帝へ朝貢を行い、それを日本列島のなかでの自らの権威強化に利用しようとする者も出てきたに関連する記述として、誤っているものはどれか、1つ選べ。
ア『漢書』地理志には、倭人が定期的に楽浪郡に朝貢していたことが記されてる。
イ『後漢書』東夷伝には、倭の奴国王が金印を授かったことが記されている。
ウ『後漢書』東夷伝には、倭の国王帥升が奴隷を献上したことが記されている。
エ『魏志』倭人伝には、邪馬台国の女王卑弥呼が親魏倭王の称号を授かったことが記されている。
オ『魏志』倭人伝には、邪馬台国が、伊都国との戦争に際し魏の皇帝の権威を利用したことが記されている。(×※伊都国は邪馬台国(連合)内の一国で敵ではない)」〉
〈2013青山学院・文教育経済法経営など
5世紀になると、日本列島の王は、中国大陸の王朝にしばしば使者を派遣するようになった。たとえば[ ア ]によると、倭王珍は中国の南朝に使者を送り、次のように特別な官名を求めたことが知られる。」
問1.空欄[ ア ]に入る語句として正しいものを、次の1~4の中から一つ選んでマークしなさい。
1『後漢書』東夷伝 2『魏志』倭人伝 3『漢書』地理志 4『宋書』倭国伝」(答:4)〉
〈2013早大・国際教養
問2.卑弥呼の死後、再び倭国は大いに乱れたが、[ A ]があとを継ぐと、乱はおさまった。空欄[ A ]に該当する人名を漢字2字で記述解答用紙に記せ。(答:壱与)
問3.下線部b好太王碑文が所在するのは現在の中国のどこか。1つ選んで、マーク解答用紙の該当記号をマークせよ。
ア遼寧省 イ山東省 ウ吉林省 エ黒竜江省 オ河北省)」(答:ウ)〉