一派やになるベグ、ウィッシュ。
(伊藤博文・1882年)(ベルリン大学・グナイスト)(ウィーン大学・シュタイン)
[point]
1.伊藤博文は1882年に渡欧し、ベルリン大学のグナイスト、ウィーン大学のシュタインから憲法理論を学んだ。
[解説]
1.政府は1882(明治15)年に、伊藤博文らをヨーロッパに派遣して憲法調査にあたらせた。伊藤はベルリン大学のグナイスト、ウィーン大学のシュタインらから主としてドイツ流の憲法理論を学び、翌年帰国して憲法制定・国会開設の準備を進めた。
〈2017慶大・経済
問4(2)大日本帝国憲法に関する次の1~4の文章の中から、誤りを含む文章を1つ選びなさい。
1.伊藤博文は、明治十四年の政変後、憲法調査のためにヨーロッパに赴き、ベルリン大学のグナイスト、ウィーン大学のシュタインらからドイツ流の憲法理論を学んだ。
2.政府の憲法草案は、ロエスレルらの助言にしたがって、交詢社案をたたき台にして伊藤博文、井上毅らが起草し、内閣の諮問機関である枢密院で審議された。
3.帝国憲法は、天皇が定めて国民に与える欽定憲法だったが、千葉卓三郎らの五日市憲法草案や植木枝盛の東洋大日本国国憲按も立憲君主制をとるものだった。
4.帝国憲法では、陸海軍の統帥権は、内閣からも独立して天皇に直属するものとされ、また各国務大臣は、議会にではなく天皇に対してのみ責任を負うものとされた。」
(答:2×「交詢社案をたたき台」「内閣の諮問機関」の部分が誤り。枢密院は憲法草案の審議のために設置。)
〈2014明大・情報コミュ
「問2 下線部(ア)法制度の整備に関する説明として、もっとも正しいものを、次の1~4のうちから1つ選べ。
1 山県有朋を中心とする地方制度改革には、シュタインやモッセの助言を得た。
2 憲法草案作成の際、極秘に来日したグナイストやロエスレルの助言を得た。
3 西南戦争終結の翌年、伊藤博文らはヨーロッパでの憲法調査に当たった。
4 政府の依頼で法制度等の調査にあたったフルべッキは、伝道者でもあった。」
(答:4 ※1・2×シュタイン・グナイストは憲法以外に関与せず、来日もしていない、3×伊藤の憲法調査は明治十四年の政変の翌年1882年)〉
〈2014明大・全学部
問7 史料Bの演説を行った総理大臣(黒田清隆…註)に関する説明として正しいものを、次のA~Dのうちから一つ選べ。
A 第一回帝国議会において、「利益線」を確保する予算の必要性をとなえた。
B 憲法制定に先立ち、渡欧してグナイストやシュタインから学んだ。
C 開拓使の長官として北海道の開発を推進し、官有物払い下げをはかった。
D 大蔵卿・大蔵大臣としてデフレ政策を実施し、不換紙幣を整理した。」
(答:C ※Aは山県有朋、Bは伊藤博文、Dは松方正義)〉