高貴要綱 すこ要領。
(国策の基準 帝国国策要綱 帝国国策遂行要領)
[point]
1.日本の国防方針は、国策の基準→帝国国策要綱→帝国国策遂行要領と推移した。
[解説]
1.広田弘毅内閣は1936年、ワシントン・ロンドン両海軍軍縮条約の失効に対応し、帝国国防方針の改定をおこなった。これを「国策の基準」という。陸軍は北進論(対ソ戦)を、海軍は南進論(南洋諸島および東南アジアへの進出)を主張したため、両論を併記した。
2.第2次近衛内閣は1941年4月、帝国国策要綱を決定した。すなわち海軍の主張する南部仏印進駐と、陸軍の主張する対ソ戦準備=関東軍特種演習の、2正面作戦(南北併進)を決めた。
3.第3次近衛内閣は1941年9月、帝国国策遂行要領を決定した。即ち、10月上旬になっても日米交渉が妥結しないときは、米・英・蘭との開戦を決めた。しかし10月、対米強硬の東條(条)英機陸相と対立し、近衛は内閣を投げ出し総辞職してしまう。
〈2017関西大・全学部
問J【(ア)林銑十郎(イ)近衛文麿(ウ)広田弘毅】内閣は、帝国国防方針の改定に伴い、「国策の基準」によって、大陸における日本の地歩を確保する一方で、南方へ漸進的に進出する方針を決定した。」
(答:問Jウ)〉
〈2017早大・文
1939年,日本が日中戦争を全面化させ、「[ C ]」の形成をすすめると、アメリカは[ A ]条約の廃棄を日本に通告し、1940年、石油・屑鉄の対日輸出を制限して、中国への援助を強化した。日本は武力南進態勢を固める一方、1941年、c.外交交渉で日米両国の対立を調整しようとはかった。しかし、御前会議で日米交渉が成立しなければ開戦に踏み切るとの「[ D ]」を決定し、12月8日、アメリカ・イギリスに宣戦布告して、戦争に突入していった。1942年、アメリカは日本に対する反攻作戦を本格化し、1944年後半から日本本土に対する空襲が激しくなった。
問2 空欄Aにあてはまる語句を漢字6字で記入しなさい。
問5 空欄Cにあてはまる語句を漢字5字で記入しなさい。
問6 下線cに関連する説明として誤っているものはどれか。1つ選べ。
ア 交渉は野村吉三郎と国務長官ハルとの間ですすめられた。
イ 第2次近衛内閣は対米強硬論の東条英機陸相を除くためいったん総辞職した。
ウ 交渉を継続しようとする近衛首相と打ち切りを主張する東条英機陸相が対立した。
エ アメリカ側はハル=ノートで満州事変以前の状態に復帰することなどを要求した。
オ 日本側はハル=ノートを最後通告とみなし、交渉は不成功と判断した。
問7 空欄Dにあてはまる語句を漢字8字で記入しなさい。」
(答:問2A日米通商航海、問5C東亜新秩序、問6イ×東条英機陸相→松岡洋右外相、問7帝国国策遂行要領)〉
〈2017関西学院大・全学部2/2
問9 次のa・bの正誤を判断せよ。
a ドイツがソ連に侵攻を開始すると、日本は日ソ中立条約を締結する一方、資源確保のために北部仏印進駐を実行した。
b 日本の南部仏印進駐以降さらに悪化した対米関係について、期限を切って交渉が成功しない場合は開戦に踏み切るという、帝国国策遂行要領が御前会議で決定された。」
(答:a×日ソ中立条約→独ソ戦争の順、b〇)〉
〈2017立教大・文
盧溝橋は、元朝の開祖であるフビライ=ハンに仕えたマルコ=ポーロによって、賞賛された石橋である。(10)1937年、この橋付近で起きた日本軍と中国軍の衝突事件をきっかけとして日中戦争が始まり、戦争は長期化していった。
問10.これより後の出来事はどれか。次のa~dから1つ選べ。
a.第1次上海事変が起こった
b.国民政府が首都を重慶に移した
c.張学良により西安事件が起こされた
d.広田弘毅内閣が北進論と南進論を併記する「国策の基準」を発表した」
(答:b1937年12月、盧溝橋事件は同年7月7日 ※a1932年、c1936年、d1936年)〉
〈2016明大・商
1936年、広田弘毅内閣ではさらなる大陸や南方進出を促進するために、帝国国防方針を改定し、いわゆる「[ オ ]」を策定した。「[ オ ]」には南方資源の獲得のための「南進論」と満州国領上を拡張するため対ソ戦をも視野に入れた「北進論」の両拡張政策が併記されていた。共産主義の影響力増大は日本の「国体」を揺るがすものとして大きな脅威ととらえられた。軍事拡張主義を保持しながらソ連による共産主義勢力の拡大から守るという利害が日独間で一致し、日独防共協定が締結された。さらに「ベルリン=ローマ枢軸」のドイツ・イタリアのつながりから、防共協定にイタリアも加入することにより、1937年、日独伊防共協定が成立した。」
(答:オ国策の基準)〉
〈2015関西大・全学部
(J)1936年の(11){(ア)帝国国防方針(イ)帝国国策要綱(ウ)帝国国策遂行要領}の改定にもとづいて、広田弘毅内閣は「国策の基準」で従来の対ソ戦略に加え、南方へ漸進的に進出する方針を決定し、軍備増強を推進した。」
(答:ア)〉